【もや恋1】婚約者が「猫を実家に置いてこい」と言うので

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【もや恋1】婚約者が「猫を実家に置いてこい」と言うので

 もや恋/短編シリーズ  どこにでもいそうな主人公の、ちょっとモヤモヤする恋愛を描きます。基本、登場人物はダメな人が多いです。予めご了承のうえお読みください。 +‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+  最初に「あれっ」と思ったのは、不動産のサイトを二人で見ていたとき。彼は同じ会社の先輩で、一年ちょっとのお付き合いの後、昨年のクリスマスにプロポーズされた。お互いの家族も祝福してくれて、半年後の披露宴を前に新居となる賃貸マンションを探していたときのことだ。 「こういう間取り、いいよね」と、彼がブックマークしたマンションが、全てペット不可の物件であることに私は気づいた。ちょっと待って、ここは私たち住めないよね。だって私には、愛しのシャー君がいるんだもの。  シャー君の本名は、シャーロック、年齢はおよそ6歳。白地にグレーの全身模様が入った、イケメンにゃんこである。  まだ目が開いたばかりの時、家の近くのガレージに捨てられていたのを保護して育てた。当時の私は猫を飼ったことがなくて、パニック状態でSNSに「猫を保護しました」と投稿したのが、我ながらナイスプレーだった。  心優しい先輩の猫飼いさんたちに、「まずは病院へ」「これを買え」と教えていただき、何とか保護直後の虚弱状態を脱出。しかし、やはり栄養失調を経験したせいか体が弱く、成猫になっても病院通いで大変だった。治療代や有休を、シャー君のためにどれだけ捧げただろう。ひとり暮らしのアパートも、保護してすぐにペット可物件に引っ越した。  それでも、仕事から帰ってドアを開け、玄関マットの上で長いしっぽを足元に巻きつけて、ちょこんと待っていてくれる姿を見るだけで「ああもう、この子のためなら何でもしてあげられる」と思えるほど、私の大事な家族である。  しかし、恋愛脳って怖いわ。その時は、「彼は間取りの参考例としてブクマしただけよ」「シャー君と私はずっと一緒だって、わかってくれている」なんて、都合よく解釈していたのだ。それなのに…… 「ねえ、今度このマンションを内見してみない?」  数日後、彼が目を付けた物件の資料を持ってきた。嫌な予感がして条件の項目を見てみたら……ああ、やっぱり「ペット不可」。よい間取りだし、家賃もお手頃。とてもいいとは思うけど、肝心なところをはっきりさせないといけない。頼む、うっかり条件を見逃していたと言ってくれ。 「いい感じの間取りだね。でもさ、ここペット不可だよ?」  なるべく、さらっと、感じよく。せっかくのピーカン幸せモードに暗い影が差さないように。にっこり微笑みながら、彼の反応を伺ってみれば、戸惑いが全面に貼りついている。これはまずい。 「えっと……、ペット不可じゃだめ?」 「いや、シャー君いるし。内緒で飼うわけにいかないよね?」  いやな沈黙が流れる。私が新居にシャー君を連れていくことは、全く想定外だったのだろう。それは私も悪かった。プロポーズされた時に、ちゃんと確認するべきだった。でも、彼は私がどんなにシャー君を愛しているか、理解していると思っていたのだ。 「普通、結婚するときって、ペットは実家に置いてくるんじゃない?」 「えっ、実家? ないない、絶対ない」  私の実家は、いま暮らしている場所から3時間かかる田舎で、両親と兄夫婦、3歳の甥っ子が一緒に暮らしている。近くに動物病院もないし、冬は雪に閉ざされる。猫を飼ったこともない人たちと、小さな子どもの中で、体の弱いシャー君がすこやかに暮らせるとは、とても思えない。  