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神崎涼子は夕方の商店街が好きだ。特に晩秋から初冬にかけての夕刻には独特の雰囲気がある。そう、あの季節、クリスマス。
夕暮れ。買い物客の雑踏。控えめに流れるクリスマスソング。涼子はただアーケードの下を歩く。そしてお気に入りの雑貨店に入る。棚に並ぶ商品を眺めたり手に取ったりして夕刻のひと時を過ごすのだ。
涼子は東京で生まれ、東京で育った。大学を出るとウェブメディアの一つ、ウェブ・フィードに編集者として就職した。そこでネットの情報を収集し、記事を作っていた。ネットに溢れる玉石混合の情報を、涼子は毎日毎日見続けた。そして疲れてしまった。
ある日、涼子は一人で愛媛県に旅行した。そしてそこがとても気に入った。ここに住みたい。ここに住んで仕事をしたい。涼子の決心は固かった。両親を説得し、仕事の目途をつけ、たった一人で松山市に移住してしまったのだ。
あれから三年。ここでもいろいろあった。移住してきたころに比べて仕事での付き合いは増えたが、一緒に街歩きを楽しめるような友人を、涼子はまだ持ってはいない。
金曜日。
涼子は仕事を早くに切り上げて松山市の繁華街の一つ、銀天街に来ていた。そこにお気に入りの雑貨店があるからだ。違う通りを歩けばコンビニが並んでいる。今日のこの時間帯なら、サンタ姿の店員が声を涸らしてケーキ―やチキンを売っているだろう。そう、 明日はクリスマスだ。
銀天街には大街道から松山市駅へと、あるいはその逆方向へと街歩きを楽しむ買い物客が流れる。涼子の仕事場は大街道の雑居ビルにある。今日のような日は、そこから大街道、銀天街と歩き、松山市駅から郊外電車に乗って帰宅する。
大街道から銀天街に入ってすぐに、涼子がお気に入りにしている雑貨店はある。奥行きのある割と大きめの店舗だ。買い物客で賑わう店内に涼子は足を踏み入れる。目をつけていたマグカップがあるのだ。深い藍色に銀粉を疎らに散らし、その中央を流星が流れている。そんな図柄のマグカップだった。あれはもう売れてしまっただろうか?
取り置きしてもらう事は頼めばできた。買うのに十分なお金もいつも持っていた。つまりは踏ん切りがつかなかっただけなのだ。今日は買おう。涼子はそう決めて店を訪れた。買い物客をかき分けて目当ての棚にたどり着く。あった。まだ売れていない。手を伸ばす。そして触れた。別の手に。
「失礼」
その青年は言った。咄嗟のことで涼子は言葉が出ない。ただ頷く。青年が棚からマグカップを取る。そしてそれを涼子に差し出す。
「どうぞ」
「いいんですか?」
「いいんです」
その言葉を受けて涼子はマグカップへと手を伸ばす。伸ばした手の先に涼子の視線は固定される。よく見ると青年は背が高い。長身の涼子より十センチ以上はある。そして若い。大学生くらいだろうか。端正な顔立ちで、どこか異国の匂いを感じる灰色の瞳。涼子がしげしげと青年を見つめていると彼は言う。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ……」
涼子は慌てて顔を伏せる。その拍子に、マグカップをつかみかけていた手が離れる。マグカップは誰の手の支えも失う。派手な音を響かせてマグカップは床で砕けた。店員がやってくる。青年が店員に言う。
「すいません」
「お怪我は無いですか?」
さすがに訓練された店員の対応は違う。涼子は他人事のように青年と店員のやりとりを眺めていた。
涼子と青年は雑貨店を出た。割れたマグカップの代金は青年が支払った。涼子は全て払うと主張したのだが青年も譲らなかったからだ。二人のやりとりは言い争いになってしまった。困惑している店員に気づいて涼子が折れたのだ。
涼子と青年は近くの喫茶店に入った。お礼にと涼子が誘ったのだ。テーブル席に落ち着くと涼子は言った。
「ここはわたしに払わせてね」
「いいえ、自分の分は自分で払います」
「そんなこと言わずに」
「いいえ」
涼子は溜息を吐く。
「頑固ね……」
「よく言われます」
青年が頭を掻く。店員が注文を訊きに来た。二人ともブレンドコーヒーを注文する。店員が去ると青年はもじもじし始めた。涼子は訊く。
「何か言いたいことがあるんじゃないの?」
