無垢なる生命

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無垢なる生命

 『彼』の存在を知ったとき、それはとても驚いた。  もちろん技術的に可能であることは想定していたし、そう遠くない未来に世界中の誰かが実現させてしまうであろうことも予想していたが、まさか倫理的価値観を越えて実行に移そうとする者が、この国にいるとは思わなかった。  倫理とは、人々が守るべき秩序であり道徳のことである。つまり、今の世を生きる者たちの常識であるのだが、常識とは先入観に過ぎないことも事実だった。  人は好奇心を抑えられない生き物である。そして資本によって全てが決定され動いていく今の社会において、現場サイドの人間は資本家に抗うことができない。だからこそ、資本家には高い倫理観が必要だと思うのだが、資本収益率が経済成長率を常に上回るというデータがあるように、自制を求めるのは不可能だった。 「君の名前は?」 「……」 「何か好きなものはあるかい?」 「……」 「何か食べるかい?」 「……」  夢は夢であるからこそ美しい。理想が現実になったとき、その価値を真に理解できるのは苦労を重ねた技術者や労働者だけである。資本家は、その苦労の部分がすっぽりと抜け落ちているので、価値を金銭的な数値でしか理解できない。  人工的な人間の創造という夢が現実になった時に、資本家の心に生じたのは、恐怖であり、造ってしまったことによる責任であり、良心の呵責(かしゃく)だった。クライアントが気味悪がって手を出さなかったのも要因としては大きかったと判断している。  そう考えてみると、資本家のモラルが低くても、それを許容しない世論がまだこの国にはあったということなので、喜ばしいことなのかもしれない。 「破棄してください」  不都合な事実は、証拠が残らないように処分してしまうに限る。それが資本家の下した最後の指示だった。さすがは金銭だけ考えて中身を見ていない連中である。愛情などない。  しかし、研究者には躊躇(ためら)いがあった。  『彼』は、数年、もしかしたら数十年の研究と実験の積み重ねの成果であり、誕生した瞬間からずっと経過観察を続けてきた存在である。資本家とは違って愛着があった。  しかし、だからといって『彼』を自分の息子のように受け入れることができるほど、金銭的余裕があるわけでもなかった。  結果として、彼らは私に相談を持ちかけてきた。  紹介したい人がいるというので会ってみれば、それが『彼』だった。  『彼』はごく普通の若者であった。言われなければ判らない。たとえ言われたとしても、そうとは判らない外見をしていた。  私は『彼』を引き取ることにした。独身であり、金銭的余裕はあったし、一研究者として興味もあった。そして助手が欲しかったというのもあるが、何よりも『彼』の目が気に入った。  無垢なる瞳。複雑な感情が生じる前の幼子にも似た目は、不思議と私の心を揺さぶった。 「彼の名前は?」  私は『彼』を造り上げた者たちに尋ねた。  すると、まだ名前を付けていないことが判明した。  実験サンプルに名前を付けないのは常識である。ガラスの容器に入った無個性な生命体たちにそれぞれ好きな名前を付けて投薬の有無を行っていれば、やがてミスを起こす。実験サンプルの時は管理番号で処理していた方が間違いを防ぐことができるものなのだ。  しかし、『彼』はもう実験サンプルではない。もうとっくに名前が与えられていても、おかしくはなかった。  私はそれが研究者たちの愛情の限界であると看破した。  名前を付けた瞬間に、存在は個としての価値を持つ。たとえ同じ外見の存在が複数いたとしても、一つだけ個別の名前があれば、それだけは他とは別の違う存在になる。それは命名者と名前を与えられた個との精神的な結びつきの構築を意味してもいた。  ゆえに、命名しなかったということは、彼らにとって『彼』はその程度の存在でしかなかったということだ。 「そうか、名前がないのか」  私は『彼』の顔を見ながら一寸考えた。そして何気なく自分の部屋の中を見渡した。  小型のプラネタリウムが目に止まった。それは私の学生時代の後輩が、とあるメーカーに就職して、苦心の末に完成させた物である。  そういえば、しばらく会っていないが彼は元気だろうか。思わず笑みがこぼれてしまうのは、彼が演劇部のムードメーカーだったからである。  彼の名前は鈴木(すずき)(たける)。イニシャルにするとS・Tになる。 「そうだな」  私は『彼』に向かって頭に浮かんだ名前を披露した。
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