第一、私が盆暮れの里帰りしか、シャー君に会えなくなってしまうではないか。シャー君も辛いし、私もストレスでどうにかなる。それを伝えると、彼は本気で困った顔になった。 「そうは言ってもなぁ、うちの実家も親父が猫アレルギーだし」 「ちょっと待って、ペットOKのマンションにすれば解決する問題じゃない。どうして実家に預ける前提なの」  ついつい口調がきつくなるが、もはやキレる寸前なのでコントロールできない。初めから彼の描く結婚生活には、シャー君は含まれていなかったということだ。一年以上も付き合っていたのに、いったい彼は私の何を見ていたのだろう。 「私にとって、シャー君は家族なの、知ってるじゃない」 「だったら聞くけど、俺が新居に親や兄弟を住まわせるって言ったら、イヤでしょ。それと同じだよ。俺は君と結婚するんであって、猫と結婚するんじゃない」  いつもはおっとりして優しい彼が、急に冷たくて遠い人になったような気がする。冷静になるべきなのはわかっているが、シャー君に関しては愛が深すぎて、存在を軽んじられるのが我慢ならない。私は彼から肯定の言葉を引き出そうと踏ん張った。 「うちに来たとき、シャー君のこと、かわいがってたじゃない」 「たまにならいいけど、服にいっぱい毛がつくし、家具に傷がつくし。トイレの匂いだって、臭いし。一緒に住むのは無理だよ」  とうとう、涙がぽたりと落ちてしまった。それを見て彼が慌てふためく。今、私たちは会社帰りのカフェで話をしている。いい年の男女が、格好悪いことこの上ない。 「ちょっと、落ち着いて。そんなことで泣かないでくれよ」  私は立ち上がり、椅子の背にかけていたジャケットを羽織った。このままでは怒鳴り声をあげてしまいそうだ。私はこの場から逃げることにした。 「あなたにとっては、そんなことなのかもしれないけど、私にとってはそうじゃない。でも、言う通りだわ。落ち着いてから話をしましょう。今日は一旦、解散」 「……そうだね」  私はそのまま涙をこらえて地下鉄に乗り、自分のアパートまで帰ってきた。いつものようにカギを開けると、ちょこんと待っている小さな相棒。その柔らかな体を抱き上げて、私は灯りも付けないリビングでめそめそと泣いた。 「シャー君と別れるなんて、考えられないよ」  その日から、一週間ほど彼とは会わなかった。同じ会社ではあるが、部署が違うことをこの時ほどありがたいと思ったことはない。  この間、例の件を何人かに相談してみたところ、「猫が理由で結婚やめるなんてバカ」と「ペットと別れろなんてひどい男」で意見が真っ二つだった。どっちにしていいか決められないから相談したのに、却って迷いが深まってしまった。  しかし、当然と言えば当然だ。何が大切かそれぞれ違うから、意見が対立する。そこへ好きな気持ちと世間体が絡まって、物事が複雑になっている状態なのだ。 「で、あんたはどっちなの」  大学時代からの友人、美喜子と飲みに来ている。いきなりずばりと聞かれたが、正直まだ頭の中がマーブル模様だ。これがただの恋人同士であれば、すっぱり別れて「次行こう」で済むが、既に両家で顔合わせも済み、披露宴会場に手付金も入れている。  さらには、彼が上司に仲人を頼んでいるし、結婚の予定を知らせた同僚も多い。つまり、けっこう外堀が埋まった状態だ。ペットが原因で別れたとなれば、陰で何を言われるか、考えただけでもウンザリする。  しかし、私を最も苦しめているのは、私が彼をとても好きだという感情だ。結婚を選んで年に2回、猫に会いに行く人生か。猫を選んで、婚約破棄という大波を乗り越える人生か。どちらも耐えられそうにない。 「固く考えすぎだよ、どっちも手に入れることを考えてみれば? 彼さえ我慢してくれれば、丸く収まるわけでしょ。