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「お客さん。それを聞くのは野暮ってものです」
背の高い店員は地面から響くような低い声で言った。
店員の言葉に戸惑ったように目を瞬かせる青年を横目で見ながら、本宮宥は「ヤボ」の天ぷらに齧りついた。さくりとした衣をくぐって、ほのかな苦味とつゆの甘辛い風味が、口の中に染み入っていく。
先日全く同じことを言われたな、と宥はもしゃもしゃと顎を動かしつつ思う。もしかすると、同じ経験をした人達が、他にも多くいるかもしれなかった。
宥が今いる「月の輪」は、鹿延駅南口のそばにある天ぷらの専門店だ。駅から徒歩一分という立地のためか、腹を空かせた人々が、ふらりと気まぐれに入ることも多いようだった。ひと月ほど前に宥が初めて訪れた時も、きゅうきゅうくるると哀れっぽく鳴く腹を宥めるために、目についたこの店に飛び込んだのだった。
専門店というだけあって、頼める品の大部分が天ぷらだ。品書きを開いてみれば、黄金色の衣をまとった魚介や野菜の絢爛な写真が目を引く。
盛り合わせや定食のほか単品もあり、エビ、イカ、ナス、マイタケといった名前が品書きに並ぶ。その中に一つ、奇妙な言葉が混じっていた。
ヤボ、と書いてある。
最初に来店した時、宥は品書きからその言葉を見つけ、眉根を寄せた。宥はヤボと呼ばれる食材を思い浮かべようとしたが、ホヤしか浮かんでこなかった。持ち歩いているスマートフォンで検索してもみたが、結果には「野暮」の方が出るばかりで、食材らしいものは見当たらなかった。
宥は背の高い店員に声をかけ、「ヤボって何ですか」と質問をした。店員はニイと歯をむき出して、地面から響くような低い声で言った。
「お客さん。それを聞くのは野暮ってものです」
その時の店員の得意げな顔つきを思い返しながら、宥は隣席をちらりと見た。以前の宥と同じ質問をし、同じ返答をされた青年は、困惑と苛立ちの混じった表情でおしぼりの袋をねじり回していた。
宥は何度か来店し、同じような質問を別々の店員にしたが、毎回同じ返事が返ってきた。一体どういう理由があるのか、店側は客にヤボのことを教える気はないようだった。
宥は目の前の皿から、箸で一つヤボの天ぷらを持ち上げた。衣越しに見える姿は緑色で細長く、オクラに似ている。そのままそれを口に運ぶ。噛むと柔らかい歯触りがあり、爽やかな苦味と旨味が口内に広がっていった。店独特のつゆと相まって、中々の美味ではあった。
外見や食感からして、野菜の類だろうとは推測できる。それ以上のことは、今でも宥には分からなかった。
ここ数週間、宥は時間を見つけてはヤボの調査を行っていた。
まず宥はウェブで情報を探したが、食材あるいは植物としてのヤボに関する記述は、ほとんど見つからなかった。数少ない記述も「月の輪という店でヤボを食べた」「ヤボとは何だったのだろう」という類のもので、参考になる情報ではなかった。続いて宥はいくつかの図鑑をあたったが、これも成果は得られなかった。食材や植物に通じた何人かの友人知人に相談してもみたが、誰もヤボなどという野菜は知らないという。
渋い顔をしながら宥はヤボを食べ進めていく。
今食べているこれは、一般に知られていないような、珍しい野菜なのだろうか。あるいは店が勝手にヤボと呼んでいるだけで、別の名前では知られている野菜なのだろうか。
宥の思考はくるくると空転し、その間も天ぷらは体内へ消えていく。頭の中も腹の中も、ヤボばかりになっていくようだった。
宥がヤボに興味を抱くのは、一つには仕事のためだった。
宥はウェブメディアの運営に携わっている。主として、特定の地域や人々の間でしか知られていないような、珍しい事物を紹介するメディアだ。掲載する記事は、知人のライターに作成を依頼することもあるが、自分で書く場合も多い。記事のネタになりそうな物や出来事に対しては、宥はいつも注意を払うようにしていた。
つい注意を払ってしまう、と言うべきかもしれない。気に留まることがあると、すぐさま調べたり考えたりしたくなる傾向が宥にはあった。宥にとって、ヤボのような未知の事物を調べることは仕事の一環であり、好奇心の命じる衝動でもあった。
思考の空転を続けながら宥は皿に箸を伸ばした。箸は空気を掴んでカチリと小さく音を立てた。宥が皿に目を向けると、天ぷらはそこに無かった。満腹感が天ぷら達の行き先を告げていた。
宥は浮世絵風の筆致で熊が描かれた湯呑みを手に取り、ごくごくと水を飲んだ。ふっと小さく息を吐いて、傍らに置いたバッグから財布とスマートフォンを取り出す。
メールアプリを起動し、宥は受信ボックスの中から一つのメールを開いた。何行か続く本文の中に、今日と同じ日付と、今から三十分ほど経った時間が記載されている。また、宥が今いる月の輪の周辺を含む鹿延の地図が、画像ファイルとして添付されていた。
宥は地図を見て、鹿延駅から伸びた青い線を目で追っていく。線は月の輪の近くを掠めるように通っていき、しばらく真っ直ぐ進んだ後、「土上楼閣」と書かれた地点にたどり着いた。字面からは想像しづらいが、土上楼閣というのは店の名前で、野菜やハーブの販売店だということだった。
宥は今日この後、土上楼閣の店主と会う約束をしていた。ヤボについてあちこち聞いて回った末、友人に紹介されたその人物は、ヤボについて知っている「可能性がある」らしかった。少々確度の怪しい話ではあったが、宥としてはそれ以外に掴める藁もないのだった。
期待と不安を等量ずつ抱きながら、宥はメールアプリを閉じた。バッグにスマートフォンをしまい、「ごちそうさまでした」と口の中で呟く。バッグを肩にかけ、財布と伝票を手に持って席を立った。
背の高い店員を相手に会計を済ませて、宥は入り口の引き戸を開けた。一歩外に踏み出すと、正午過ぎの日差しが頭上に降ってくる。店のそばに立つ枝垂桜は青々として花の名残もなく、見る者に新緑の時期を感じさせていた。
店の手前にはレンガ敷きの坂道が通っている。降りていけば鹿延駅は目の前だ。宥は駅前のロータリーにバスが入っていく様子をちらりと見た後、反対側に視線を向けた。緩やかな斜面が長く遠く続いている。
先ほど見た地図を頭に浮かべながら、青い線が示す目的地を目指して、宥は坂道を上り始めた。
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