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「白崎さん、一つだけわがまま言ってもいいですか?」
「いいとも! 何ですか?」
「白崎さん、画家さんなんですよね。その……絵を、見せていただけないかな、……って」
自分で口にしておきながら千佳は仰天して目を見開いた。だって、「絵」だ。絵を見たいはずがない。
それでもついお願いしてしまったのは、しみついた忌避感を好奇心が上回ったからかもしれない。玄関からここに至るまで廊下にも部屋にも絵は飾られていなかった。この風変わりな人が描く絵は、どんなものなのだろう。
もしかしたらもう再会も望めないのかもしれないし、見る機会は訪れないかもしれないのだ。
「ダメですよ」
即座に返事をしたのは小早川だ。
「いいじゃないの、ちょうど描きかけのがある」
「完成していないとはいえ、クライアントのものなんですよ」
「あれって、個人向けじゃなかったよね。一般向けでしょう?」
「……そうですけど」
「じゃあ、いいじゃないか。彼女も気に入る系統のはずだし。西山さん、ついてきなよ。見せてあげよう」
二人の会話の内容はいまいち千佳にはわからなかったが、小早川が渋い顔をしているので図々しく願い出たのを申し訳なく思った。が、興味が勝って内心喜ぶ。
「小早川君は寝てきたら?」
「そんな暇ないですよ。これから別のクライアントと打ち合わせがあるんです。それに、先生が先日怒らせた胡散臭い芸能プロダクションの社長を黙らせるために、弁護士とも打ち合わせが」
何やら剣呑な話だ。白崎は肩をすくめた。
「ほうっておけばいいじゃないか、あんな男」
「そうはいきませんよ!」
また唐突にスイッチが入った小早川はいきり立ち、デスクを叩く。
「あいつは先生を侮辱したんです、絶対に許しません! 『名前も聞いた覚えのないような画家が、詐欺まがいの方法で客から金を巻き上げてるんだろう』って笑ったんですよ。『それとも、顔が良いからパトロンから小遣いを貰ってるか』って。訴えてやろうかってふっかけてきたのはあいつなんです。ろくな商売していないんだろうから、あの社長の悪事を暴いてやりますよ。目にもの見せてやる」
「でも僕は気にしてないよ」
「僕が怒ってるんですよ!」
小早川の怒りは激烈だった。先ほど気に障ったのも、抱えているトラブルを思い出すような言葉だったからなのだろう。
「白崎先生を貶める輩は僕が全員地獄へ送ってやる。後悔するがいい、あのでくの坊め!」
狂気を目に宿らせた小早川は、千佳よりさきに部屋を出ていってしまった。
幾重にも重なるトラブル(主人の住み込み家政婦スカウト問題も当然含まれている)で神経がすり減っているのかもしれないが、今の目つきは狂人一歩手前だった。
部屋に残された白崎と千佳は、しばし顔を見合わせた。
「僕のことが絡むとたまにおかしくなるけど、彼は本来常識人なんだよ、西山さん。ただちょっと、真面目故に、愛が重いんだ」
「ええ、なんとなくわかります」
この邸宅は二階建てだが、アトリエに使っている部屋は一階にあった。白崎の話によると、アトリエは何部屋かあるらしい。
「どうぞ、西山さん」
案内されて、千佳は部屋に入る。
油絵の具独特の匂いがそこには満ちていた。高校の選択授業で美術を選んだ千佳も、嗅いだ記憶のあるものだ。
部屋に家具はほとんどなく、床は板張りで、殺風景だった。素朴な木製の丸椅子が一つ。それに、イーゼルに立てかけられた大きなキャンバスが存在感を放っている。
さっきまで作業をしていたというような雰囲気で、筆もそこらに置かれたままだ。
絵が目に入った瞬間、千佳の呼吸は止まった。
「描きかけだから、披露するようなものでもないんだけどね」
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