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5、異変
* * *
千佳の肩から、鞄が滑り落ちた。中に入れてあるプラスチックのファイルがコンクリートに当たる音がする。
自室のドアを開け放った格好のまま、硬直していた。
朝、奈々の家を出て白崎邸に寄り、一応自宅に戻ろうと思ってやって来たのがつい先ほどのこと。鍵が開いているので、卓也はいるらしく、顔を合わせたくないなと思いながらもドアを開けた。
開けた瞬間に、異変は目に飛びこんできた。
シューズクローゼットも、トイレのドアも開けっ放し。しかも廊下やリビングに物が散乱していた。
「卓ちゃん……?」
かすれた声でヒモ男の名を呼ぶと、室内へ目はそのままに、落ちた鞄を拾っておそるおそる中へ入る。
どうにも異様な気配を感じとって、住み慣れた我が家になかなか足を踏み出せない。
「卓ちゃん、いるんでしょ?」
リビングに到達すると、そこには惨状が広がっていた。
箪笥の引き出しはあけられているし、クローゼットも荒らされている。ハンガーにかけられた服は放り投げられ、キッチンの棚も開けられた状態だ。
足を震わせながらどの部屋も確認したが、卓也の姿はなかった。
スマホを取り出し、卓也に電話をかける。
『……ああ? なんだよ』
卓也はすぐに応じた。
「卓ちゃん……、こんなの、あんまりじゃない? 私、こんなことされる覚え、ないんだけど。卓ちゃんも腹が立ったのかもしれないけど、ここまでするのは酷すぎるよ」
『何の話?』
「部屋だよ、部屋! こんな、空き巣が入ったみたいな荒し方するだなんて、最低だよ!」
ろくでもないところは多々あったが、暴力をふるったり、ものに当たったりすることはない人だった。それだけにこの有様はショックで仕方ない。
卓也は少し黙っていたが、『はあ? どういう意味だよ』と返事をする。
「どういうって、卓ちゃんでしょう? 箪笥開けて、服めちゃくちゃにして……」
『いや、マジで何のことだか俺にはさっぱりわかんねーんだけど。お前が出て行った後は俺一人で寝て、朝イチで飯も食わないでパチンコ行ってんだよ。服なんかめちゃくちゃにしてねーよ』
「……え?」
ゆっくりと瞬きを繰り返し、千佳は部屋を見渡した。
もう一度確認してみれば確かに、怒りに狂って荒らしたというよりも、物色した、というのに近い散らかり方だ。
「卓ちゃん、もしかして、鍵、かけないで出て行ったの?」
『ああ? 酒飲んでたから覚えてないわ。かけてないかもしれないな。でも、前にも何度かそういうことあっただろ。うるせーな』
そう。その度に注意してきたのだ。空き巣でも入ったらどうするのって。だが卓也は真面目に耳を傾けず、こんなうちにそうそう泥棒なんて入ってくるかよ、と鼻で笑っていたのだ。
「もう一度確認しておくけど、卓ちゃんがうちを出る時は、部屋に変わったことはなかったんだよね?」
『そう言ってんだろ、さっきから。人の話ちゃんと聞けよな。それよりお前、昨日はどこに泊ま』
通話を終了させると、卓也の耳障りな声は途切れた。
より静けさが濃くなった自分の部屋が、いつもと違って見えてくる。
五分ほどそこで佇んでいただろうか。
スマホの画面に目を戻すと、また電話をかける。
「あ、ええと、あの、すいません、事件というか……。私のうち、泥棒に入られたみたいなんですけど、警察の方って今から来ていただけるんでしょうか」
人生初のーー〇番通報は、思ったほど緊張しなかった。
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