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―――…つぼみ。
ななせの声が聞こえる気がする。
『――…つぼみっ!!』
暗く冷たい深淵を一人ぼっちで彷徨っていた意識が、ゆっくりと引き上げられる。
眠い。眠たい。もう眠らせて。
痛くて寒くて辛いところに戻るのは嫌。
悪意と憎悪の標的にされるのは疲れた。
「つぼみ、大丈夫か、しっかりしろ!!」
何かが私の身体に触れている気がする。
身体を拘束していた戒めが解かれて、冷たい氷の覆いが剥がされて、身体が何か、別のものに包まれる。
何か。
とても大切なもののような気がするけど。
それが何か分からない。
固さも柔らかさも冷たさも温かさも、何も感じられない。
「くっそ、めちゃくちゃ冷たい、…っ」
その何かがそっと労わるように、だけど確実な強さを持って全身を包み込む。
苦しいくらい切実に。
…苦しい? 否。…愛しい。
「つぼみ、つぼみ、目ぇ開けろ!!」
とても大切な何かが私を呼んでいる。
最後に一つだけ願いが叶うなら、呼んで欲しかった私の名前。
優しい声。低く沁みる甘い声。
夢みたいに幸せで、大好きな、…
「…つぼみっ」
なんで。泣いてる。泣かないで。
大好きで。大好きで。大切な。
何より愛しい、…
「頼むからっ、…俺を置いていくな、…っ!!」
――…ななせ。
「…だい、…すき」
何か優しい温もりが触れたような気がする。
これ以上ないくらい。優しく優しく。
「…俺も好きだよ」
最後に一つだけ願いが叶うなら、触れて欲しかった幸せの証。
ななせ、泣かないで。
私はここにいるよ。
私の全ては、ななせのものだよ。
「ななせ、こっちだ。ここに乗れ。飲ませられるなら、これ飲ませて」
ゆらゆら揺れる。ふわふわ漂う。
何も見えない暗い深淵から少しずつ明るい方に誘われて行く。
何かが注ぎ込まれて、ゆっくりと少しずつ感覚が戻ってくる。
私を抱いている。
愛しい温もり。
「…なあ、死なないよな? つぼみ、死んだりしないよな?」
「…大丈夫。絶対に助けてやる。お前の発見が早かったから、助けられる」
手足に何かを付けられて、大きな何かに乗せられて、運ばれて行く。
遥か上空の陽の当たる場所へ。大切な大切な、あの人のいるところへ。
どんなに痛くても。冷たくても苦しくても。
あなたがいるなら。そこが私のいるところ。
「だから泣くな。俺は弟も義妹も失くしたりしない」
誰か。別の人の気配がする。
力強くて確実で。確固として頼もしい。
他にもたくさん、誠実で堅実な腕が孤独な深淵から引き上げてくれるのを感じる。
「アイツ、殺してやればよかった、…」
「お前を神って呼んでた男か。あれだけ痛めつければ十分じゃないか」
「…十分じゃねえよ。殺しても殺しても足りない」
「気持ちは分かるが、お前が暴走すると、つぼみが泣く」
「……。」
「お前、記憶があってもなくても変わらないな。そんなに大事なら、ちゃんとつかまえておけよ」
「……。」
自分が急速に引き上げられていく感覚と共に、急激な眠りに襲われた。
微かに残されていた意識が途絶えていく。
眠くて眠くて抗えない。強力な睡魔に引き込まれて。
何か。ななせが言っているような気がするけど、よく聞こえない。
ななせの声も温もりも匂いも、遠く離れていく。
待って。ダメ。眠ったら消えてしまう。
今のななせが。
こんな風に愛おしそうに私を見るなんてありえない。
だからあと、もう少しだけ。
最後に神さまがくれた幸せな夢の続きを見ていたい。
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