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「大体さぁ」
卓也が煙草に火をつける。
私が働いたお金で買った煙草。それがどんどん灰になる。
千佳は煙草が苦手だった。けれど、卓也のことが好きだから臭いも我慢できた。
立て膝で煙草をふかす卓ちゃんの姿って、格好良くて。
それなのに何故だろう。今日はいつも以上に煙の臭いが鼻につく。
ボサボサの髪に上下スウェットで立て膝。
これってカッコイイのかな? だらしないようにしか見えなくない?
「お前、実家に泊まるっつったろ。予定変わったなら連絡入れろよな」
連絡入れたら、女の人、出て行かせて、私に浮気がバレずに済んだもんね。
ああ、まただ。ぐらぐらぐらぐら、揺れている。
卓也と会ったのは、二年前の合コンでのことだった。ちょっとやさぐれていて怖そうで、でもそこに惹かれた。
ついてないことばかり、と愚痴れば、「俺と一緒にいると幸せになれるよ」と返された。それが決め手だった。
粗雑な人だけど、優しいところもあった。千佳は必死で思い出す。
自分のコーヒーをいれるついでに、私の分も用意してくれたし。気が向けば観葉植物に水をあげてくれたし。頼めば電球の交換もしてくれたし。
「そういえば、今月、もう金ないんだわ。あれじゃ足りないって」
友達はみんな、交際に反対した。
そんな男、やめた方がいいって。いい歳して無職でしょ? お金渡してんの? ヒモじゃん。同棲はヤバくない? 別れなよ、どこがいいの。目を覚ましなよ。
みんなには卓也の良さがわからない、と千佳は拗ねていた。
あの、アンニュイな感じ。時折つくため息の色っぽさ。
仕事はいつも「さがしてる」って言ってたし、「いつか結婚するかもしれないな」とも言ってくれた。
私は幸せになれる。卓也が幸せにしてくれる。そう信じてた。
「で、お前、仕事どうなの。新しいとこ見つかった? 貯金いくらあるんだよ。大丈夫なのか?」
千佳は心の中で呟く。
ねえ、卓ちゃん。卓ちゃんが気になるのって、私の口座の残高だけ?
「……あのさ」
「何だよ」
「卓ちゃんは、私のこと好きじゃないの? だから、浮気した?」
卓也は渋面し、威嚇するみたいに舌打ちをする。
「めんどくせぇ……」
彼は知らないのだ。千佳が両親と喧嘩した理由の中には、卓也の件も含まれていたということを。
激怒した父は震える声で言っていた。
女に金を無心するような男は、まともじゃない。結婚の約束をした? そんな奴が約束を守るわけがないじゃないか。馬鹿だ。千佳、お前は本当に馬鹿な娘だ。
千佳は必死で、卓也のことを弁護したのだった。それなのに。
そして、何も知らない卓也が、決定的な言葉を口にした。
「お前、忘れたのかよ。お前が俺のこと好きだって言ったんじゃねーか。だから一緒に住んでやったんだろ」
その瞬間、揺れていたものが、完全にひっくり返った。
どうして私、こんな男と暮らしてるんだろう?
どこが良くて、何に惹かれてたんだっけ?
過去のときめきの記憶は全て色褪せて遠ざかっていく。親の苦言、友人の忠告。今ならすんなり頭に入ってくる。
まるで世界は一変した。
いつも心の中で淡い光を放ち、あまやかな気持ちにしてくれた「卓也」という存在は、輝きを失い、錆びた金属みたいになって、海の底に沈んでいく。
「出てってよ」
卓也と視線を合わさず、うつむいたまま千佳は言った。
「は?」
「卓也の顔、もう見たくない。ここ私のうちだし。出てって」
「いや、お前の家って……。俺も住んでんじゃんかよ。行く場所なんかねぇし」
「わかった。じゃあ、私が出て行く」
実家に泊まるために用意していたものが肩掛け鞄に入っている。それを持って、千佳は立ち上がった。
卓也はさすがに驚いたのか、「マジかよ」という顔でこちらを見上げている。卓也にぞっこんでいつも従順だった千佳が楯突く日が来るなんて、想像していなかったのかもしれない。
玄関へ向かう千佳へ、卓也が呼びかけた。
「おい、千佳!」
振り向かずに視線を横へ向けてみると、つい数日前に卓也が「お前のために」と言って買ってきた絵画が、額にも入れられず壁に立てかけてあった。
陰気な色合いで、絵の具が塗ったくられ何が描かれているのかも判然としない気味の悪い絵。上手いのか下手なのかも評価しにくい代物だ。
お前のために、とは言うが、千佳の金で買った絵だった。
――こんな絵なんて、欲しくない。いや、どんな絵だって欲しくなかった。「絵」なんて、私には……私は……。
無性に腹が立ってきた千佳は、その油絵をむんずとつかむと外へ飛び出した。
もしかしたら、とうの昔に愛想が尽きていたのかもしれない。付き合っていた二年が無駄だったと、自分の選択が誤りだったと、認めるのが怖かっただけなのかもしれない。
背後でドアの閉まる音。
結局、卓也は追いかけてこなかった。外へ出るのが億劫だったのだろう。
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