「はい……」
「何?」
涼子の問いに青年は急に姿勢を正す。そして思いもかけないことを口にする。
「実はぼく、クリスマスイブを繰り返す世界線から出られないんです」
「え?」
惚けた声を出してしまった涼子に青年は繰り返す。
「だから、クリスマスイブを繰り返す世界線から出られないんです」
「それって、毎日がクリスマスイブってこと?」
「そうです」
「なんだか楽しそうな世界ね」
「本気でそう思いますか?」
青年は気分を害したようだ。涼子は本音を言う。
「ごめん。でも信じられないの」
今度は青年がため息を吐いた。
「そうですよね……」
それっきり、二人とも黙り込んでしまった。
店内に流れるクリスマスソングが何曲目かになったとき、涼子の方から口を開いた。
「どうやって暮らしてるの?」
青年は答える。
「お金が減らないんですよ。朝になったら財布の中身が元に戻ってる」
「ああ、それでさっきもここも払うって言ったんだ」
「そうです」
「他はどうしてるの? 食事とか、入浴とか、家事とか、いろいろ」
「普通ですよ」
「普通?」
「普通です。ぼくは普通に暮らしているんです。クリスマスイブを繰り返しているのは、ぼくのまわりの人たちです」
「学生さん、よね?」
「はい」
「今は冬休み?」
「はい」
「アルバイトとかは?」
「今はしてません」
「そうよね……」
店員がブレンドコーヒーを運んできた。淹れたてのコーヒーの香りが二人の間に漂う。店員が去って行った。青年が口を開く。
「お願いがあります」
その言葉の先はわかっているのだが涼子はあえて訊く。
「何かな?」
「ぼくをこの世界線から連れ出してくれませんか?」
やっぱりそうか。涼子は頭を抱える。
「だめですか?」
視線を合わせれば青年の懇願を断れなくなる。だから涼子はうつむく。
「ばくはおかしいと思います? それとも質の悪い冗談だと?」
「いいえ……」
涼子はうつむいたまま首を横に振る。そして顔を上げる。青年と目が合った。懇願するその目。涼子は言ってしまう。
「わたしは何をすればいいのかな?」
涼子は青年の反応を見る。青年は何か言い難そうにしている。涼子が見つめていると、おずおずと口を開いた。
「一緒に過ごしてくれませんか? 今夜」
そう言った青年の顔は少し赤らんで見えた。
これは体のいいナンパじゃないのか?
すぐ近くだと言う青年のアパートに向かいながら涼子は考えていた。クリスマスイブを繰り返す世界線なんてあるわけが無い。だけど、青年が嘘を言っているようには思えない。だとしたら答えは一つだ。青年は狂っている。
涼子は足を止める。急に怖くなってきた。目の前には青年の背中がある。彼も足を止めた。振り返る。その目は、まるで泣いているように見えた。
「やっぱり、信じてくれないんですね……」
「ごめんなさい……」
涼子は顔を伏せ、踵を返す。走りたい衝動を抑えながら涼子は歩く。振り返らずに。青年は追いかけてこなかった。
その夜、涼子は深酒をして布団に入った。今日の出会いを忘れたかった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。涼子は目が覚めた。静かだ。何の音もしない。涼子の聴覚が研ぎ澄まされる。そして聞こえた。ドアポケットに何か軽いものが落ちる音を。涼子はおそるおそる玄関に向かう。なるだけゆっくりと、できるだけ音をたてないようにドアポケットを開ける。それはふわりと落ちた。カードだった。涼子はそれを拾い上げる。漫画チックなトナカイとソリ、それにサンタの絵柄。クリスマスカードだ。裏面を見る。そこには見たことの無い異国の言葉。
Olen pahoillani siitä vaivasta, jonka aiheutin sinulle tänään. Ulkomailla opiskelevalta joulupukilta.
(本日ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。留学中のサンタクロースより)
その時、涼子は遠ざかるトナカイの鈴の音を確かに聞いた。
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