最初はイヤでも、そのうち情が移ってくるかもしれないよ」 「そうだよね、シャー君かわいいもの」  さすが、美喜子。弱気な私にアグレッシブな勇気を注入してくれた。そうだよ、毛はコロコロで取ればいいし、トイレだって場所を工夫すれば匂わない。別に猫が嫌いってわけじゃないんだもの。きっと共存することはできるはず。  そう思って、彼を久々に食事に誘った。そうしたら、思いもよらない展開になった。なんと、話し合いも何もあったもんじゃない。彼の方から婚約を白紙に戻したいと言われてしまったのだ。 「本当に、すまない。でも、決断は早いほうがいいと思ったから」  あれから10日くらいしか経っていない。私はその間、悩みに悩んで二人でやっていく解決策を考えていたのだが、彼はあっさりと努力を放棄したらしい。しかも、真っ先に親に相談したそうだ。私の中の愛情の温度計が、さーっと目盛りを下げていくのを感じた。彼ってこんな人だったっけ。 「はあ、ご両親に言っちゃったの? まだ二人で話し合いの結着がついてないのに?」 「結婚は自分たちだけの問題じゃないし、どういう考えの人が家族になるのか、親も気になるだろ。そしたら、ちょっと無理かもしれないねって」 「はあぁ?」  彼は再来月には30歳になる。そんな大人が自分の意志で決断しないのもモヤモヤするし、二人で話し合えと言わないご両親も何だかなぁ。この結婚、もしかして見直して正解だったかも……と思い始めたころ、彼の口から決定打が飛び出した。 「準備が進んでいる事に関しては、こちらでどうにかするよ。式場のキャンセル料も負担するし、上司にも断りを入れる。そのかわり、会社を辞めてくれないだろうか」  私はもう、迷う必要がなくなった。こんな男なんて、こちらから願い下げだ。恋愛の熱に浮かれて、彼の本性を見抜けなかった私のバカ、バカ、バカ。  その夜、帰宅するとシャー君が玄関でいつものように出迎えてくれた。モフモフの毛並みをやさしく撫でながら、私は心からの愛を込めて囁いた。 「大好きだよ、シャー君。ずっと一緒にいようね」  その後、「彼から婚約破棄されて会社を辞めろと言われました」と直属の上司に正直に報告したところ、彼の方が支店に飛ばされた。ざまあみろ、である。人手不足の部門で、私は資格持ちの中堅。辞められるわけにはいかんと、配慮してもらえたのだ。そして同僚たちも「気にすんな」と励ましてくれた。  なんだ、どんな試練が待っているかと思えば、世間は私の味方だった。結婚しなくてよかった。あのまま、彼の家に取り込まれていたらと思うとぞっとする。  結局、彼もご両親も、猫の一件がどうというより、自分たちの意に沿わない女は家族と認めない人たちだったのだ。今ごろ「猫ぐらいでガタガタ言いやがって」と思っているだろうが、猫飼いをなめんなよ。我々は猫を飼っているんじゃなくて、お猫様に飼われているのだ。  すっかり気を良くした私は、結婚のために貯めていたお金で、ペット共生型のマンションに引っ越した。行きつけの動物病院から歩いて5分という好立地である。爪とぎに耐えるクロスや、脱臭機能、くぐり戸やキャットウォークもついている。猫を中心に生きると決めた私には、最高の住まいではないか!  そんなある日、ベランダにどこかの猫ちゃんが迷い込んだ。もちろん転落防止のフェンスは施してあるが、掃き出し窓を締め忘れると、猫はベランダを伝って近所のお宅に逃走してしまう。 「あららー、君はどこの子かな?」  そんな時は、管理人さんだ。スマホで撮った写真を見せたら「たぶん○号室の子」と教えてくれた。さすが、ペット共生型マンション。うちに迷い込んだ子は、どうやら上階の猫ちゃんのようだ。 「飼い主さんは留守みたいなので、こちらで預かりましょうか」  管理人さんはそう言ってくれたけど、かわいい子なので、飼い主さんが帰宅するまでうちで預かることにした。