人質の織田の息子、お坊丸

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人質の織田の息子、お坊丸

春の夕焼けが躑躅ヶ崎館を、赤く染めていた。 昨年の今頃、松姫の父、武田信玄が陣中で病死したとの訃報を受けた。信玄の死後も織田との関係は悪化の一途。信玄の四男、勝頼が一時、和睦を申し出たが、織田方がそれを拒否した為、和睦は成立していない。そしていま、長篠の戦いで敗れた武田方が帰陣の途にある。 「これから騒がしくなます。その前に、少しだけ城内を散歩してみたい」 この数か月で松姫は極端に痩せた。長篠の戦には信忠も出陣している。どちらの味方という訳ではないが、そういう曖昧な立場だからこそ、気苦労も多い。 「さくら、織田から来たお坊丸を知っているわね」 「はい、実際にお会いしたことはありませんが、信長公の伯母に当たる方へ養子に出され、伯母のおつやの方様が、我が武田方の秋山虎繁殿と再婚した際、人質としてこの城に参ったと」 「会ってみたい」 「えっ」 ふたりは城の内堀の淵を歩いていた。戦とは全く無縁と思えるほど、穏やかな午後だった。 「信忠殿の文によれば、お坊丸を人質に出したおつやの方様のこと、信長公は大変にご立腹とのこと。むりもない。夫を亡くし、落胆していた伯母を想い、大切な息子を養子に出したというのに、敵方へ人質に出されたのだから」 「聞いたところ、おつやの方様には実子がなく、それこそ、お坊丸君を我が子以上に慈しんでいたと」 「我が子以上という意味は良くわからぬが、武田に城を包囲され、危機的な状況であろうとも、我が子であれば敵方に人質に出すまい。織田の援軍を待ち、それでも耐えきれなければ、お坊丸君だけでも織田へ帰し、自分は自害したら良いのだ。子を持ったことのないわたくしがいうのも可笑しいが、おつやの方様は、他人が産んだお子よりも恋を選んだのではないのか」 「良くわかりまぬが、おつやの方様なりに、遠山家を思ってのことでは」 「ならば、なぜ秋山と再婚したのだ。秋山と再婚したということは、武田に降伏したという意味である。前夫の遠山景任殿を裏切り、高遠城も明け渡したのだ。それが遠山家の為になると申すのか」 「仰せの通りでございます」 「すまぬな、この様な話にむきなって」 松姫は、さくらに頭を下げ、お坊丸が幽閉されている館の方へと向かった。 およそ城内とは思えない、竹林の中にぽつりと建てられた館にお坊丸はいた。侍女と見られる女に見守られながら、その子は庭に放った五羽の鶏と戯れていた。 「動物がお好きですか?」 突然、声を掛けられ、背中を向けしゃがんでいたお坊丸はぴくりと肩を動かせた。侍女が御坊丸に駆け寄り、片手を取ると、肩を抱いて屋敷の中へ誘導しようとする。 「待て、決して怪しいものではない。わたくしは信玄の娘で松と申す。この者はさくら。わたくしの侍女じゃ。そなたの名は?」 三十を超えたばかりと見えるその女は、お坊丸を隠す様にして松姫に向いた。 「千代と申します。若君の乳母でございます」 「左様か、千代」 お坊丸の乳母と聞いて、松姫の目は輝いた。 「そちらへ参っても良いか」 「はい」 お坊丸と千代のふたりはうなずき合った。さくらが庭木戸を開け、松姫を中へ通した。 「こんにちは」 松姫の声に、お坊丸はゆっくりと振り返る。 「まあ凛々しいお顔。いくつになられますの?」 「10になりました」 「まあ、10歳に」 小柄なせいか、見たところ8歳くらいだと思っていたので、松姫は驚いた。 「ご飯は、ちゃんと食べてますか?」 「えっ、ああ、はい」 「急にご飯のことなんて聞いて、ごめんなさいね。なんだかとても嬉しくて、何から話して良いのかわからなくて」 「某のことをご存じなのですか?」 「それはもう。わたくし、実は其方のお兄様の許嫁なのです」 「勘九郎様の」 そう言ったのは千代であった。少し色黒ではあったが、心根のやさしそうな目をしている。 「千代さん、信忠殿とお会いしたことは?」 「御座います。お坊丸君が信濃へ旅立つ時に、大手門までお見送りに来て下さいました」 「似ておりますか?」 「えっ?」 「あの、その」 「あっ、ええ。勘九郎様とお坊丸君の目鼻立ちはそっくりでございます」 「そうでしょう、そうでしょう。わたくしもそう思っていたのです」 「お父上である織田の殿様の血筋かと」 「織田様にも似ていらっしゃるのですね」 胸の前で手を重ね合わせ、松姫は静かに目を閉じた。まるでそこに、信忠がいることを想像しているかのように。 「ここの暮らしはどうですか?不自由はありませぬか?」 「いいえ、皆さま、とても良くして下さいます。不自由など御座いません」 そう話すお坊丸の姿は、立派な若武者に見えた。敵方に囚われているのだ。いつでも死ぬ覚悟が出来ている。その死と隣り合わせの様子に、松姫は胸をうたれた。 「何か必要なものがありましたら、いつでもこの松に申しつけ下され。わたくしは、お坊丸君の姉になる…」 そこまでいって松姫は言葉を切った。お坊丸の姿を見て、ついはしゃいでしまったが、この先、お坊丸と千代が解放され、織田の城へ戻る事があれば、自分が肖像画の松姫とは違うことが、信忠に知れてしまう。そこまで考えを及ばせていなかったことを松姫は悔いた。
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