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カムイ岬の雪 七、
男の目には、いつの間にか涙が浮かんでいた。
それが、一粒一粒静かに頬を流れていった。
男の手には、先程狼を取って喰おうとして辞めた時の短刀が握られていた。
その短刀は、所々汚れてほつれたりしてはいるが、刃はまだ綺麗な方だ。
おい、もういいかのう────?
男は、海に向かって問うた。
彼の瞳には、目の前にいる自分の妻が見えていた。
彼にしか見えぬ、幻だった。
彼の妻も子も、夜襲で殺されてしまっていたのだ。
男の目の前で────。
自分だけ、こうして生き延びてしまった……!
もう、良いですのよ。
おいでなさいな。
皆、お前さまを待っていますのよ。
子供達もみんな……。
おおおおおうぅぅぅぅぅ……っ!!
男の瞳に、涙が泉のように溢れ出てしまっていた。
目の前の妻に、思わず短刀を持っていない手を伸ばした。
男の脚に、力が湧き出る。
届かない…………!
男は、そのまま岬から空に足を踏み出した。
踏み出したその先に、男を待っていたものは────。
懐から取り出した短刀が煌めく。
頸動脈に刃を当てる。冷たい感触。
落下する感覚に、下から来る風に煽られた。
男の風が一瞬無重力の状態に陥り、短刀を持つ手に力が入って…………
スッと首筋に、男は刃を引いた。
男に、虚無が訪れて……
白と黒だけの冬の海に、一瞬紅い花が咲いたように見えた。
でも、それは一瞬に溶けるように消えた────。
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