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「…清家さん、…?」
「イギリスではどうも」
男性職員は、歪んだ笑みを浮かべたまま慇懃無礼に頭を下げて見せた。まるで別人のような暗い光を瞳に宿し、人を蔑む態度を隠さない。それでもやはり、目の前にいるのはイギリスで会った清家さんだと思われた。
ロンドンで、霧雨の中、私が絶望的な悲しみに暮れていたら、アフタヌーンティーに連れ出してくれた。紳士的でイギリスの観光名所の話をしてくれて、私のことは会社で見かけると言っていた、…
寒い。
清家さんに頭から被せられた液体が何なのか分からないけど、濡れた衣服が身体にまとわりついて、冷凍室の寒さがひどく堪える。無意識に身体が震え出す。
清家さんの名前は、会社の社員名簿にはなかった。
でも、だけど。
助けられたことは確かだから、会えたらお礼を言おうと思っていた。
なのに、どうして。
「おかげで良いネタを提供出来ました。女神も満足されておられた」
その人が今、目の前で、寒さに震える私を嘲笑いながら意味不明な発言をしているんだろう。
衝撃が大き過ぎて理解が追いつかない。
良いネタ? 女神??
「…どうして、あなたがここに? なんで、こんなこと?」
疑問を紡ぐ、口元がわななく。歯の根が合わない。
やばい。本格的に寒い。
せめて自分の身体に腕を回したいのに、後ろ手に縛られて動けない。
冷凍室はマイナス30度だったか。冷気が滞らないようファンも回っている。ものすごい勢いで自分の体温が奪われて行くのが分かる。
「ふふふ、ははは、あははははっ」
疑問を発する私を見て、清家さんが可笑しくてたまらないと言った感じの笑い声を上げた。
「まだ気が付かないんですか。あなたは本当に愚かですね。私はここの工員で、清 健治と言います」
いや、知らんがな。
つーか、この際、あんたの名前なんてどうでも、…
せいけんじ → せいけ んじ
何のひねりもセンスもありませんがな。
「あなたのことは入社前から知っていました。女神を退けて神と婚姻関係を結ぶという愚行を犯した忌むべき存在。女神が不快に思っていらっしゃるのに、悔い改めることもせず、神の偉大さを我が事のように吹聴していた。愚かだ。愚かすぎる。その愚かさに気づかせるべく、あなたの様子を探り、客観的事実を公に示した。しかし、それなのに未だ自らの愚行を改めないとは、神を冒涜するにも余りある行為だ…っ」
清家だか清健だかが頭を抱えたり両手を振り上げたりして、大げさに話せば話すほど、白けた気分になってくる。
何言ってんだ、こいつ。
こっちはあんたの演説を聞いてる暇は一ミリもないほど寒くてヤバいんだっての。
全身に鳥肌が立つ。自分が震えて冷凍棚にぶつかるカタカタ言う音が聞こえる。無意識に寒い寒いと繰り返してしまう。
すこぶる反抗的な気分になりながら、それでも不意に思い出したことがある。
『…そういえば、工員のセイさん。ちょっと気をつけた方がいいかも』
そうか。
分かりたくもないけど、妙に納得がいった。
『そう、そのアリサさんに陶酔してるらしい人』
『作業アルバイトに入ってもらってる男の人なんだけど、何て言うか、雨宮たちのこと異様に見てる、…気がする』
イギリスでこの人に会ったのも。不倫妻とかナナセ離婚とか騒がれているのも。がんもどきの大量発注も。
最初から全部、仕組まれていたのか。
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