もちろんこの世でいちばん愛しているのはシャー君だけど、たまにはよそのにゃんこも触りたい!こんなチャンスはなかなか来ないからね。  迷い猫は、赤い首輪の黒猫ちゃん。おとなしい女の子だ。シャー君ともすぐに仲良くなったし、人懐こくて膝にも乗ってくれる。かわいいなぁ、猫は最高だなぁ。  そんな幸せな時間を満喫していたら、玄関のチャイムが鳴った。あら、黒猫ちゃんのご主人が帰ってきたかな?ドアスコープを見ると、がっしりと大柄なスーツ姿の男性が立っている。 「すいません、うちの子を預かって頂いていると聞きまして!」  走ってきたのだろう、汗まみれで息が荒い。「はい、いますよ」と答えようとしたら、私の足の間をすり抜けて、黒猫ちゃんが男性に飛びついた。 「ああん、リリちゃん! ごめんねぇ、窓を締め忘れちゃって!」  強面マッチョなスーツ男が、猫にスリスリしている姿は、猫飼いにとっては萌えシチュの最高峰ではなかろうか。やがて男性は、猫を抱いたまま深々とお辞儀をした。 「本当に、ありがとうございました! このお礼は改めて!」  礼儀正しい人なんだね。お礼なんかいいのに。それよりまたリリちゃんと遊びたいな。  そして数日が過ぎ、スーツの男性のことはすっかり忘れてしまっていたが、ある夜チャイムが鳴って、例のリリちゃんパパが玄関に立っていた。おお、今日はジーンズだ。思ったより若い。先日はおっさん(失礼)と思ったが、私と同年代くらいだろうか。 「お礼が遅くなって申し訳ないです。出張に行っていたもので。これ、よかったら召し上がってください」 「まあ、ご丁寧にすいません。お礼なんてよかったのに。私もリリちゃんと遊べて楽しかったですよ」 「ありがとうございます! 先日も出張だったんですが、帰ってきたらいないので肝が冷えました。次からしっかり戸締りします」  その時、私の頭の中でピコーンと電球に明かりがついた。リリちゃんパパにも私にも嬉しい、いいとこ取りのアイデアがひらめいたのだ。 「出張、多いんですか?」 「そうですね、月に2~3回くらいですかね。お利口に留守番はしてくれる子なんですけど」 「よかったら、うちで預かりますよ?」 「えっ」  以来、リリちゃんパパこと本田さんは、出張の際にリリちゃんを我が家に預けて行くようになった。そして出張先から産直グルメのお土産を届けてくれる。私にとっては可愛い猫さまに触れるし、美味しいものが食べられるし、いいことづくめである。  シャー君とリリちゃんは、とても気が合うようで、私が会社に行っている間は二匹で仲良く遊んでいる。動物病院も一緒のところだし、餌も同じもので大丈夫だった。本田さんも「助かります」と言ってくれているので、我ながら良い思い付きだったと思う。  そんな生活が一年ほど続いたある日、私は本田さんからプロポーズされた。出張土産のカニを鍋にして、二人で熱燗を楽しんでいた最中。目の前の鍋より心温まる、私にとって最高の愛の言葉をくれた。 「僕と、結婚してくれませんか。貴女も、猫たちも幸せにします」  もちろん、返事はイエスだ。この人と猫がいれば、私は世界一の幸せ者である。あの時、婚約を解消して本当によかった。世の中には、自分にとって居心地のいい場所が必ずあるものだ。それは彼も同様で、リリちゃんを優先するあまり振られ続けた過去がある。  私たちは熱燗をもう一本つけて、猫たちにもプレミアムおやつをふるまった。二人と二匹で、特別な夜に乾杯だ。猫が切れ目のご縁もあれば、猫が取り持つご縁もある。この先もきっと私たちは、猫のために生きていく人生だろうが、それを幸せだと思える人と巡り会えたことが、神様が私にくれた最高のプレゼントである。  完
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