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恋は盲目
昨年、浅井朝倉を攻め滅ぼした織田信長は、岐阜城での新年の酒宴の席で、浅井長政、久政父子、朝倉義景の薄濃(はくだみ)の頭蓋骨を譜代の家臣団の前で披露した。この儀式はこの時代において珍しいものではく、これをもって信長を非道だと位置づけるのは、現代の感覚で物事を差配することであり、時代背景を全く無視しているといえる。
その席には、息子(織田勘十郎信忠)信忠も出席していた。
「これまで何体もの死体を目にしてきたが、黄金の骸骨ははじめてだったな。うん、衝撃的である」
信忠は言葉とは裏腹な笑みを浮かべながら自室に入り、寝室の奥にある納戸に飾った松姫の肖像画を眺めた。
「松姫がのう新太郎」
「松姫様が、どうかなされましたか?」
信忠の着替えの手伝いをしながら、新太郎は顔をあげた。
「某の迎えを待つと仰せだ」
「それは果たして良い事なのでございますか?」
甚七郎が答えた。
「良いに決まっておろう」
信忠の脱いだ着物を畳む新太郎、甚七郎に向かい合うようにして信忠は腰を下ろした。
「逆に其方らに問う。なにゆえ松姫が某を待つことを、良くないことと申すのだ。意見を聞かせて貰おうかな」
「わたしも甚七郎も良くないとは申しておりませぬ」
新太郎は、畳んだ着物を甚七郎に渡し、背筋を伸ばし、口に拳を当て咳払いをした。
「今年は、すず様が御輿入れされる予定の年でございます。そのことは松姫様にお伝えになったのでございますか。わたしは、もう出会うことのない松姫様を自由の身にして差し上げては如何かと思うのです。松姫様のも新たな出会いを。その方と婚姻して、家の繁栄の為に尽くされるのが良かろうと」
「待て待て新太郎」
信忠は新太郎の話しを途中で遮った。着物を抱え、部屋を出ようとしていた甚七郎が振り返る。
「お前は松姫を、他の者に渡せと申しておるのか」
「いやっ、そういう訳ではござらん」
「そういう訳ではないか」
「言葉がおかしいですな。そういう訳ではないかとは」
「そんなことはどうでも良い。某は元々語彙力に欠けるのだ」
顎に人差し指を当てた信忠は、しばし考え込んだ。
「そこで御座いますか。真剣に考え込んでおられたのは、そこ、語彙力の下りだったのですか」
少々気が抜けた風の新太郎は壁に飾られた松姫に目をやった。
「どこかで出会ったことがあるような、そのようなお方でございますね」
そう言ったのは甚七郎だった。着物を抱えたまま、松姫の肖像画を見ている。
「懐かしいという意味か?」
信忠は聞いた。
「懐かしいという言葉が合っているのか、わかりかねますが、見たことがる様な、うーん、そんな気がするだけです」
「甚七郎の言いたいことはわかる。某も同じようなことを常々思っておった」
信忠は立ち上がり、肖像画の前で腕組をした。
「どこか、母に似ておる。着物のせいか」
「殿のお母上でござりますか、たしかに着物の色柄が似ているような」
「やはり着物が似ているだけか」
「はい、着物の色柄が似ておりますが、殿のご生母様は、もっとこう、大きな瞳をされていたような」
「吸い込まれるような大きな瞳」
着物をしまった甚七郎が、信忠の後ろに正座し、そう言った。
「あの方は、母上はいつも泣き出しそうな目をしているが、時に、その瞳の奥に強い光を見ることがある」
「…織田信長公の御寵愛を一心に」
そう言って甚七郎が自分の口を両手で塞いだ。
「畏れ多いぞ甚七郎」
新太郎がその横顔をちらりと見る。ふたりとも十代後半ではあったが、信忠同様、幼さが消えていなかった。
「気にすることはない」
「口が過ぎました」
「気にすることはないと申しておろうが。父上が、某を産んでくれた母上をいちばんに愛しているのなら、それほど喜ばしいことはない」
「ですが殿、ここ最近ちっとも、ご生母様のお屋敷には行かれてないですね」
甚七郎は信忠の顔を覗き込むようにした。
「うん、いろいろと忙しかったからな。戦とか…」
「戦といえば、三方ヶ原は惨敗」
そういったのは新太郎であった。信忠は腕組をして、うなずいた。
ー三方ヶ原の戦いー
元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。
「あの合戦では、佐脇殿がお亡くなりになり」
ー佐脇良之ー
信長の馬廻衆のひとりで、幼少期から小姓として信長に仕えた武将である。
「新太郎はそれなりに佐脇殿と親しかったからな」
甚七郎は、自分の膝を軽く叩きながらそういい、話しを続けた。
「それにしても、なにゆえ佐脇殿は大殿様(信長)の勘気を被り、長谷川殿、山口殿、加藤殿の三人一緒に勘当されたのでしょうか。それがあり、徳川殿の許に身を寄せることがなかったら、みんなで三方ヶ原で死ななくとも」
「死に場所を探していたのだ」
信忠は遠くを見つめてそういった。
「死に場所ねえ、わかるような、わからないような」
「甚七郎!軽口をたたくな。人の死の話しだぞ」
新太郎が床を叩いた。
「まあまあ、そう怒るな新太郎。ならば話しを変えよう。織田家といえば、子だくさん、で、ございますね」
「であるな甚七郎。祖父の織田信秀公、曽祖父の織田信定公もそうだったのだから。我が織田家は少々好色なところがある。某も例外ではない」
信忠が誇らしげにうなずいたところで、新太郎が咳払いをした。
「先程の話しに戻りますが」
「ん?」
「その大勢の側室の中に、松姫様を置くのはどうも不憫に思えます」
「うん…」
「ですから」
「ですから?」
「殿から別れ状を」
「お前も口が過ぎるぞ、新太郎!」
そう言って甚七郎は新太郎の肩を軽く小突いた。新太郎の眼光が光る。
「新太郎、なにゆえ、そのように松姫に拘るのだ」
甚七郎が言った。
「拘ってなどおらぬ。わたしはただ、何も知らずにお過ごしになる松姫様が不憫なだけだ」
「不憫のう」
黙って肖像画を見ていた信忠がふたりに振り返った。口角を片方だげ上げて微笑む姿は父、信長にそっくりだった。
「松姫を不憫と申すが、某は松姫以外のおなごを正室としては迎えぬ。これは松姫も同じ想いである。松姫も、某の正室として生きて行くと申された」
「なにゆえ、お二方はそこまで拘るのですか。到底、理解できませぬ」
「新太郎にはわからぬ。恋をしたことがないゆえ」
「いやっその」
信忠がにやりと笑うと、新太郎は声を詰まらせた。
「図星だな新太郎。儂は恋のひとつやふたつ日常茶飯事だ」
「お前は黙っておれ甚七郎」
そう言われた甚七郎はふざけた感じで唇を一文字に結んだ。その様子を見て、深く溜息をつき、新太郎は話し出した。
「一度も会ったこともない者同士、そりゃ、殿はよろしい。側室を傍に置き、世継ぎを産ませる。しかしおなごである松姫様はそうは行きません。一生、生涯孤独のままなのです。それでも良いと申されるのですか。それが誠の愛なのですか。それともわたしの考えが間違っているのでしょうか」
真っすぐな瞳で信忠を見上げる新太郎の瞳は潤んでいた。
信忠は眉をひそめ、首をかしげると、
「新太郎、恋に正解などないのだよ」
床に片膝を付き、信忠は新太郎を諭す様にうなずいた。
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