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軽いジョギングでも毎日続けていると下半身が安定してくる。
体重移動はスポーツをする人間なら誰もが意識しなければならないポイントである。その証拠として、重心が安定している状態から繰り出される拳と、安定していない状態から繰り出される拳とでは威力に極端な違いが出る。
涼真には二つの課題があった。
一つは、対峙する相手は凶悪犯であり、ボクシング選手ではないということ。
これはスポーツの試合で勝つために鍛えていればよいというわけではなく、任務として無法者の相手をするために鍛えなければならないということで、脚が跳んでくることもあれば、ナイフを振り回されることもあり、拳銃の弾丸が飛んでくる可能性もあるという意味である。だから、あらゆる攻撃に対しての対処法を考案しておく必要があった。
もう一つは、涼真自身の気持ちの問題である。
そもそも涼真がボクシングを初めたきっかけは、実の父親に虐待されて育ったトラウマを克服するためだった。別に喧嘩に負けたくないからとか強くなりたいからという動機ではない。だから、無意識の部分で相手への遠慮が出てしまう。
殴られた経験があり、その痛みを知っているからこそ、人を殴りたくない。
それは一般的観点からみれば美点になるのだろうが、生命のやり取りをする可能性のある者と対峙していかなければならない身としては、致命的な欠点であると言えた。
そんな涼真であるが、一つだけジムのトレーナーに言われて胸に刻んだ言葉がある。
それは涼真がボクシングを初めたばかりの頃の話。
『強さ』について尋ねられたまだ幼い小学生の涼真は「相手に負けないこと」と答えてトレーナーにその純朴さを笑われた。そして代わりに「強さとは自分に負けないことだ」と教えられた。
対峙する相手は予測できない。自分の力量で対処できる相手なら何も問題はないが、時には自分なんて足下にも及ばないような相手と拳を交えなければならない時もある。
そんな時に尻尾を巻いて逃げ出すというのも一つの手段としてはありである。だけど一度逃げると癖になる。恥を恥と思わなくなったら、後は落ちるところまで落ちていくだけである。だからこそ、常に自分に負けない自分を作っていく必要がある。
それこそが『強さ』であり、強いということなのだと涼真は教えられた。
「元気でやってそうだな」
ジョギングで誰かの前を走り抜けたかと思ったら、それは鷹取将吾だった。
名前を呼ばれたような気がして振り向いた涼真に、将吾は「よっ!」と片手を上げて挨拶をしてきた。
将吾は北条家での事件の後、海外に旅立っていったはずだった。
「帰ってきたのか」
「ああ、ちょっとまた用があってな」
なかなかに神出鬼没である。涼真が任務に忠実な犬だとしたら、将吾は何を考えているのか分からない猫のようなところがあった。
実際問題として涼真は将吾の力量を知らない。とても優秀だったという話は彼のかつての管理者だった桐谷雅彦から聞いたが、そんな根拠のない言葉だけで納得などできるはずもなかった。
「トレーニングか」
「良かったらスパークリングを手伝ってくださいよ、先輩」
それは涼真のほんのちょっとした好奇心だった。
彼に連れて行かれたダーツバーでは惨敗していたし、前回のミッションでは重要な部分を全て持っていかれてしまっていた。それで何か不利益のようなものを味わったわけでなければ、彼に侮辱されたり見下されたりしたわけでもないが、なんとなく敗北感は感じていた。
鷹取将吾に勝ちたい。それは尊敬できる先輩だと感じているからこそ生じた涼真の小さな対抗心でもあった。
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