1人が本棚に入れています
本棚に追加
森の中をどれほどの時間歩いているのか、宥は分からなくなってきていた。
腕時計を確認する気力も湧かず、意味をなさない呻き声を発しながら、惰性と無意識で足を動かしている。気を抜くとその場に倒れ込んで、そのまま眠りに落ちてしまいそうだった。
土が露出した道はいつしか途絶え、三人は生い茂る草をかき分けながら歩いていた。熊面童子は森に入った当初より歩く速度を落としていたが、足取りは軽やかで疲労や眠気の類はないようだった。時おり宥達の方を振り返り、「無理はいけませんねえ」「そろそろお帰りになってはいかがです」などと言って囃し立てる。
宥はギギギと錆びた歯車のように首を動かして、隣を歩く映理の方を見た。映理は瞼を七分ほど落とし、茫洋とした表情で歩いていた。足取りは不器用なマリオネットのように不規則で頼りなく、一歩進む度に全身が不安定に揺れている。
「調子はどう?」
もつれそうになる舌を駆使して、宥は映理に声をかけた。明るい声色を作ったはずだったが、実際に出たのは妖怪じみたしわがれ声だった。
「風の前の塵に同じ、といったところです」
木の葉が擦れる音と大差ない声で映理が言った。宥はほとんど反射的に「諸行無常!」と呟いた。映理は口角を僅かに上げて、微笑未満の表情を作った。
「そういえば、以前こういう森の中で、奇妙な植物を一緒に見たことがありましたね」
回転が止まりかかった宥の頭は、映理の言葉をすぐに解釈できなかった。見つめ返したまま宥が黙っていると、映理は小さな吐息を漏らして微かに笑った。
「覚えていませんか? 高校の行事でキャンプに行った時のことです」
「あぁ……」
映理が付け加えた言葉を聞いて、宥の思考は少しだけ動き始めた。遠い記憶の棚から、高校時代のキャンプの場面がゆっくりと引き出されていく。
森の中のキャンプ場で一晩過ごした次の朝だった、と宥は思い返す。ずいぶん早い時間に目が覚めて、友人も教師も誰も起きていなかった。宥は時間と眠気を持て余し、欠伸をしながら木々の間を散策していると、木の傍に座ってじっと一点を見つめるジャージ姿の人物を見つけた。隣のクラスとの合同授業で何度か会ったことがあり、安土映理という名前だけ宥は覚えていた。
少しの間宥は様子を見たが、映理は同じ体勢のまま動かない。宥はゆっくりと近づき「何を見てるの?」と声をかけた。映理は顔を宥の方に向けて、やや低いよく通る声で返答した。
「分かりません」
想定になかった返事に戸惑い、宥は言葉に詰まった。困惑する宥の表情が可笑しかったのか、映理は小さく笑みを浮かべて、先ほど見ていた木の根元を指した。宥がそこを覗き込むと、黒っぽい獣の毛のようなものに覆われた茎から、オクラに似た形の実がいくつも放射状に伸び、それらの周囲を細長い葉が螺旋を描くように包んでいるという、見慣れない形状の植物が生えていた。
その後しばらくの間、宥と映理は植物の正体について議論を行った。というより、お互いの空想じみた推測を披露し合った。それまでほとんど交流がなかったにしては、滑らかに二人の会話は進んでいった。特に納得のいく結論が出たわけではないが、眠気を忘れるくらいには愉快な時間だった、と宥は思い返す。
「あのオクラの怪獣みたいなやつ、何だったんだろう」
閉じそうになる顎をこじ開けるようにして、宥は言った。
「未だに分かりません。度々思い出しては調べているのですが」
「分かったら私にも教えてくれる?」
「ええ、そうします。まあ、今のところはヤボで手一杯ですけどね」
「そうだね……」
宥はほとんど吐息のような声で言った。
終わりかけの蚊取り線香のように燃え尽きそうな意識を、宥は映理との会話によって引き留めていた。自分が何を言っているのか、映理が何を言っているのか、遠くでキジバトが何と鳴いているのか、何もかも曖昧になり始めていたが、構わず宥は掠れる声で喋り続けた。映理と交わす言葉が、迫りくる眠気に抗う最後の火種となっていた。
「ご歓談中のところ失礼します」
不意に木々を震わすような大音声が辺りに響いた。あまりの音量に宥は肩を跳ね上がらせたが、副産物として少しだけ眠気を忘れることができた。
