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 咄嗟に後ずさった僕の腕を、彼の大きな手が掴んだ。 「何を、てゆーか、誰を見てたんですか?あの頃」  血管が膨張して血が逆流するように感じる。耳がわんわんするほど頭が脈打って視界が霞んだ。  彼に掴まれている腕が、熱い。 「で、何であの後…オレと目が合った後、図書館に来なくなったんですか?」  頭が混乱して唇が震えて応えられない。  僕が図書館にいた事に気付かれていたなんて。  でも、でもなんで…。 「オレはそれがずっと気になってた。だから…追いかけた」  彼の視線を頬に感じる。 「あなたの視線の先を知りたかった。もうこの機会を逃したら次はないと思った。オレね、先生。あの後校内であなたを見つけたんですよ。見つけたけど、もちろん声なんてかけられなかった。だから、それもあったから、無理を通してウチに家庭教師に来てもらったんです」  彼が嘘をついているようには聞こえなかったし、僕が彼の家に行くことになった理由も、それなら納得できなくもなかった。  でもだからと言って、本当の事なんて言えない。  君を見ていた、なんて言えるわけがない。  落とした視線。頬が痛いほど紅潮して涙が溢れそうになる。 「あなたは…オレを見てたんじゃないですか?だからあの時目が合った。違いますか?」 「……」  何も応えない、答えることのできない僕を、彼がじっと見ている。  そして、ふっと一つ溜息をついた。 「何でオレが、あなたが図書館にいた事を知ってたのか、とか、訊かないんですか?」  彼の声に、なぜだか苛立ちのような、呆れのような色が滲む。 「どうしてあなたが何を見ていたのか気になったのか、とか、親戚に頼み込んでまでウチに呼んだのかとか!」  声を荒げた彼に驚いて思わず見上げた。目が合うと彼は決まりが悪そうに一度目を逸らし、再び僕を見た。 「…すいません。こんなつもりじゃ、なかったんですけど…」  彼は視線を落とすと、ずっと僕の腕を掴んでいた手を離した。  その、離れていく大きな手の動きがスローモーションのように見えた。  身体全部が心臓になって、鼓動に合わせて世界が揺れる。  僕は咄嗟に彼の袖口を掴んだ。 「…どうして、僕があの図書館にいつもいたの、知ってるの…?」  声が掠れる。喉がカラカラだった。 「どうして…僕が何を見ていたのか、なんて気にするの?どうして僕を…呼んだの…?」  頭が上手く働かないから、言われた通りに問い返す。  そうして言葉を紡ぐと、アタマが勝手に自分の都合のいいようにその言葉たちを解釈してしまう。  …僕なら、何とも思ってない相手にこんな事言わない。でもだからと言って、彼が僕と同じ想いを持っているなんてそんな事…。 「最初は、同じ学校の人だなって思っただけ、でした」  ぽつりと彼が言った。 「オレ、あんま本は読まないんです。ま、気付いてると思いますけど。図書館の前を通って、窓から中を覗いたらあなたがいて本を読んでた。次に通った時もあなたは本を読んでた」  改めて僕を見ていたと彼に言われて眩暈がした。 「何度目かに通った時、また窓を覗いた。やっぱりあなたは本を読んでた。オレは、そんなに読書って面白いか?てゆーか面白いってカオでもないか、とか思ってた。でも。その時、文字を追っていたあなたが、笑った」  僕は反射的に彼の袖口を離して後ずさろうとしたけれど、彼の手がそれを阻んだ。僕の手首を掴んだ彼の手が冷たい。 「それまでは気軽に覗いてた図書館の窓が、急に見辛くなった。結局あなたの後ろ姿や横顔ばかりを見ていた。…あの時までは」  僕の手を掴んだ彼の手に力がこもった。 「振り返らなければよかった。  振り返ったばっかりに、もう横顔も見られなくなってしまった。  オレはね、先生。ずっと、  あなたの事が好きだったんです」  まさかと思いながら恐る恐る彼を見上げる。  涙で霞んでよく見えない。 「…これが、さっきの質問への答えです。先生も答えてください。オレの質問に」  そんな事言われても声なんか出ない。とうとう重力に耐えられなくなった涙が、痛いほど紅潮した頬を伝う。 「そんな顔して泣いてたら、オレのいいように受け取っちゃいますよ?」  言われている意味がいまいち分からない。  ただ、僕の頬を拭う彼の指が冷たくて心地いい。  だから僕は目を閉じた。  彼の手が僕の顎にかかり少し上に向かされる。   あれ?と思って目を開けると彼の向こうに大きな月が見えた。  ああ、月が綺麗だ。  僕はそう思って。  もう一度目を閉じた。  了
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