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宥はヤボの天ぷらに齧りついた。さくりとした衣をくぐって、ほのかな苦味とつゆの甘辛い風味が、口の中に染み入っていく。
「美味しい」
「そうですか。お口に合って良かった」
映理はそう言って、目の前の皿に箸を伸ばした。
宥と映理は土上楼閣のテラスにある椅子に、向かい合って座っていた。テーブルにはティーポットと二つのティーカップ、二枚の皿が置かれている。皿の上にはそれぞれ、食べやすい大きさに切り分けられ、黄金の衣を着せられたヤボが並べられていた。
周囲は夜の気配に包まれ、テラスの天井には電灯の明かりが煌めいている。昼間以上に音は少なく、遠くから微かに聞こえるカラスの声を聞きながら、宥は映理が調理した天ぷらを味わっていた。
月の輪で出されるものと遜色なく快い食感だった。つゆはもちろん店とは違うが、こちらもかなりの美味だと宥の舌は告げている。
目を覚ました時、宥と映理は森の入口付近に置かれた熊の石像の前に寝転がっていた。赤から黒へと移り変わる途中の空を見て、宥は自分が何時間も眠りこけていたことを理解した。
二人のそばにはオクラに似た実が放射状にいくつも伸びたものが置かれ、その下に正方形の紙が敷かれていた。
『お二方のしぶとさに敬意と呆れを込めて、ヤボを一つおまけしておきます。これ以上欲しいのなら、今度はきちんと代金を払ってくださいね』
紙には筆文字でそう書かれ、左下には浮世絵のような筆致の熊が描いてあった。どうやらそれは、熊面童子が残した書き置きだった。
宥と映理は疲労感の残る体を引きずりながら、土上楼閣までヤボを持ち帰った。映理の手によってそのヤボは夕食として仕立てられ、今まさに宥の味覚を大いに歓喜させていた。
天ぷらを一つ食べ終え、宥はティーカップの中身を一口含んだ。レモンに似た清々しい香りを伴って、ほのかな旨味と渋味が口内に流れていく。
心地良い後味を楽しみながら宥がカップを置くと、「今日はありがとう」と映理が言った。
「あなたがいて助かりました。一人ではあの眠気に耐えるのは難しかったでしょうから」
映理は柔らかく微笑んで言った。
「あなたのおかげで、不動明王のご加護も受けられましたしね」
映理の微笑は明確な笑みへと変わっていった。宥は無言で映理の皿から一つ天ぷらを箸で掴み取り、口に放り込んで素早く咀嚼した。映理は更に笑みを深め、く、く、と短い吐息を漏らした。
「いずれもう一度販売所に行きたいですね。今日はあまり詳細に見られませんでしたから」
何度か息を吐いた後、映理が言った。
「人工栽培は難しいそうですが、一応知人に貰った種からシマタシクを栽培してみるつもりです。上手く育てば、再び眠気に対抗する手段になってくれるでしょう」
「もしそうなったら、また一緒に行ってもいい?」
「ええ。眠れないほどたっぷりとシマタシクを用意しておきますよ」
映理はそう言って、ティーカップを口元へ持って行った。
ゆったりとカップを傾ける映理の仕草を見ながら、「また」があればいいな、と宥は考えていた。
映理との交流は宥にとって愉快な驚きをもたらすようだった。かつてキャンプで話した時から漠然とそれを感じてはいたが、今日の体験を通じて、その実感はより増していた。ヤボの追加調査であれ、別の用事であれ、あるいは単なる雑談であれ、また映理と行動を共にしたいという感覚が、宥の心中にじんわりと浮かび上がっていた。
宥はその感覚を映理に伝えようとしたが、断られたりからかわれたりしたら癪だという思考が行動を阻害し、結果としてもごもごと意味もなく口を動かすばかりだった。
宥が躊躇って何も言わずにいると、「ところで」と映理が言った。
「その内シマタシクの自生地を見に隣県へ行こうと思っているんですが、よければご一緒しませんか?」
宥はもごもごを止め、映理の顔を見た。
「それは……興味あるけど」
「では決まりですね。後々細かい日時の調整をしましょう」
映理はそう言って頷き、皿から口へ天ぷらを運んだ。宥は気が抜けたように苦笑いをした。どうやら余計な気を回す必要はなかったようだった。
宥は皿から天ぷらを持ち上げた。衣越しに見える姿は緑色で細長く、オクラに似ている。
映理は、宥と行動を共にすることに、何らかの価値を見いだしているだろうか。箸に挟まれた天ぷらを見つめながら、宥はそんな疑問を抱いていた。
別に価値などないのだろうか。あるとすれば、それは物質的、実利的なものだろうか。あるいは、もしかすると、宥が映理から得ている感覚に近いものだろうか。
映理に答えを聞こうと宥が口を開いた時、頭の中で地面から響くような低い声がした。
「それを聞くのは野暮ってものです」
宥はふっと小さく笑い、何も言わず目の前の天ぷらを口に入れた。噛むと柔らかい歯触りがあり、爽やかな旨味と粘り気が口内に広がっていった。
美味ではあった。しかし味や食感は、ヤボのそれではなかった。
「これ、オクラだ!」
宥は目を見開いて叫ぶように言った。く、く、と映理が笑いの吐息を発した。
「おめでとう、当たりです」
映理は楽しげに笑みを浮かべながら言った。宥は「まったく、もう」と非難の声を上げたが、心身に湧く脱力感と可笑しさを抑えきれそうにはなかった。
静まり返った月夜の庭に、二人分の笑い声が響いた。その声を聞いてか聞かずか、どこかでカラスがクワアと愉快げに鳴いていた。
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