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6、今日からよろしく
* * *
「西山さん! 僕の大好きな顔の西山さん! ようこそ! わあ、嬉しいなぁ!」
白崎が満面の笑みで近づいてきて、千佳の顎をがっしりとつかむ。そして右から、左から、と吟味するようにまじまじと観察した。
「なんて僕好みの、ごく普通の顔なんだろう。実に普通だ! 可もなく不可もない。十人並みで素晴らしい! これから毎日君の顔が見れるだなんて、こんな幸せなことがあるだろうか!」
前半はほとんど侮辱発言である。そして後半は新婚の夫が妻に向けて言うような、甘すぎる台詞。混乱を禁じ得ない。
だんだんわかってきたというか薄々わかっていたというか、白崎が千佳に向ける好意は一切、恋慕的なものが含まれていない。
たとえば、ほしかったヘラクレスオオカブトやプラモデルや、飼いたかった柴犬とか、そういったものに対する好意に近い。
だから喜ぶのはおかしい。しかし、そうと気づいてもどこか嬉しくて。
顎をつかまれたまま、複雑な気持ちになっている。
「西山さん! あなたの引っ越しですよ! もたもたしない!」
とたんに小早川の叱責。「はい!」と返事をして、千佳は白崎の手から抜け出した。
空き巣に入られ、警察を呼んだ後のこと。指紋が採取され、実況見分で盗まれたものがないかと調べたのだが、妙なことに何も盗られていなかった。
通帳の入ったひきだしも開けられていたのに手つかずだった。警察官が見分書に書き込みをしながら、「物取りじゃないかもしれないですねぇ」なんて怖いことを言ってくるので、千佳は震え上がった。
「でも、彼と一緒に暮らしているなら少しは安心ですね」
パチンコ屋から呼び戻した卓也と並んでいるとそうやって励まされたが、冗談ではなかった。卓也と別れる決意はかたいのだ。
卓也が浮気をし、見知らぬ誰かに荒らされた部屋など、一日だって住んでいられない。すぐにでも解約して引っ越そうと千佳は決意する。
数日は奈々のところで世話になり、あんまり甘えては悪いので更に数日はホテル暮らし。
たっぷり悩んで連絡した先は、白崎だった。事情を話すと「いいよいいよ」と二つ返事で迎えてくれた。
断ろうと決めた直後の出来事だったのだが、実家に帰るのも気が引けるし、それ以外、良い選択が思いつかなかった。
何もかも嫌になっていた。いっそ、ガラッと、何もかも変えたくなった。
引っ越し先の部屋は、家具一式が揃っているとの話だった。思い切って家電は手放し、普段の生活でさほど必要としていないものは母に連絡して実家へ送った。
空き巣に入られたとか、若い画家の家で住み込みで働くなんて事情は説明できない。だから、彼氏と別れることになり、当分は友人とルームシェアをすると話しておいたのだ。父に話が通ると何を言い出すかわからないのでまだ内緒にしてもらう。
荷物は最小限にまとめて、白崎邸を目指した。
引っ越し代は負担してもらったが、荷物の処分やら来月までの家賃やらで、出費はかさんでしまった。だがそこまで出してもらうわけにもいかないし、仕方ない。
ちなみに、いの一番で処分したのはベッドだった。
「広い!」
千佳が与えられたのは、二階の奥の部屋で、南向きの窓がある清潔な部屋だった。
なんと、トイレも風呂もついている。ランドリールームが近くにあり、自由に使っていいとのことだった。
「僕も白崎先生も一階の部屋を使ってますから。上にも作業室はあるので、白崎先生があがって来ることはなくもないですけど」
小早川が家の中を案内しながらそう話す。白崎はよく家の中をうろつくらしいが、問題はないだろう。何せ彼の家であり、千佳は雇われた身で過剰な配慮も望んでいない。
まあ、とにかく部屋が多い。何人住まいを想定しているのかさっぱりだ。
ここは白崎が気に入って購入した中古物件なのだそうだ。外装と庭がいい、と彼は言う。
「部屋数はこんなにいらないんだけどねぇ」
さすがに持て余しているらしく、白崎は笑っていた。
「それで私、どんな仕事をしたらいいんでしょうか」
引っ越し作業が一段落して千佳が尋ねると、小早川――下の名前は隼人というそうだ――は、「今日はお疲れでしょうから、具体的な話は明日からにしましょう。まずは休んでは?」とぶっきらぼうに返してきた。
人当たりが良い人物とは言えないが、優しいことは優しい。
千佳が電話で引っ越しうんぬんの話を半泣きでした時も、ため息をつきつつ「じゃあ、ひとまず来てみてはどうですか」と言ってくれたのだ。
「小早川さん……怒ってます?」
邸宅内の案内が終わり(一度回っただけではさっぱり頭に入らなかった)、小早川が仕事に戻ろうとしたところで千佳は声をかけた。
眉間に皺を刻んだまま、小早川が振り向く。
「いいえ。僕も慣れてますので。白崎先生は割と物欲のない方ですけど、時々僕には理解できないものをうちの中に持ち込むんですよ。あり得ないくらい大きな木彫りの熊とかね。先生の仕事がはかどるのなら、大抵のわがままは受け入れているんです」
「木彫りの熊……」
小早川にとって千佳は木彫りの熊と似たようなものらしい。
その日の夕食は、特上の出前寿司だった。
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