成長していく生命

1/1
前へ
/27ページ
次へ

成長していく生命

 『彼』は優秀だった。  一般的に無知であることは罪であるというが、それは好奇心や興味を持たないことが罪なのであって、『彼』の場合は単に教わることのできる人物が周りに誰もいないだけのことだった。  『彼』は知識を欲していた。生活をともにするようになり、私が自分に害をなす人間ではないと認識するようになってから、何でも質問をしてくるようになった。 「教授、教授」  当たり前のことであるが私にも名前がある。だけど『彼』はいつも私のことを名前ではなく『教授』と呼んだ。  教えを授ける者という意味では間違っていない。しかし『彼』は、そんな言葉の意味よりも、どうやら『教授』という言葉が尊称の部類に入ることを理解した上で私のことを呼んでいるようだった。  そのような考えであるのなら、わざわざ訂正を求めるのは間違っている。私はその日からおとなしく『教授』になった。 「教授、幸せってなんだ?」 「幸せか。それは難しい質問だね」 「教授でも難しいのか?」 「ああ、幸せは人によって違うんだ。一般的には心地のよいことや状態だという。しかし、その心地よさを感じとる基準は人によって違うんだ。だから人を幸せにするために行動しても、幸せになる人もいるし逆に不幸になってしまう人もいる」 「人のために行動しても不幸にしてしまうことがあるのか」 「そうだ。だから、そのように考えていった時に定義できるのは『幸せとは安心である』ということだ」 「安心?」 「不安は不幸を呼ぶ素になる。だから安心を与えることによって人を幸せにすることができる。幸せの感度は人によって違くても、不幸になる要因を低下させることはできる」 「なるほど。俺、教授の傍にいれば安心」 「安心を増やしていく手段はいくつかある。身体能力を高めてできることを増やしていっても良いし、知識を高めて分からないことを減らしていく方法もある。人によってはただお金を溜め込むことで安心を得ようとする。しかし、不安の発生を消すことはできない。だけど、何かが起きた時にどうすればよいかを知っているかどうかで不安を最小限に抑えることはできる」  私は『彼』の頭を撫でた。  最初は誰だって分からない。だけど、本人に変えていこうという気持ちがあれば、いくらだって成長していくことができる。  ヒトはヒトとして生まれるのではなく、成長する過程においてヒトになっていくものなのだ。  私は『彼』に知識を授けると同時に、教える楽しみを感じるようになっていった。 「教授、正義とは何ですか?」 「正義とは信念のことだ。つまり自分自身が何を正しいと信じているかによって正義は変わるのだ」 「信じているものが違うから、人と人は争うのか」 「悪意を持って行う争いでは仲間を集めることが難しい。しかし、自らの正義を説き、その正当性を主張して始める争いは、多くの仲間を引き込むことができる。それは時として世の中を動かしていく力となるんだ」 「何を信じるのか、か」 「質の高い正義を求めるなら、まずは学ぶことだ」 「分かりました」  『彼』は哲学的な質問を好んだ。答えのある質問などちょっと調べればすぐに出てくることに気づいたからであるようだった。  哲学的な質問への答えは、自分の倫理観や価値観も試される。時には『彼』の質問に答えていく過程において、自分の思慮の浅はかさに気づかされるようにもなった。それは新しい発見である。  私と『彼』の基本的な関係は保護者と従者だったが、その関係は『彼』が成長していくにつれて変化していった。  良き片腕であり相棒。そんなところだろうか。  私は満足していた。  自分の想いを託すことのできる人に恵まれるというのは、この上なく幸せなことだ。
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加