ヤボの天ぷら

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 薄赤いレンガの坂を歩きながら、宥は安土映理(あづちえいり)のことを考えていた。  映理は宥の高校時代の同期生だった。同じクラスには一度もならなかったが、何度か会話を交わす機会はあった。とはいえ、友人というほど親しかったわけではない。卒業してからは一度も会っておらず、現在はどうしているのか、所在も動向も知らなかった。  だから、唐突に友人から映理の名前を聞いた時、宥は過去に戻ったような気分になった。  宥がヤボについて尋ねまわった人々の中に、植物園に勤務している友人がいた。その友人自身はヤボを知らなかったが、知っているかもしれない人を知っていた。  名前を安土映理といい、野菜やハーブの販売店を鹿延で開いている。他では見ないような植物も取り扱っているから、ヤボのことも何か知っているかもしれない。といった具合に友人は教えてくれたが、宥は映理の名前を聞いた時点で動転し、その後をほとんど聞き逃した。  宥は友人に、その人物の口調や外見なども聞いてみたが、どうやら同名の別人ではなく、宥の知る彼女のようだった。  友人を経由して宥は映理と連絡を取り、会う約束を取り付けた。ヤボの話を聞くだけであればメールやビデオ通話という手段もあったが、宥は数年越しの映理に直接会ってみたかった。  映理の姿や言動を遠い記憶から思い返しつつ、宥は坂道を行く。上り坂だが傾斜は緩やかで、それほど歩きにくいということはない。とはいえ宥は、カメラやノートPCなど、それなりに中身の入ったバッグを肩に掛けていたから、少々骨の折れる道筋ではあった。じっとしていれば暖かい陽気は、動いているとやや暑い。宥は首筋に汗の気配を感じて、バッグの外側にあるポケットからタオル地のハンカチを取り出した。  汗を拭きながらしばらく歩いていくと、徐々に傾斜がなくなっていき、平坦な道になった。宥が辺りを見回すと、いくつかの住宅と小さなコンビニが目に入った。人の気配は少なく、どこかで鳴くスズメの声が目立って聞こえるほど静かだった。  宥の視界にふと「可食植物専門店」の文字が入った。その文字は白い柵の前に置かれた看板に書かれていて、隣には大きく「土上楼閣」とある。  柵の向こうには芝生の庭があり、いくつものプランターが並べられていた。庭の中央を石造りの道が通っていて、その先には灰色の壁の建物があった。  宥は庭に足を踏み入れた。プランターを近くで見ると、イチゴが赤い実をつけていた。それ以外の植物は、宥には見ても分からなかった。やたらに細い茎が土から無数に飛び出しているもの。岩塊のようなごつごつした黒っぽい実が生っているもの。土ではなく白い石が敷き詰められ、その上を琥珀色の蔓が蜘蛛の巣のように覆っているもの。 「興味がおありなら試食もできますが、いかがですか」  プランターを胡乱げに見ていた宥の背後から声がかかった。不意のことではあったが、宥は驚きよりも懐かしさを感じた。やや低めのよく通るその声は、宥が坂を上りながら取り出した記憶と一致していた。 「美味しいの?」  宥は振り向いて言った。中途半端に伸びた真っ黒い髪を無造作に垂らし、濃い灰色のシャツと薄い灰色のカーゴパンツを着た灰色づくめの人物がそこに立っていた。 「イチゴは美味しいですよ」 「それ以外は? この黒いやつとか」 「蓼食う虫も好き好き、といったところでしょうか」  つまり不味いんだな、と宥は苦笑する。  丁寧だがどこかとぼけた話し方に、宥は再び懐かしさを覚えた。声や姿も含め、ほとんど宥が覚えている通りの安土映理が目の前にいた。  宥は本当に高校時代に戻ったような気分になり、デジタル腕時計の年月日を確認した。もちろん過去ではなかった。 「その時計、高校の頃も着けていましたね」  映理が言った。 「そうだけど、よく覚えてたね」  宥は目を丸くして言った。映理の言う通り、宥は高校生の頃に買った腕時計を今でも使っていた。 「特徴的な時計ですから。ベルトに孔雀のような山椒魚のような不思議な生き物が描いてあって、忘れようがありません」 「これは犬だよ」  宥が言うと、映理は口角を上げて愉快げに笑った。  宥としては間違ったことを言ったわけではなく、時計のパッケージには確かに犬のキャラクターだと書いてあった。とはいえ、横に長いのっぺりとした顔つきをし、七色の派手な尾を生やしたその生物が、どうにも犬に見えないのは確かだった。  宥はふっと吹き出すように頬を緩めた。高校時代に似たようなやり取りをした記憶があった。映理もそれを覚えていて、あえて同じことを言ったのか、それともすっかり忘れていて、全く同じ感想を抱いたのか。いずれにしても、数年の空白を経てなお、かつてのように会話できていることが宥には嬉しかった。 「さて」  映理は表情を平板に戻して、灰色の建物の方に親指を向けた。建物の手前側にはテラスが張り出していて、そこにテーブルと椅子が置かれていた。 「座って話しましょう」  そう言って映理は歩き出した。宥は後ろをついていく。テーブルのそばに来ると、映理は椅子の一つを手の平で示した。宥がそこに座ると、映理は向かい側の椅子に腰を下ろした。  テーブルには白い布が置かれていた。布はところどころ膨らんで、下にあるものの形をぼんやりと象っている。映理が布を手に取り、畳んでテーブルの端に置いた。ティーポットと二つのティーカップが、テーブルの上に姿を見せていた。  ガラス製のティーポットには薄い黄緑色の液体と、いくつかの干からびた細長い葉が入っていた。