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道沿いに置かれた熊の石像の傍らに、宥と映理は立っていた。
熊の像は宥の腰の高さくらいの大きさをしている。全体としては写実的な造りだが、顔つきは柔らかく愛嬌があり、宥は何とはなしに心が和むように感じた。
石像の背後には無数の草木が並び、暗緑色の空間を作り出している。これからこの森に分け入る段取りだが、それはヤボの販売業者を名乗る人物が来てからのことだった。
そろそろだろうか、と宥が思うのとほぼ同時に、「お待たせしました」という声が聞こえてきた。宥は声のした方を向き、ぎょっと驚いて一歩後ずさりした。
熊の面で顔を覆い、真っ黒い作務衣を着た人物がそこに立っていた。
獣の毛のようなものがびっしりと生えた面は、厳めしい熊の顔立ちを緻密に象っていた。石像の愛らしさとは全く異なり、今にも牙を剥いて飛び掛かるような容貌だった。
黒い髪を全て後頭部で束ね、背丈は子供のように低い。小柄な体躯ではあるが、面の威圧的な存在感のためか、実像よりずっと巨大な生物を前にしている印象を宥は感じた。
「今日はよろしくお願いします」
そう言いながら、映理は面の人物に近づいていった。宥もそれに続き、ゆっくりと歩を進めた。
「そちらさんはお初ですねえ。私は熊面童子と申します」
面の人物がくぐもった声で言った。宥はごくりと唾を飲み込んで、「本宮です」とだけ返した。
販売業者を称する人物が熊面童子と名乗ったという話を、宥はここに来るまでの道すがら映理から聞いていた。明らかに偽名の類だが、確かにその名前の通り、熊の面をつけた子供のような姿ではあった。
「安土さんには以前申し上げましたが、お二方が販売所にたどり着くのは無理だと思いますよ。出鼻を挫くようで申し訳ありませんが」
熊面童子が嘲るような口調で言った。宥は反感を覚えたが、表情には出さず「どうしてですか?」とだけ言った。
「ま、それは後のお楽しみということで」
熊面童子はそう言って、立ち並ぶ木々の間へ続く道を手の平で示した。
「離れずついて来てくださいよ。迷ったって私は知りませんからねえ」
熊面童子はひっひ、と笑い声を上げながら、森の入口へと向かっていった。宥が映理の方に視線を向けると、映理は頷いて「行きましょう」と歩き始めた。宥は深呼吸を一度して、映理と並んで薄暗い緑の中へと入っていった。
森林内の地面は大部分が草や苔で覆われていたが、一部は土が露出して道のようになっていた。そこを熊面童子が早足で進み、少し距離を空けて宥と映理がついて歩いていく。
先頭を行く熊面童子の歩みは速く、ゆっくりと周囲を眺めたり写真を撮ったりする余裕はなかった。それでも宥は、木々が悠然と立ち、一面に草花が青々と茂り、葉や枝の間から陽光がさらさらと差し込む光景を、快いと感じていた。宥は呼吸をする度に、森に満ちる瑞々しい香りを感じる気がした。
三人は何も言わず森の中を進んでいった。三人分の足音、どこか遠くでキジバトが鳴く声、耳元を掠める小さな虫の羽音を聞きながら、宥は忙しく足を動かした。
しばらく歩いていくうちに、宥は自分の体が段々と重たくなっていく感覚を覚えた。足を動かすのが億劫になり、肩にかけたバッグが岩のように思えてくる。頭もぼうっとして思考が鈍り、何度も繰り返し欠伸が出る。歩き疲れたのだろうかと宥は考えたが、それにしても急激な変化ではあった。
宥は拳をぐっと握り、熊面童子の歩調についていこうと試みたが、黒い作務衣の背中は少しずつ遠ざかっていった。一瞬視界がぼんやりと霞み、足がもつれて前に倒れそうになる。
「大丈夫ですか?」
気づくと宥は、映理の腕に体を支えられていた。宥ははっと体を起こし、「ごめん、ありがとう」と映理に言った。映理は小さく笑みを返したが、目元や頬が強張ってぎこちない。宥を支えていた腕が、力を失ったようにだらりと垂れた。
「お二方とも、ずいぶんお疲れのご様子ですねえ」
熊面童子の声が間近でするのを聞いて、宥はぎょっと目を見開いた。前方を歩いていたはずの熊面童子が、いつの間にか宥達の目の前にいた。熊の鼻先が左右に動く。面の向こうから宥と映理の顔色を交互に見ているようだった。
「まだ道のりの半分にも達していないのに、これでは先が思いやられますねえ」
そう言って熊面童子はひっひ、と笑い声を上げ、愉快そうに手を叩き始めた。
「お辛いなら引き返しても良いんですよ」
「お気遣いありがとう。私は大丈夫ですが……」
映理が素っ気ない調子で言って、宥の方にちらりと視線を向けた。宥は「私も平気です」と首肯した。
「そうですか。じゃあ行きましょう」
