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「僕の前がいいな! ね、西山さん。僕の前に座って下さいよ」
白崎に言われ、千佳はおずおずと彼の前の席に腰を下ろした。彼は昨日とは別物らしいつなぎ(染みの位置が違う)を着ている。
「君の顔はやっぱり素敵だ。僕、とても好きです」
白崎が微笑む。その顔を直視できなかった。
こうまでストレートに誉められた経験がないので、気恥ずかしくて仕方がない。心にヘリウムガスが注入されて、風船みたいにどこかへ飛んでいってしまいそうになったが、小早川の咳払いで地上にとどまった。
「ねえ小早川君、いいでしょ? 西山さんを雇っても」
「そんなに簡単に決めないで下さいよ。我々はまだ西山さんがどんな人かも知らないですし、西山さんだって我々のことを知らないじゃないですか」
白崎はちょっと不満そうに唇をとがらせると、千佳の方に向き直った。
「西山さん! うちで働くでしょ? そのために来てくれたんですよね」
「そ、その、私……」
本気で雇ってもらうつもりで来たのかと問われると頷けない。あまりに突飛な話だから、本気にしていなかったのだ。
じゃあ、何故訪問したか。もう一度この人に会いたかっただけ。本当にそれだけだったという事実に気づいて、千佳は狼狽した。
会いたいなぁって思って、来ちゃいました! だなんて。
ありのまま話せば、非難されるに決まっている。奥のデスクに向かっている、気難しそうなマネージャーに。すでに小早川は、猜疑の光が宿る瞳でこちらを睨んでいるではないか。
「さっき小早川さんが仰ったように、詳しいことはまだ何も伺ってないので、とりあえずお話を聞いてみようと思って……」
もじもじと手を動かしながら必死でそれらしいことを口にする。
小早川はそんなしどろもどろな千佳を目を細めて見つめていたが、「履歴書はお持ちですか。口頭で説明していただいても結構ですが」と言ってきた。
転職活動中ということで、書き損じた履歴書や書類などが入ったファイルが鞄のままに入ったままだ。
「ちゃんとしたものではないんですけど」
「結構です。経歴がわかればいいので」
と小早川は履歴書を受け取る。
「先生もご覧になりますか」
「いいよ。僕は彼女の顔が好きで、それだけで十分だもの」
白崎が興味を示さないので、千佳の履歴書に目を通すのは小早川だけとなった。
小早川が手にしている紙切れを、千佳は何とも言えない気持ちで眺めた。
自分の履歴書が好きではない。
最終学歴は短大の英文科。持っている資格は、英検二級、簿記三級、漢検準二級、普通自動車免許。仕事も長続きしていない。
ぱっとしない経歴だ。自分でも誇れる部分がなく、だから面接を受けても落ちるのだろう。
「なるほど」
小早川が呟く。どういった意味での「なるほど」なのか。多分、「なるほど、ぱっとしない」だろう。
自分でもそう思うのだから、彼のようないかにも仕事ができそうな人種から見れば余計にそう感じるに決まっている。
小早川はおそらく、奈々と同じように、自分の人生をしっかりと歩んでいる人間だ。思考するべき時に思考し、現実から逃避せず、必要な計算を欠かさず、適切なプランを立てている。そういう人は自信が顔つきに表れている。
千佳はいつも、そんな自分と違う人種を見ると気後れしていた。履歴書だった見せたくなかった。自分が空っぽな人間だと、バレてしまうのが怖くて。
生きていくためにとりあえず、仕事をしているんです、私。向上心もプライドも、目標もないんです。
「まあまあ、小早川君。そんな紙切れ一枚で人間のことなんてわかりゃしないよ」
「それはそうですけど、人間は会ったばかりではわからないから、この紙切れ一枚である程度の判断を下さなきゃならないんですよ」
続いて小早川は、住み込み家政婦の仕事について簡単に説明すると言った。千佳が来るまで二人で話していたのは、その詳細についてだったらしい。
「少々お待ち下さい」
小早川はデスクに向かってキーボードを叩く。白崎はおでんを食べ終えた食器を持って部屋を出て行った。
書類がプリントアウトされ、千佳に渡される。
そこには、大体の雇用契約の内容が書かれていた。驚いたのが、思いの外高給なことだ。それとなく尋ねると、「一般的に住み込みの家政婦の月収はこれくらいですよ」との答え。
前職の給料よりは格段に良い。
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