Scene.1

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 ロウソクを吹き消した後の大きなケーキをハルが切り分けてくれる。築四十年は経っていようかというアパートは殆どが空き部屋で、管理人と言うよりほぼ家族のような付き合いをしているハルは和希の祖母くらいの年だ。 「あんなに小さかった和希がもうハタチか。そりゃ私も歳取るわなあ」 「ハルさんが一緒に育ててくれたようなもんですよね。和希、ちゃんと感謝しろよ」  和平がコーヒーを差し出しながら言う。 「学生時代からずっと居座ってる父さんの方が礼言わなきゃじゃないの」  和希が舌を出す。 「小説家としてデビューする前からお世話になってるんだろ?」 「はい。家賃を待ってもらったことなんて数えきれず」  和平は時代劇で殿様に謁見する大名のように、ははーとハルに頭を下げた。 「まあ売れてよかったよ。あんたの小説」 「え、売れてはないよ」  和希が間髪入れずにつっこむと、 「売れて無くもない!」  と、和平も間髪入れずに言い返した。三人で笑う。 「でも、ヒカルと暮らし始めたときは本当にお世話になったからね。ありがとうハルさん」  和平が優しい目をする。いつも穏やかな父は小説を書くことを生業にしている。だから誕生日の度に、一年に一度聞かされる『母の話』も作り話なんじゃないのかと和希はずっと思っていた。 「じゃあ、ヒカルの…母さんの話をするよ?」 「…うん」  物心ついてからずっと和希は、自分の誕生日にいなくなった母の話を聞かされていた。聞かせるのだと和平が決めていた。 「この話をお前が信じても信じなくても、今回が最後だ。母さんの話をするのは切り良くハタチまでだって、ずっと言ってたよね?」  和平が姿勢を正す。ハルも毎年この話を一緒に聞いているが、特に口は挟まない。小さい頃、どうしても信じられず「ねえ本当なの?」とハルに尋ねた和希に「信じるかどうかは和希の自由だ」と言われてから、ハルにこの話の真偽を問うのは止めた。 「ある日、ヒカルは突然降ってきた」 「………」  ほら胡散臭い。  いや、信じろと言う方が無理だろと和希は思う。人が空から降ってきたって…いくらなんでも。それでも小学校低学年の頃までは本当なんだと信じていた。無垢だった子供時代。反抗期には何言ってんだこのオヤジ、だから小説売れねんだよ、と思った。それも通り越して、ハタチ。ほぼ無心だ。 「二十年前、俺はまだ大学を卒業したばかりで、小説家としても駆け出しだった。学生優先のこのアパートにハルさんに無理言っておいてもらってたんだ」 「家賃が安いとは言え、古いからね。入居する学生も減ってたし、私は全然良かったんだ」  ハルがお茶をすすりながら付け足した。
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