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「お疲れ、奥さん」
夢かもしれない。
ななせの甘い声が頭の上に落ちて、ななせの大きな手が私の手を取って、さり気なく私の荷物を持ってくれる。当たり前みたいに絡められた長い指に引かれて、改札を離れて歩き出す。
その一挙手一投足を周囲にいる人たちが固唾をのんで見守っているのが分かる。私と同じように、ななせの声に仕草に目の動きに、いちいちハートを射抜かれている。
奥さんとか、奥さんとか、…幸せ過ぎて無理。
「濡れるからつかまってな」
ななせが私を傘に入れると引き寄せて腕につかまらせた。
街灯に照らし出される帰路と雨音。
重なり合う衣服とななせの匂い。
最高かっ、…にわか雨、バンザイ‼
ななせに触れると、私は全ての細胞がななせに向けられて、ななせしか見えなくなる。
我が家の養子となったななせとは、長年姉弟として過ごしてきたのだけど、ある時ななせに触れたら、もう真っ逆さまにななせに落ちてしまった。
いろいろあったけど、ななせが夢のようなプロポーズをしてくれて晴れて入籍し、身内だけの結婚式を来月に控えている。
「な、…ナナセくんが傘を持ってお迎え」
「ナナセくんと相合傘~~~」「彼女さん、腕につかまらせてる」
「違うよ、奥さんでしょ、奥さん」「いいやぁあああ、尊いっ!」
「素敵。普通に素敵でほのぼのする」「庶民的で推せる」
この光景は、『ナナセ、愛妻を駅までお迎え』というタイトルで早々に拡散された。
「…びっくりした。ななせ、今日は仕事早く終わったの?」
透明な大きめの傘と切れ間なく降り続く雨に遮られて、ななせと二人きりの即席空間が出来る。濡れないように私に向けて少し斜めに差し掛けられた傘の角度が愛しい。
「まあな。雨降ってきたから終わりにした」
無邪気ともいえるななせの顔。
…終わりにした?
「雨の日のお迎えっていうの、やってみたくなった」
つまりは。
雨が降ったらお休みな南の島のハメハメハ大王の子ども。みたいな?
チラリとななせを見上げると、甘い瞳が楽しげに揺れている。
う、…自由だ。
新米サラリーマンの身としては雨くらいで休むなんて羨ましい限りで、なんだか恨めしいような気もするけど。
「俺、雨の日、結構好き」
歌うように話すななせの声に触れると、まあいいかと思える。
ななせの声は、心の淵にそっと降り積もる。
雨の日は、少し心細くなる。
幼少期。
看護師をしている母の帰りが遅くて、止まない雨の音が寂しくて、ななせに一緒に寝てもらった。ななせの声は音のない雨のように静かに深く沁みていく。心に慈雨が降り積もる。
「私は、ななせが凄く好き」
口には出せなかったけど、心の中で呟いた。
ななせの手も目も声も。雨の日のお迎えをやりたくなっちゃうとこも。全部。
ななせがいてくれるなら、どんな土砂降りだってへっちゃらなんだ。
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