熊面童子はつまらなさそうに言って、再度早足で歩き出した。数歩遅れて映理が続く。宥は拳にぐっと力を入れ、小石を踏みながら大股で歩き始めた。体が気だるく重たい感覚は消えていないが、熊面童子の言動に対する反感が、宥に前進の意志を供給していた。
絶え間なく忍び寄ってくる眠気を防ごうと、宥は顔中にあらん限りの力を込めた。憤怒にも似た表情で歩き続けていると、隣で吐息のような声がした。宥が顔を横に向けると、映理が咳のような短い呼吸を繰り返していた。宥の脳裏に先ほど見た映理の苦しげな微笑がよぎった。
「どうしたの?」
宥は急くように声をかけた。映理は呼吸を荒く乱しながら、すがりつくように宥の肩に手を置いた。
「不動明王みたいな表情になってますよ」
く、く、と短く笑い声を上げて映理が言った。宥は顔から一切の力を抜き、映理の手を邪険に振り払った。
「心配して損した」
「ああ、やめてしまうんですか。眠気覚ましにちょうど良いと思ったんですが」
「眠気覚まし?」
宥は眉根を寄せて言った。
「やっぱり、安土さんも眠いんだ」
「ええ。あなたもそうですよね。だから不動明王になった」
「なってない」
「妙だと思いませんか?」
映理の言葉に宥は沈黙した。妙とまで言えるか宥には確信がなかったが、現状に違和感があるのは事実だった。
宥は体力にはそれなりに自信があったし、少なくとも現在程度の運動量で、今ほど強い眠気や倦怠感を覚えた記憶はなかった。加えて映理も同時に似たような状態にあるならば、確かに不可解な状況かもしれない、と宥は思う。
「この森に販売所があると聞いて、少し調べてみたんです。といっても大した情報は得られませんでしたが、一つ奇妙な噂を聞きました」
前を歩く熊面童子の背中を見ながら映理が言った。
「森を歩いていると急に強烈な眠気がやってきて、耐え切れずその場で眠り込んでしまった。目を覚ますと、森の入口にある熊の石像の前に寝転んでいた。……一年前この森に入った人が、そんなことを話していたというんです」
映理が言うのを聞いて、宥は息を呑んだ。
「ありそうにない話だと思っていましたが、認識を改めるべきかもしれませんね」
「じゃあ、私達の不調には、この森が関係してるってこと?」
「状況からすると、可能性はあります。例えば」
映理は言って、道の左側を人差し指で示した。足は動かしつつ宥が左に視線を向けると、道の端に沿うようにして、ぎざぎざと尖った青白い葉の植物が生えている様子が見えた。右側にも視線を向けてみると、そちらも同様に青白い葉がずらりと並んでいる。
「あの青白い植物は『バタイヤ』という種類に似ています」
「バタイヤ……初めて聞いた」
「私も一昨日知ったばかりです」
またそれか、と宥は苦笑する。
「バタイヤの芳香には眠気や気だるさを催す成分が含まれるそうです」
「じゃあ、それが」
宥は目を見開いて言った。映理は首を横に振って「あくまで可能性です」と返した。
「バタイヤ自体は、間近で思い切り息を吸ったとして僅かに効果がある程度らしいですから、この状況の立役者とするには無理があるかもしれません。より強い作用を持った近縁種という可能性もありますが、いずれにせよ憶測ですね」
「でも、あり得ないことじゃないわけだ」
「ええ。あの植物か、別の原因かは分かりませんが、この森にいると眠くなるというのは、全くの論外というわけでもなさそうです」
映理が言って、くたびれたように息を一つ吐いた。
宥はぼやけそうになる頭をどうにか動かし、思考を巡らせた。
映理の話を考慮すれば、熊面童子がヤボの購入を「無理」と断じた理由が推察できる。熊面童子はこの森の性質を知っていて、宥や映理が販売所に着くより先に、耐え切れず踵を返すか、あるいは森の中で限界を迎えるか、そういう顛末を想定しているのだろう。
ただ、その場合熊面童子がどうやって眠気を防ぐのかは謎ではあった。あの熊の面に仕掛けがあるのだろうか、と宥は先を行く黒い作務衣の背中をじっと見たが、そこに答えが書いてあるはずもなかった。
「森に原因があるのなら、このまま進めば私達の状態は更に悪化していくかもしれません。熊面童子の言う通り、引き返すという選択肢もありますが……」
「行けるだけ行ってみようよ」
宥は言って、両手を強く握りしめた。少しずつ苦しさが増している感覚はあったが、熊面童子の思惑を崩したいという反骨精神、ここまで来たのに引き返したら勿体ないという貧乏根性、そして何より、ヤボの正体を知りたいという好奇心が、蛮勇じみた前進を宥に命じていた。
「そうですね。もうしばらく頑張ってみましょう」
映理は微かに頬を緩めて言った。
宥は唇を引き結んで、前に進むことに意識を集中し始めた。その副作用として憤怒する不動明王のような形相に戻っていたが、宥自身は全く気づいていなかった。
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