第一章1「夢……」

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第一章1「夢……」

 イジメ、暴力、DV、etc……。最愛の妹の突然の失踪事件に金銭のトラブル。  弱冠十七歳にして、人生のドン底を味わっていた遠い日の辛く、苦い記憶。  十七年分の記憶が暗闇の中を過ぎ去っていく。  肉体的にも、精神的にも、限界はとうの昔に超えてしまっていて……今、あの時の現場に彼は舞い戻っていた。  排気ガスの匂いが鼻腔を突く。ひどく懐かしく、郷愁を覚える香り。向こうとは異なり、空気の汚れが顕著に現れている。自動車が道路を行き交い、人の靴音と話し声の喧騒が耳朶を打つ。  ビルの屋上、ひび割れたコンクリートを両足で踏みしめる少年の眼下には、昔見た光景がクッキリと映し出されていた。 「戻って……来た?」  ぽつりとそう呟いたのは、中性的な見た目の美少年だ。年の功は十七ほどで、身長は平均よりやや高め。  日本人離れした容姿、一見すると普通の黒髪のようだが、よくよく見れば、若干青色が混ざっていると分かる頭髪。さらに、前髪の一部分は真っ白に染まっている。  切れ長の瞳で、双眸の色も黒に近いが、紫がかっていた。  優れた容姿をしているが、その美しい相貌も陰鬱な表情と、死んだ魚のような目をしていれば台無しだ。  決して日本人とは言えないその少年は、鼻腔を突いた十六年ぶりの排気ガスの香りに顔を(しか)めた。 「この場所は……」  少年は一歩、一歩と足を進め、屋上の端まで行く。下には赤茶けた地面、歩道を行き交う人々に、立ち並ぶ住居。文明が発達した、科学で彩られた世界。  この光景を少年ははっきりと記憶している。忘れられない、忘れるはずがない。  何故ならそこは、少年が()()()()()()なのだから。 「今更こっちに戻ってこれても、意味なんか……」  足元のコンクリートへと視線を落とし、少年はため息を吐く。そうだとも、意味など無い。そもそも、こっちには嫌な思い出が九割五分。残りの五分もあの日から失ってしまった。  もとより、こちらの世界に戻る理由も未練も何一つ無い。だからこそ、あっちでは生きていこうと思えた。  それでも、向こうでも生きる意味すら失ってしまったのだから。  だから、彼は……だからこそ、彼は……。 「っ!」  そこで、彼は気づいた。先程から鼻を突いていた匂いが、排気ガスなどでは無いと。この匂いは、肉が、木材が焼け焦げる匂い。  がばっと顔を上げた少年の目を焼いたのは(くれない)。  家屋は焼け落ち、人々は逃げ惑う。悲鳴と泣き声の大合唱が彼の鼓膜をガンガンと打ち、燃ゆる赫が、彼の肌をジリジリと焼く。  懐かしの景色は全て焼け落ち、別の物へと移り変わる。  人の悲鳴と逃げる足音はそのままに、舞台は変わり、新たな騒音が加わっていく。 「あっ、あぁ」  掠れた声が喉からもれた。目を極限まで見開き、後退る。手足が痙攣し、全身を強ばらせる。喉の奥も全てを焼き消す赫に炙られ、鋭い痛みが走る。呼吸が荒く、浅くなっていく。  いつのまにか、最初に見た景色は全て消え失せ、別の場所へと変わっていた。その場所も、燃えて、燃えて、燃え尽きていく。  終わっていく世界、終わってしまった世界、……終わらせてしまった世界。  獣の咆哮が人の悲鳴を呑み込み、一方的に蹂躙されていく無力な人々。  楽しかった日々が、嬉しかった日々が、幸せだった日々が、大好きだった、愛していた人達が、物言わぬ骸へと、風に流される灰へと、姿を変えていく。  全てを焼き尽くす業火が、生命力を奪い取る漆黒の枝が荒れ狂い、大切な場所と人を彼からむしり取っていく。  滂沱と涙を流し、ただ何も出来ないまま、その光景を見せつけられて……、 「どうして、助けてくれなかったの?」  声が、聞こえた。ノイズ混じりの声が、揺れる骸達がカシャカシャと音を立てて、彼を責め立てる。 「やめてくれ」  否定の言葉を口にし、(かぶり)を振るって声を遠ざけようとする。  それでも、疑問と怨嗟の声が止む事はない。 「どうして、助けてくれなかったの?」 「やめて……くれっ」  両手で耳を塞ぎ、その場にうずくまって塞ぎ込む。しかし、それすらも押し退けて、声が届く。 「どうして、守ってくれなかったの?」 「やめて……」  目を閉じて、視界を遮る。何も見たくない、何も聞きたくない、何も考えたくない。  やけにリアルな『熱』と『恐怖』が全身を支配する。  この後に起こる事を歓迎する理性と、怯えを叫ぶ本能が、相反する二つの思考が彼の頭を駆け巡る。  そのうちに、燃える骸は彼に近づいて彼の首に手をかけた。 「どうして……レンだけ生きているの?」 「あああああああ!!」  絶叫し、首にかけられた指を解き、逃げ出した。                     △▽△▽△▽ 「っ―――!!」  思わず叫びそうになりながらも、なんとか声には出さず、彼はベッドから跳ね起きた。  魔刻砂(まこくさ)――円形に十二本の細い砂時計が並んでいる魔道具――を見れば、五本目の砂が落ちていて、いつも起きている時間を示していた。 「はあっ、はあっ、はあっ」  寝ていたというのに荒くなっていた呼吸を整え、額の汗を拭う。  心臓の鼓動がうるさい。寝汗が酷く、最悪な目覚めだ。  ――いや、この目覚めも、今ではもはや日常の一部になっていたか。 「それでも、慣れることなんて永遠に来やしないだろうけど」  誰に聞かせるわけでもなく、口の中だけでボソリと呟く。ここ三年、こんな夢ばかりを見てきた。  しかし――、 「何で、あの時の事が……」  (てのひら)で顔を覆い、深々と息を吐く。今まで何度も同じ物を見てきた。ただ、今回のはいつもと違った。  本当に昔の事、藺月水仙(いづきみなひさ)という人物が死んだ日の事を、何故今になって夢に見たのか。  特段、自分は迷信や占いといった事は信じない方だが、何故かこの夢には意味がある気がしてならない。  確かに、この世界に来てから前世の事を夢に見た事は最初の頃はよくあったが、ここ十数年、一度もこんな事は無かった。突然、今になって何故こんな夢を見たのか。 「そういえば、今日は死んでからちょうど十七年……か?」  彼がこの世界で目覚めたのは、死んでからズレがあり、正確には違うだろうが、日数的には大体そのぐらいだ。  胸にしこりが残る感覚を味わいつつも、過去の自分の命日だからと、そうやって理由をつけ、覆っていた手でそのまま前髪を掻き揚げ、彼――レンはこれ以上その事について考えるのをやめた。
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