第一話

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第一話

熱い。 身体が、熱い。 果てしなく熱い。 なぜ熱いのか。理由は分からない。 身体を捩る。捩れなかった。 気が付くと、全身を拘束されている。 何故だ-…そう思ったのと同時に身体に強い衝撃が走った。 「っつ…」 ソファから床に叩き落ちた。それで今見ていた光景が夢なのだと気付く。 貫井 麗(ぬきい れい)は床に強く打ちつけた腰を押さえるとソファに寄りかかった。 「…なんやどえらい音したと思ったらお前か」 部屋に男が一人入ってきた。片手に丸めた新聞紙を持っている。肩口まで伸ばした髪をワックスでまとめ、切れ長の目を黒縁の眼鏡でカモフラージュしている。白いシャツと黒のベストに身を包んだ長身の男は麗を見ると呆れた表情を浮かべた。 「また平日の昼間から寝腐りよって。そない寝とったら牛になってまうぞ」 そう言うと男-貴志 一哉(きし かずや)はこちらに歩み寄った。 「どこか打ったんか」 「打ってない…」 「腰さすっとったやないけ」 「腰痛なの」 「どの口が抜かしとんねん」 ホラ立て、と貴志がこちらに手を差し出してくる。麗はその手を掴むと体重を預けて立ち上がった。そのままの足で歩いて窓から外を眺める。外にはパトカーが一台停まっていた。何か近所で事件でもあったのだろうか。まさか私のいるこの場所に用がある訳でもあるまい。 パトカー一台にこんなにも神経が過敏になるのには訳があった。此処がヤクザの組事務所だからだ。 工堂会(くどうかい)。 大阪府の堺市に組事務所を構える暴力団組織。貫井 麗は工堂会では若頭補佐の座に就いており、また自身の組も持っていた。 それがこの貫井組である。貫井組の二代目組長として女としては異例の暴力団組織に身を置いていた。一人で一からこの地位まで登りつめた訳では無い。麗には父親がいた。名を貫井 裕隆(ぬきい ひろたか)と言う。裕隆は工堂会に在籍していた当初は相当な実力者であった。工堂会の組長の下で尽力し、最終的には若頭補佐の座まで登りつめ、自分の組まで持つ様になった。 だがその父親も今はもういない。当時、父親と敵対していた組織の人間に殺されたのだ。裕隆の死によって彼のいた工堂会の若頭補佐、そして貫井組の組長の椅子が空席になってしまったのだ。その空席の座を埋めたのが麗であった。厳密には貫井組の若頭であった貴志が無理矢理麗をその座に座らせたのだが。男社会にいきなり女が入り込んだ事実に反論する者も多くいた。いわば麗は父親の跡を継いだただの非力な女だった。現に組織内での実際の力はかなり弱く、こうして貫井組を女組長として支えていけているのも奇跡に近い。それを横で支えたのが貴志であった。父親の代から貫井組の若頭を務める貴志は、麗が組長として責務をこなしていける様に常に手を貸してくれた。その恩義は大きい。 貫井組の組事務所は大阪府の旭区 高殿にあった。 麗は窓に手をつきながら軽くため息をつくと応接室を出た。貫井組の事務所は二部屋有り、一つは事務室ともう一つは応接室であった。あとは軽い台所とトイレがついているだけだ。事務室に行くとそこには組員数人が事務机に座って電話をかけたり書類の整理をしていた。貫井組の主なシノギは近隣の飲食店や風俗店の用心棒、そしてそれに伴うみかじめ料の徴収、あとはキャバクラの経営を数店舗…これに至っては普通に健全な一般業務としてやっている。月々の稼ぎは悪くは無い。 組員達が麗が部屋に入ってきたのに気付いて頭を下げた。 「姐さん、お疲れ様です」 「みんなもお疲れ様」 とまあ、こんな感じで優しく挨拶をするのである。麗が貫井組の組長を務めていても『組長』と呼ばれる事は無い。あくまでも『姐さん』だ。麗自身もそれで良いと思っているし異論は無かった。貴志が麗の後をついて事務室に入ってくる。 「んで、今日はどないする」 貴志が銀の腕時計を見た。眼鏡越しに切れ長の目がこちらを捕らえる。 「どうするって…」 「なんや、寝ておいて何も考えてなかったんか」 「考えてたんだけど…寝たら忘れたというか…」 「下手な嘘つく女やの」 貴志は呆れた顔をすると自らも事務机に腰掛けた。そして黙々と書類整理を始めた。 麗は再度窓に歩み寄り外を確認した。先程いたパトカーはいなくなっている。ほっと一息ついたのも束の間、組事務所の前に一台の黒いスポーツタイプのレガシィが停まっているのが見えた。先程は停まっていなかった筈だ。そう思うのとほぼ同時に組事務所の扉が荒々しくノックされた。組員の一人が対応する。 「はい」 「府警四課の鍵谷(かぎたに)言います。開けてくれませんか」 太く低い男の声だった。 府警四課。 大阪府警の暴力団事件全般を担当する課。その人間がここに来たという事は良い事では無いだろう。 