声のした方を宥が見ると、熊面童子が足を止めて宥達の方を向いていた。熊面童子の両隣には、一際太く高い二本の大木が、空を支える柱のように立っていた。
「まさかあなた方がここまで来られるとは、全く思いもしませんでしたよ。いやあ、お見事というほかありませんねえ」
ぱちぱちと手を打ちながら、陽気な調子で熊面童子が言った。
「今まで案内してきた連中は、森に入って五分もすれば地面に寝っ転がっていましたよ。フラフラになってぶっ倒れる様子や、間の抜けた寝顔でいびきをかく様子なんかが実に愉快でねえ。それを眺めて思う存分笑いこけるのが、毎度の楽しみなんです。今回もそうなるはずだったんですが……」
熊面童子はそこまで言って、言葉を途切れさせた。少しの間黙って立ち尽くしていたが、不意にぶおおう、と長く大きい息を吐いた。その瞬間、木々の間に猛烈な突風が吹き荒び、無数の葉を枝から吹き飛ばした。吹き飛んだ葉が一枚、勢い良く宥の額に当たり、宥は「いてっ」と呟いた。
「なぜお前達は眠らない? 小さくて弱い生き物のくせに」
獣の咆哮にも似た、雷鳴のような声で熊面童子が言った。宥の耳朶が、続いて全身が、ビリビリと痺れるように震えた。宥は呆気に取られて熊面童子を見つめた。眠気に苛まれる脳が錯覚を起こしたのか、子供のように小柄な熊面童子の体躯が、数倍も数十倍もある巨大な怪物に見えた。
宥の右足は危機を感じて後ろに下がろうとした。宥の左足は映理を庇おうと前に出ようとした。
「……ストレッチですか?」
映理が宥の方を見てぽつりと言った。宥は自分の体勢を確認し、両足をそそくさと元の位置に戻した。
ぱちんぱちんと手を叩く音が鳴り響いた。熊面童子がひっひ、ひっひ、と息苦しそうなほど笑い声を上げていた。宥は熊の面の中央辺りを睨みつけたが、意に介さず熊面童子は手を打ち鳴らし笑い続けた。
「ひっひ……ま、よござんす。約束は約束ですからね。さあ、こちらへどうぞ」
愉快げな声色で熊面童子が言い、軽やかな歩調で二本の大木の間をくぐり抜けた。宥は映理と顔を見合わせ頷きを交わし、隣り合って大木の元へと進んでいった。
宥は熊面童子の大声によって少しだけ眠気や気だるさを忘れていたが、消えてなくなったわけではなく、苦しみはすぐに全身へと戻ってきた。宥は拳を握り、歯を食いしばり、鬼神もかくやの相となって、出涸らしのような意識を保ちながら歩いた。
何度か足がもつれ転びそうになりながら、ようやく大木に囲まれた隙間をくぐると、宥の目の前に木造りの小屋が見えてきた。周囲は広場のように開けていて、陽光が葉や枝に妨げられず降り注いでいる。
小屋のそばには耕された地面が広がっていた。そこに覆い被さるようにして、濃い緑色の植物が並び生えている。
熊面童子は何も言わず、畑であろうその領域を手の平で示した。宥の思考はほとんど途切れかけていたが、求めていた答えがそこにあることは理解できた。
「ヤボ」
掠れ切った声で宥は呟いた。隣に顔を向けると、生気のない顔をした映理と目が合った。映理は緩やかに頷き、微かに笑うような表情をした。
二人並んで、ヤボ畑の近くまで歩いていく。霞む目でも見える距離まで近づいた時、宥は瞳を大きく見開いて「あっ」と短く声を上げた。
黒っぽい獣の毛のようなものに覆われた茎から、オクラに似た形の実がいくつも放射状に伸び、それらの周囲を細長い葉が螺旋を描くように包んでいる。いつか見た形状の植物が、一面に生い茂っていた。
宥は眠気も体の重さも忘れ、目の前の光景に見入った。すぐ隣で映理が「やっと、分かった」と囁くように言った。
「この森は先祖代々受け継いだ土地でしてね。身内以外にこの畑を見せたのは初めてですよ」
夢中になってヤボを見つめる宥と映理のそばに、熊面童子が近寄って言った。
「もうお気づきとは思いますが、この森は普通じゃありません。いるだけで眠たくなってしまうんですからねえ」
「どういう仕組みなんですか?」
映理が熊面童子に質問した。宥も興味を抱き、ヤボから目を離して二人の会話に意識を割いた。
