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勘九郎信重
勘九郎信重(かんくろうのぶしげ)
これは奇妙丸が元服してはじめに名乗った通称と諱(いみな)である。
後に信忠と改めることになるのだが。この章では、以後勘九郎と呼ぶ。
天正元年(勘九郎は、弟の信雄(幼名 茶筅丸)三男、信孝(幼名 三七)と共に、岐阜城で元服した。
この年、勘九郎は15歳、当時としては少し遅めの元服となった。
「兄上、さつきが泣いていますぞ」
細面で、父、信長にいちばん容姿が似ている信孝は、柱の陰に身を隠し、泣いているさつきを、腕組をして見ていた。
「三七郎(信孝の通称)何をにやにやしておるのだ」
そう言ったのは、次男・信雄である。信雄と信孝の間には因縁があり、ふたりはあまり仲が良くない。それでも表面的には繕っているが、どこかぎこちなさが残る。それと言うのも、信孝の出生日は信雄より二十日ほど遅いと言われているが、実のところ、信雄より身分の低い出自を持つ信孝の母親の方が早く出産していたというのだ。しかし身分の違いの為か、出産の報告を、信雄より遅そくするという、なんとも後味の悪い裏工作がされたという。真意の程は定かではないが、母親同士の確執が、兄弟に伝染しているのは否めない。
「にやにやなどしておりませぬ」
三七郎は兄、信雄の顔を見ないで、そう答えた。
「にやにやとは、余り良い表現ではないな、三介」
三介とは、信雄の通称である。
「いやっ、深い意味はございませぬ。私はただ…」
語尾は、殆ど聞こえない。都合が悪くなると、信雄はいつも言葉を濁し、逃げ腰になる。悪い人間ではないのだが、気の弱さを強勢を張る事で隠し、だが相手に強く出られると、強制の張りぼてが剥がれる前に俯いてしまう。
「それにさつきは泣いてはおらぬ」
涙を拭い、背中を揺らすさつきの方を見る勘九郎は照れているようだった。
儀式の最中、父親の信長も誇らしげにしていた。自身の兄弟関係が複雑だったこともあり、子供たちには仲違いのない様にと、心を配っていた。三人同時の元服にも、そういった意味を含んでいたのだろう。
信長は日頃から口癖の様に、兄、勘九郎を盛り立てよと、弟たちふたりに伝えていた。
「ところで兄上、甲斐の姫とはどの様なお方なのですか?」
「どの様な?」
そう言って勘九郎は顎に手をやった。
「どの様な、と言われてものう三七郎。出会うたことがないゆえ、わかる筈がない。肖像画でもあれば別だけど」
甲斐の姫とは、勘九郎の婚約者・松姫のことである。
東美濃国衆・遠山直康の娘を養女に取った信長は、その娘を武田信玄の嫡子・勝頼の正室としたが、ほどなくして養女が死亡したため、武田との同盟関係の補強として、信玄の娘と自身の息子との婚約を結んだ。なぜ、わざわざ養女かというと、単純に自分の娘を人質に出したくなかったからだ。信長はその印象からは想像できない程、子煩悩であった。
「文のやり取りは数回しておるが、顔は想像がつかぬ」
「聞いてみたら如何でしょう?」
三七郎は拍子を打ち、人差し指を立てた。先程とはうって変わり笑顔になっている。三人は、元服式を行った広間の中央に置かれた床几に、烏帽子、束帯姿のまま、円になって腰かけた。
「聞く?文でか」
勘九郎がちらりと三七郎を睨んだのを見て、三介は含み笑いをした。
「それも…良い」
勘九郎は立ち上がり、腕組をしてうなずいた。
「早速、聞いてみよう」
「ですが兄上、突然、姫様に容姿を尋ねるのは、不躾かと」
「三介、ゆえにお前はだめなのだ」
「だっ駄目とはどういう意味でござりますか兄上」
「何をするのも、二の足を踏み、周りの意見に流されやすい。それがお前の悪いところだ。直しておけ、ゆくゆく必ず命取りになるぞ」
「ふふ…」
三七郎が口に手を当てて笑うと、勘九郎がそれを諫めた。
「三七、人の不幸を笑うな。三介だって実はわかっている。のう三介」
「兄上、酷い物言い」
三介は突如として立ち上がり、顔を赤らめている。
「なっ納得がゆきませぬ」
「ん…」
「その、甲斐の姫様への文の内容と、私のその、優柔不断とは関係がないような。どうして私が、弟の前で叱責されなくてはならないのです」
「叱責などしておらぬ。大袈裟だな」
勘九郎は再び顎に手を当て、唇を尖らせた。
「まあ、別にいいですけど」
「そうか、そうか。良かった良かった」
勘九郎は出口方面に歩き出した。その後を、ふたりは追いかける様に歩いた。
「しかし、気になるな」
板敷の長い廊下に出た勘九郎は、柱に手を当て、広い中庭を見渡した。
「気になるとは?」
その真横に立ち、三七郎が聞いた。
「姫の容姿じゃ」
「まあ、婚礼の時までのお楽しみということで」
「お前はそれで良いのか?」
「はあ?」
三七郎は首をかしげた。勘九郎は眉をひそめて首を振っている。
「良く聞け、三七郎。この先、その姫とは死ぬまで顔を突き合わせることになる。その上、その女が儂の跡継ぎを産むのだぞ。ぶさいくでは困るではないか。織田家は容姿に恵まれた家である。父上は元より、祖父も曽祖父も美男だったと聞き及んでおる。祖母の土田御前様とて、叔母のお市さま、お犬さま、兄弟姉妹に至るまでぶさいくは存在しないのだ。この様な美形の家系に、ぶさいくの血を交えて良いのかと思う」
勘九郎は身振り手振りを加え、早口でまくし立てた。
「では、例えば例えばでござりますが、仮に松姫様がぶさいくだとしても、お子は側室に産ませればよろしいのでは?」
「お子を側室にな…」
そう言うと、勘九郎は神妙な顔つきになった。
「儂も妾腹の子じゃ。儂だけではなく、お前たちふたりも妾腹」
「はい」
弟ふたりは同時にうなずいた。
「しかしな、儂を産んでくれた実の母は、とても美しい方なのだ」
「で、ございますね」
三七郎は大きく同意しているが、三介は黙っている。
「そうじゃ!良い案がある」
勘九郎はふたりに向き直し、大きくうなずき、三七郎の肩に手をやった。
尾張の織田信忠、甲斐の松姫。ふたりの婚約から一年が経過しようとしていた。しかし実は昨年、足利義昭の信長包囲網に呼応した武田信玄が織田領への侵攻を開始したことで、実質、ふたりの婚約は解消されていたのだ。その事実を松姫は未だ知らされていない。その理由というのも、松姫専用の新居が城内に建てたれ、松姫は既にそこで生活を送っていたから。信忠との結婚に向けて、姫が心を躍らせている様子は傍から見ても明らかで。そんな娘に、なかなか真実を伝えられなかったのが実情だった。
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