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奈々はノートパソコンを立ち上げると、勢いよくキーボードを叩いた。痛々しい幻想は徹底的に破壊するのが奈々の主義なのだ。
「……うん?」
ほらそんな画家いないでしょ! と勝ちどきの声をあげるかと思いきや、奈々は首を傾げている。千佳は後ろからパソコンの画面を覗きこんだ。
そこに表示されていたのは、誰かのブログだ。日付は五年前。
「皆さんは、白崎純さんという画家をご存知ですか? きっと、知らない方が多いでしょう。
白崎さんはあまり人前に出たがらない、露出の少ない画家さんで、名前が広まることも望んでいないんです。
私は幸運にも一度お目にかかったことがあるんですが、なかなかの好男子(!)でした。
若くて才能に恵まれているなんて、羨ましい限りですね。
彼の描く絵は特別で、誰もが欲しがるんです。
絵画なんて興味がない、という方でも、おそらく欲しくなってしまうでしょう。その絵の『ヒミツ』を知ったなら……。
先日私が食事をしたレストランにも、彼の描いた絵が飾ってありました。
撮影は禁止されていて(彼の絵は、大抵そうです)ブログに載せることはできませんし、お店の名前を紹介することもオーナーが禁じているので、ご紹介はできません。
しかし、とても素敵な絵でしたよ。もちろん、お料理も……。
もしパリに立ち寄られる方がいらしたら、是非頑張って、白崎さんの絵が飾られているお店をさがして見てください。パリには、何軒かあるようですから……。
なかなか見つからないなんて、謎めいていて、魅力的ですよね。」
どうも、パリ在住の年配の日本女性が書いたものらしかった。
好男子、という文字が目をひく。千佳の鼓動が微かに高鳴った。
奈々はアイブロウで美しく描かれた眉毛をひん曲げて、画面を睨んだままだ。
キーボードの設定をフランス語に変更し、何やら打ちこんでいく。奈々は高校でフランス語を第二外国語の授業で学び、その後も勉強を続けてフランス人と付き合ったこともある。とてつもない大喧嘩をして別れたというから、罵れる程度にはフランス語が堪能なのだろう。
「……シロサキジュン、という日本人の画家は実在するみたいね」
奈々が見つけたのはとあるネット記事で、フランスの四つ星ホテルのスイートルームに、その白崎という画家の絵が飾ってあるというものだった。相当高額な宿泊料金であるにも関わらず、予約は一年先まで埋まっているそうだ。
「白崎さん、いるじゃない! やっぱり本当に、画家だったんだ!」
「いいや、ニセモノね。この人、パリに住んでるらしいわよ。何でパリの画家が日本の児童公園で夜まで寝てるのよ」
奈々は絶対に譲らなかった。偶然名前が一致した頭のおかしい男か、実在する画家の名前を語った詐欺師。この説を曲げない。
でも、でも、と可能性を口にしようとする千佳の言葉は片っ端から切り捨てられた。
そうこうしているうちに時間は過ぎて行き、お手製の、バランスが良くて美容にも良い朝食を素早くたいらげた奈々は、家を出た。
スムージー、洒落た蒸し野菜の温サラダ、ターメリックの入ったスープ、なんとかかんとかオイル……。毎日トーストと野菜ジュースの自分にはとても真似できそうにない。
奈々は食事をしながら抗酸化作用がどうだとか美容と食べ物について説明していたが、聞いたそばからほとんど忘れてしまった。
残された千佳はぼうっとしながら、テーブルの上に投げ出された名刺をながめる。
朝食は作ってあるから食べなさい。身だしなみがきっちりしてないと気分も優れないんだから、ちゃんとした格好をしなさい。
奈々はそう言い置いて出て行った。まるでお母さんみたい! と、口に出したらぶたれるだろう。
とりあえず顔を洗おうか、と千佳はゆっくりと立ち上がった。
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