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「使ってない部屋は、こことここと、ここ。軽く埃を払うだけで結構です。和室の柱は木が傷むので水拭きしないで下さい。乾拭きです。掃除機はここ。水回りの掃除に使う洗剤はそこに入っています」
きびきびと説明しながら小早川は廊下を颯爽と歩いていく。千佳はついて行くのも聞き取るのも一苦労だった。
住み込み家政婦ということで、邸内の掃除は仕事の一つ。
綺麗になればどういう手順でもいいではないかと千佳は思うのだが、小早川は順番までも厳しく指示してくる。
本格的に始める前に、説明を聞いているだけでへとへとである。
多分、掃除が行き届かなかったら指で縁の上の埃をすくって、「あらあら、なんですかこれは」と姑よろしく詰め寄ってくるのだろう。気が重い。
「いいんだよ、掃除なんて適当で」
白崎と廊下でばったりでくわした。
「ちょっと汚れてるくらいじゃ、死んだりしないじゃないか。小早川君は大げさなんだよ」
「ちょっとの汚れが積み重なって、酷い汚れになるんですよ。綺麗な方が心身に良い影響を及ぼすでしょう? 僕は、最も良い環境で白崎先生に仕事をしてほしいんです!」
最新家電の掃除機を武器のように構えて、小早川は力説した。今日の彼はジャージ姿である。掃除で汚れてもいいようにとの格好らしい。どんな服装でもだらしなく見えず、男ぶりが下がらないのはさすがではある。
「静かにしててもらえる方がよっぽど気が休まるんだけどね」
白崎の呟きは無視して、小早川は千佳を伴い、また廊下を突き進んで行こうとする。
「あっ、西山さん!」
白崎の呼び止める声。
「はい? ……ぅ、わ!」
頬に手を添えられて、顔をのぞきこまれる。千佳は赤面した。
「今日も素敵だね」
さらりと言って、去っていく。
赤面しながら思った。彼は、毎日お気に入りの木彫りの熊にもああやって囁くのだろうか。囁いていそうである。
しかし、置物と同列でもいいかと思えた。
「西山さん! ぼさっとしない!」
「は、はい!」
慌てて小早川を追いかけると、彼は恨めしげな目つきでこちらを見ている。
「先生に顔が気に入られたからって、はしゃがないで下さいよ。あなたはタランドゥスオオツヤクワガタと同じように見られてるんですから」
想像通り、昆虫は家に持ち込んだことがあるらしかった。クワガタにも素敵だね、と声をかけていたのだろう。
「……小早川さん、妬いてます?」
「妬いてません。さあ、次は外に行きますよ。玄関前のタイルは、高圧洗浄機で洗うんです。ほら、てきぱき歩く!」
難しい仕事はないと聞いていたが、初日から心が折れそうな千佳だった。
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