椅子に座っていた貴志も手を止めて麗の近くに歩み寄った。 「失礼ですが何の用で」引き続き組員が聞く。 「ここの女組長さんに用がありましてな」 組員が麗の方を見た。麗は開ける様に顎をしゃくった。 扉を開けると大柄の男が事務所内に入ってきた。髪はオールバック、顔は強面で目付きが悪い。スーツのズボンと白のシャツの上に柄物のジャケットを羽織っていた。一見するとヤクザに見える。歳の頃は四十半ばだろうか。 ガラの悪い顔がこちらに向けられる。その目が麗を捕え、探る様に顔を見た。その視線に麗は僅かに萎縮した。 「失礼ですが、ボディチェックを」 「いらんわい」 差し出してきた組員の手を鍵谷は払い除けた。真っ直ぐ麗の元に歩み寄る。 「アンタが貫井組の組長さんか」 「そうだが……っ…!!」 鍵谷が麗の顎を掴んだ。咄嗟に貴志が声を上げる。顔を鍵谷の方に向けられ、麗は眉根を寄せた。 「貴様、何のつもりだ…!」 「随分綺麗な顔しとるやないけ。ヤクザにしとくには勿体ないわ」 鍵谷の目が細められる。麗は鍵谷の手を払い除けると強く睨みつけた。 「鍵谷と言ったな。貴様、本当に刑事か」 「正真正銘刑事やで。手帳もある」 そう言って鍵谷は警察手帳を出してきた。写真は鍵谷本人のもの。名前の欄を見ると鍵谷 伸人(かぎたに のぶひと)と書いてあった。 「伸人…」 「美人に下の名前呼ばれると照れるのう」 「御託はいい。私に用があると言ったな。何の用だ」 「気の強い嬢ちゃんやな」 鍵谷が無精髭の伸びた顎を撫でた。 「立ち話するのもなんや…奥に座らせて貰おか」 鍵谷が奥の応接室を指した。 貴志が一瞬、不穏な表情をこちらに向ける。 麗と貴志と鍵谷は応接室のソファに座った。鍵谷がジャケットのポケットから煙草を取り出し、大儀そうに吸いつける。 「それで、用とは何だ」 鍵谷がこちらを見て煙草の煙を吐き出す。 「ここに美人の女組長さんがおると聞いてな。一度顔拝んどきたくての」 「ガサ入れかなんかじゃないのか」 「ガサ入れやったらもっと人数連れてくるわい」 中々話の本筋が見えてこない。この男は一体何が言いたいのだ。 「そう言えば貫井組がやっとるキャバクラあったやろ」 「ああ…」 「あの店が真っ当な経営しとんのか気になっての…ちょっと中見学させてくれへんか」 話の本筋は多分これだ。貫井組の経営しているキャバクラを違法摘発するつもりなのだ。この男、やる事が相当狡い。 「見学を止めさせるにはどうしたらいい」 言ってみた。鍵谷が目を細める。 「あんまし警察の内部事情話すのもアレなんやが…頼みたい事がある」 「なんだ」 鍵谷が灰皿に煙草を押しつけた。「うちの元刑事になるんやが、ある男がいてな…」 「ああ」 「その男がクスリ使うてるって噂があるんや」 「クスリ…」 元刑事が覚醒剤に手を出している。いくら刑事を辞めた男とはいえ、警察としてはこの案件は放っておけないだろう。 「それで」 「男の名前は飯田言うんやけどな…ソイツ…女がおんねん」 「だから?」 「分からんか」 鍵谷が麗を射すくめた。 「飯田は女とヤる時にクスリ使うてるんや」 キメセク。 即座に脳内にこの言葉が浮かんだ。 覚醒剤を使ったセックスの事を総じてキメセクと言うのだが、キメセクは薬効によるホルモンの過剰分泌により強い高揚感や催淫作用が身体に現れる。クスリを使ってセックスしている最中はまさに天にも昇る気分なのだろう。 「確証はあるのか」 「無かったら此処には来ぉへん」 「そうか…その調査を私に頼みたいと?」 「断ったら貫井組の存続に関わるで」 「………」 鍵谷の顔を見た。とても冗談を言っている風には見えない。そうか、鍵谷はこの事件か貫井組を違法摘発するかのどちらかで自分の手柄を挙げようと考えているのだ。 「…分かった。手伝ってやろう」 麗が隣に座っていた貴志を見る。 「私の組の若頭の貴志を貸す。それで事件を追って…」 「何言うとんねんアホンダラ」 突如として鍵谷が口を挟んだ。 「もしかしたら男と女がオメコしてるの覗かなアカンのやぞ、それを男二人で仲良う見物せないかんのかい」 何が悲しくて男なんかと…、と鍵谷が腕を組んだ。貴志が眉をひそめて鍵谷を見る。 「ワシも別にこないなゴリラみたいな男と人のオメコ見た無いわ」 「…モヤシみたいな身体して言うのう」 「なんやと…?」 貴志と鍵谷との間に剣呑な空気が流れる。このままではいけないと思い、麗はすぐに二人の間に割って入った。 「この一件は私が貫井組の代表として受け持つから、貴志は事務所の方をお願い」 貴志と鍵谷が麗を見る。鍵谷はソファに身体を預けると一つ溜息をついた。 「なら決まりや。早速付いてきて貰うで」 鍵谷が麗の腕を掴み組事務所を出て行く。貴志と組員達の静止の声が聴こえたが反応すら出来なかった。
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