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「次の件なんですけど、クライアントの方に会われますか? 顔写真はもう用意できていますが」
「そうだねぇ。会って実際の顔を見た方が確実ではあるけど、内容的には写真でも十分かな。向こうも忙しいだろうし、スケジュールが合うかどうか。今回は顔写真だけにしようか」
顔を見る、やら、顔写真がどうこう、と言うので、てっきり似顔絵でも描くのかと思いながら話を横で聞いていたが(千佳もちゃっかり食後のお茶を相伴させてもらっていた)、どうも違うらしい。
白崎が描く絵は山の絵のようだ。ではどうして、顔の話が出るのか。
「絵を依頼するのに、依頼人の写真が必要なんですか?」
確か白崎は、オーダーを受けて絵を描く画家だと言っていた。取引をする上で、身分を証明する書類を揃えたりしなければならないのだろうか。
「そういえば、西山さんには言ってなかったね」
と白崎。
「実は僕、相手の人相から、その人の好みの絵がわかるんだよ。だからお客さんには、顔を見せてもらわなくちゃならないんだ」
「顔……ですか?」
いわく、人の顔には好みというものが表れている。白崎はそれを読み解くことができるのだそうだ。
「占いみたいですね」
素直に思ったことを口にすれば、「そんな胡散臭いものと一緒にしないで下さいよ」と小早川が低い声で呟き、ティーカップのとってを持つ指に力をこめる。まさかお茶をひっかけられやしないだろうな、と千佳は冷や冷やした。こういう時は素直に「ごめんなさい」と謝るに限る。
「僕はね、十代の頃にいろんな人の似顔絵を描いていたんだよ。道端とかで。数え切れないくらいの人と接していくうちに、相手がどういうタッチの絵を好むかというのがわかるようになっていったんだ。その能力を発展させて、今の状況に至るって感じかな」
顔に好みが表れる、というのがいまいちイメージできない。
あれかしら。スケベな人がスケベ顔になるとか、そいうのかな。なんてまた口に出したら、例えが下品だと小早川に叱られそうなので黙っておく。
「じゃあ、私のもわかるんですか?」
「うん。今度描いてみせてあげよう」
ただし白崎の能力は超能力ではなく、経験から培ったものだ。どんな場合も、顔を見ただけで相手が完全に満足できる絵をさらっと描けるわけではない。
事前に打ち合わせをし、希望のモチーフやテーマなどを聞いておかなくてはならないらしい。
しかし、なんとも希有な能力を持つ画家もいたものだ。
聞けば、白崎の父と祖父は、どちらも重要無形文化財の保持者――いわゆる人間国宝だというのだから驚きだ。分野は父は陶芸、祖父は金工だそうだ。白崎純は、芸術家のサラブレッドみたいな人だ。そう言うと、「いやいや」と白崎は手を振る。
「二人に比べれば、僕の立場は大分劣るよ。僕なんて無名だからね。芸術家に求められる創造性やら独自性もないしね」
「先生!」
小早川がきっと目をつり上げる。
「それ以上、白崎先生を悪く言うと、いくら白崎先生でも僕は怒りますよ」
場を沈黙が支配する。
白崎はしばらく小早川と見つめ合うと、カップを口元に運んで小さく嘆いた。
「君のその狂気の原因が僕にあるかと思うと、多少の責任は感じちゃうなぁ」
「先生にはご自分の仕事にもっと誇りを持っていただきたいですね。あなたの絵で、どれだけの人間が救われてきたかわからない」
心から求めるような絵が手に入ったとしたら、どうなるだろう。
自分でも具体的に思い描けない世界が、他人の手によってもたらされたとしたら。それは心を満たしてくれる存在になるのかもしれない。
難しいことはわからないが、いいことなのだと思う。
「さて、それじゃあ、食事も終わったことだし、仕事に戻ろうかな」
白崎が席を立つ。
まだ一週間ほどしか経たないが、ここでの生活は千佳にとって上々と言えた。
小早川はやかましいものの理不尽な言いつけはしてこないし、白崎は好人物。住まいは快適で、何より「求められてここにいる」、という実感があるからか、不安や焦りを感じない。
のっぴきならない事情によって転がりこんできてしまったが、予想外にも幸せな生活が過ごせそうだった。環境はがらっと変わったが、悪くない。
私、今度こそ幸せになれるかもしれない。
まさか、そう思った翌日に新たなトラブルが舞い込むとは、この時の千佳は夢にも思わず、うっとりと白崎の大きな背中を見つめていた。
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