「昔のご先祖様が妙な木やら草やら植えたせいだと聞いてますよ。具体的にどれがどうってのは分かりませんが」
「あなたが眠くならないのはなぜです?」
「生まれつき平気なんです。身内連中もそうですから、遺伝か何かのおかげで耐性があるんですかねえ」
熊面童子は言葉を切って、一瞬の間沈黙した。
「……裏を返すと、身内以外はあっという間に眠ってしまうはずなんです。ところがお二方は、全く平気ってわけじゃないにしろ、ここに来るまで耐え切った。一体どんな手品を使ったんです?」
熊面童子が急くように言った。
映理はシャツのポケットに手を入れ、チャックのついた小さい透明の袋を取り出した。袋の中には小さな楕円形の粒がいくつか入っていた。それを見て宥は苦笑し、熊面童子はため息を吐いた。
「手品の『種』って洒落ですか? からかうのは止してくださいよ」
「洒落ではありません。これはシマタシクという植物の種子です」
映理は袋の中身を指して言った。宥は顎を落として「まさか」と呟いた。瑞々しく甘い黄緑色の液体が宥の頭をよぎった。
「シマタシクの葉や根には、強い覚醒作用のある成分が含まれています。眠気を抑えるという点に限って言えば、カフェインを優に超えるようです。その葉で作った飲み物を、ここに来る前に飲んできました」
「ははあ、なるほど」
熊面童子が手を叩いて感心したように言った。
「そんな眠気覚ましがあったんですか。いやはや、こいつは参ったなあ」
「じゃあ、この状況を予期して準備してたってこと?」
宥が驚いて言うと、映理は「そうだと格好がついたんですが」と苦笑した。
「『この森に入った人が強烈な眠気に襲われた』という噂を聞いていたとはいえ、私はほとんど信じていませんでしたから、特別な対策を講じるつもりはなかったんです。一応事前にコーヒーでも飲んでおくか、という程度の考えでした」
「それなら、どうして……」
「つい一昨日、隣県の知人に会う機会がありました。その際、雑談がてら『眠くなる森』について意見を聞いてみたんです。知人も半信半疑というか二信八疑くらいの様子でしたが、一応あり得そうな可能性として、香りに若干ながら睡眠作用がある植物を挙げてくれました」
バタイヤのことだ、と宥は理解した。
「知人は薬用植物に詳しく、話のついでに眠気を覚ます方の植物も教えてくれました。隣県のごく限られた地域でしか知られていない種類だそうです。私も知りませんでしたが、知人は実物……というより実物の一部を分けてくれました。乾燥させた何枚かの葉と、いくつかの種子」
映理は小袋を軽く振った後、ポケットに入れ直した。
「そういう経緯で貰った葉を、コーヒー豆の代わりに摂取したわけですが、それが結果的に功を奏しました。幸運と知人のおかげ、です、ね」
映理の語尾が奇妙なスタッカートを成した。そして体の角度が傾き始めた。
宥は映理の体に腕を伸ばしたが、支える力も持ち上げる力も湧いてこなかった。ヤボと対面した興奮で束の間麻痺していた眠気と倦怠が戻ってきたようだった。宥は残った膂力を振り絞って、映理をゆっくりと地面に横たえた。ほっと息を吐いた瞬間、足元が溶けるような感覚が走った。
気づくと宥は空を見ていた。複雑な形の雲が澄んだ青色の中に浮かんでいる。宥にはその雲が遮光器土偶の形に見えたが、あるいはそれは眠りかけの脳による錯視かもしれなかった。
宥はバッグに手を伸ばそうとした。ヤボ畑の写真をまだ撮っていない。腕を持ち上げようと試みたが、重力に従って地面に張り付いたまま動かなかった。
「おやまあ、お二方とも限界ってわけですか。シマタシクとやらも万能ではないんですねえ。やれやれ、まだヤボの売買も済んでいないのに」
宥の耳に熊面童子の声が遠く響いた。
「……冬のように眠るといい。再び目覚めるまでに、私が森の外へ連れて行こう」
宥は目だけを声の方に向けた。霞む視界の向こうに、体中が夜のように黒く、胸元だけが月のように白い、ひどく大きな生物を見た気がした。それが何であるか認識しない内に、宥の意識は暗い眠りの海に沈んでいった。
最初のコメントを投稿しよう!