宥はお茶にはあまり詳しくなかったが、外見からしてハーブティーの類だろうとは理解できた。  映理がポットから二つのカップへ液体を注ぎ、「どうぞ」と言って宥の前に一つを差し出した。  宥がカップを手に取ると、すっと透き通るような香りが漂った。一口含んでみると、果物のような瑞々しい風味と、柔らかい甘味が舌の上を通っていく。  二口、三口、四口。宥はごくごくとカップの中身を減らしていった。ここまでの道のりで少々疲れた体に、ひんやりとした水分が染み入るようだった。  ふうと息を吐いて、宥はカップを置いた。 「これ、美味しいね。何ていうハーブ?」 「シマタシクです」 「へえ、初めて聞いた」 「そうですか。私も一昨日初めて聞きました」  映理の言葉に宥は目を見開いた。 「隣県の湿地で採れるそうですよ。これも一昨日知った情報ですが」 「……こうやって飲んでいいものなの?」 「毒性がないのは確認しています」  映理が事務的な調子で言う。宥は顔をしかめて、カップに残った黄緑の液体を見つめた。 「試しに抽出してみたんですが、中々美味ですね」 「よく分からないものを飲ませないでよ……」 「ですがこれ以外にも、よく分からないものを口にしたでしょう」  映理の言葉に宥はさっと顔を上げた。シマタシクの方も気にはなるが、本題はそちらではなかった。 「ヤボと呼ばれる植物について」  映理は両手を組んで、厳かに言った。宥はバッグからB5サイズのノートとボールペンを取り出した。メモを取るために普段から使っているものだった。  宥は顔を引き締め、ギュウと強くボールペンを握った。映理は重々しく頷き、ゆっくりと言葉を継いだ。 「私も知りません」  映理が言うのを聞いて、宥はぽかんと口を開けた。映理はく、く、と短く息を吐いて、愉快そうに笑っている。 「というのは誇張です。多くは知らない、と言った方が適切でしょうか」  薄っすらと笑みを浮かべながら映理が言う。宥が睨みつけると、映理は宥めるように手の平を掲げた。 「まあ、聞いてください。私もあなたと同じくヤボに関心があって、ここしばらく調べていたんです。商売上の伝手をたどって手を尽くしたところ、ヤボを知っている、という人が見つかりました」 「じゃあ、ヤボの正体が分かったの?」  宥が興奮気味に言うと、映理は「どうでしょう」と考え込むような顔をした。 「食用ヤボの販売業者だと名乗っていましたが、どうにも胡乱な人でした。ヤボについてあれこれ質問しても、『買って実物を見てください』の一点張り。では買いますと伝えれば『あなたには無理です』と手を叩いて笑い出す始末」 「無理、ってどういうこと? 高いの?」 「一般に流通している野菜よりは多少高価ですが、買えないような額ではありません。ただ、購入には条件があって、それを満たすのは無理だというんです」  そう言って、映理はシャツのポケットからスマートフォンを取り出した。指で何度か操作した後、テーブルに置いて宥の方へ差し出した。  長方形の液晶には地図アプリで鹿延周辺が表示されていた。現在地を示す青い点から2kmほど離れた場所に丸いアイコンがあり、そこから南東に向かって緑色の領域が広がっている。 「丸印の辺りは森林になっています。その森林の一角にヤボの販売所があって、直接そこに行かなければ買うことはできないそうです」 「その販売所を探し出せってことか……」  宥は呟くように言った。わざわざそんなことをさせる意図は分からないが、広い森からどことも知れない販売所を見つけ出すとなれば、確かに相応の困難が予想される。しかし映理は首を振って、「そうではありません」と言った。 「頼めば案内してくれるらしいんです」 「えぇ? それなら、無理どころか簡単に行ける気がするけど」 「私もそう言いましたが、件の業者は『では試してご覧なさい』と冷ややかに笑っていました」  映理が言った。宥は戸惑って「んん」と意味をなさない声を発した。  有力な情報のはずだったが、映理の言った通り、どうにも胡乱な話だった。宥は聞いた内容を頭の中で検討しようとしたが、思考の端緒を掴みかねていた。 「まあそういうわけで、今のところは何が何やら分かりません。これ以上ヤボの情報を得るには、虎穴に入ってみるしかないでしょう」  映理の言葉を聞いて、宥の頭に閃くものがあった。会合の日時と場所を取り決めた際のメールに、「森に入る可能性があります」という文言が含まれていた。それを読んだ時、宥は森に生えたヤボを見に行くのかという期待を抱いたが、どうやら当たらずとも遠からずという状況のようだった。 「今日この後、その業者に販売所まで案内してもらう手筈になっています」  映理は小さく微笑んで、「あなたはどうしますか」と付け加えた。  宥は黙り込んだ。行こう、行くべきだ、行け、と好奇心が騒いでいた。警戒心の方は、そんな怪しい話に乗るな、と言っている。真っ当な指摘だったが、その声は好奇心に比べるとずいぶん小さかった。  映理はティーカップを手に取って、シマタシク茶を飲んでいた。沈黙の時間が流れていく。 「私も行く。行きたい」  衝動を抑えられず、とうとう宥は言った。我が意を得たり、と好奇心が快哉を叫ぶ。警戒心は呆れて何も言えないようだった。 「では行きましょう。ティータイムの後に」  映理はそう言って、ゆったりとした手つきでカップを口元に持っていった。  宥は映理に倣って自分のカップに口をつけた。シマタシクの爽やかな風味が逸る気分を落ち着けてくれることを期待したが、どうやらあまり効果はなく、むしろ目が冴えてくるような気さえするのだった。
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