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「月が綺麗ですね」
彼が空を見上げて言った。
それは明治の文豪の割と有名なエピソードのセリフだけれど、彼は読書はあまりしないタイプだから、ただの感想なんだと思う。
つられて見上げると、空の低い位置に丸い月が出ていた。
満月か十六夜か、というところ。
確かに綺麗なんだけど。
「そうだね。ただ僕はもっと早く帰るつもりだったんだけどね」
件の「ご褒美」の映画の帰りである。彼が「小腹が空いた」と言ってファストフードに寄ったので遅くなってしまった。
模試の結果なんて受ける前から判っていた。
彼は僕なんかが教える必要がないほど優秀だった。
それに、そもそも僕に高校生を教えるのは無謀だったのだと思う。
だから最初に無理だって言ったのに。
そう思いながら、隣を歩く彼をチラリと見上げた。久々の息抜きの外出だからだろう。彼は終始機嫌が良かった。
この映画が終わったら、僕は彼に言わないといけない事があった。
「今度から僕よりももっとレベルの高い人に変わってもらうから」
僕は視線を落として、何でもない話をするように言った。
少し前からスタッフには相談していた。「僕を外してください」と。でもスタッフは首を縦に振らなくて、最終的に「生徒さんがいいと言えば」と言われた。
彼が僕の方を向いたのを、視界の端に感じた。
「だってそうだろう?僕では君の家庭教師としては役者不足だ。せっかくお金を出して雇うなら、もっと君の学力を上げられる教師を選ぶべきだよ」
言いながら、それだけじゃないけど、と思った。
君といるのは苦しいんだ。
週に2回、あの部屋で君と2人っきりで過ごすのは、もう限界がきている。
これ以上君の「先生」を続ける自信がないんだ。
映画も、やっぱり断ればよかった。
さりげなく自分の右の耳に触れてみる。
まだ少し熱い気がする。
映画の途中途中、彼が僕の耳元で、
「この人怪しくないですか?」
とか、
「さっきのアレ、ここに繋がるんですね」
とか、僕にだけ聞こえる声で囁いた。
僕は生返事をした。
映画の内容なんて、頭に入ってこなかったから。
「…でもオレは、先生がいいんです」
「え?」
思わず見上げた彼の表情は、いつもの飄々としたものではなかった。彼は俯きがちに目線だけ上げて僕をじっと見た。
日が暮れかけて人通りの少なくなった公園。大きな銀杏の樹のシルエットが風に揺れる。
「だからムリを言ってウチに来るようにしてもらって…」
「え?」
彼はスッと視線を逸らした。一度唇を開きかけ、また閉じて下唇を噛んだ。そしてバツの悪そうな顔で再び僕を見た。
「…先生のバイト先、あれウチの親戚がやってるんです」
「…え?」
「それで…先生がバイトしてるって分かったから…。いや、違う。嘘です、今の」
彼は頭を振って一度溜息をついた。
「偶然、だったんです。ホントに偶然街で先生を見かけて追いかけて、そしたらあのビルに入っていったからまさかと思って…」
「え、え、ちょ、ちょっと待って」
俯きがちでやや早口に話す彼を、僕は思わず見上げた。
「なんで、なんで君が僕を…」
見かけて、追いかける…?
見上げた彼の目元に朱が差した。
一瞬目が合って、お互いすぐに逸らした。
「…先生、2年前高校の近くの図書館にいつもいましたよね」
「!」
息が止まった。
心臓は早鐘を打ち始める。
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