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伽羅の香木
早朝、さつきが目覚めると、奇妙丸は既に着替えを済ませ、部屋中のあらゆる場所を物色していた。
「若君、何かお探しですか?」
三歳の奇妙丸が自分で着替えを済ませることは珍しい事ではなかった。朝の目覚めが良い方で、二歳を過ぎた頃から、自分で起き、用意された小袖を着て侍女が働きだすのを待っていた。
「思い出したのだ」
「何を、でございますか?」
「大切なもの」
「大切なもの?」
納戸の中にある長持を開け、中を覗き込む奇妙丸の後ろに座ったさつきは肩で深いため息をついた。
「ここにはない」
奇妙丸は立ち上がり、首を前に倒した。
「匂いがしないのだ」
「…」
「あの香り、懐かしい香りがした」
小さな身体を震わせているかと思ったら、奇妙丸はいきなり立ち上がり、「まあ、良い。良いことにしよう」と言った。これは奇妙丸の口癖である。彼は何かに熱中しすぎる傾向があり、思い通りに成らないことがあると癇癪を起す。しかしその直後に、この口癖を言って、己を戒めるのだ。
その日の昼過ぎ、早起きの奇妙丸が昼食後の昼寝をしていると、美しい布で仕立てられた匂い袋を手にしたさつきがやってきて、彼の枕元に置いた。
この匂い袋は、奇妙丸の産みの母が、せめてもの願いと信長に託したものだ。信長はそれをさつきに渡し、奇妙が寝入っている時間だけ、枕元に置く様にと申しつけた。いつだったか奇妙丸はそれを手にし、肌身離さず身に着ける様になった。さつきはそれを気にし、ある日、匂い袋を隠してしまったのだ。それは決して意地悪ではない。男児であり、織田家の世継ぎである若君が、香木を漂わせているのは良くないと考えたからだ。ただそれだけのことだった。
しかしその匂い袋は、幼い奇妙丸が産みの母への想いを募らせる道しるべとなっていた。
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