松姫とさくら

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松姫とさくら

「困った困った」 松姫が珍しく、足音を立ててさくらの部屋に飛び込んで来た。 「何事で?」 自室の掃除をしていたさくらは、頬かむりと前掛けを外して松姫の前に正座した。 「さくら、どうしよう」 松姫も膝をつき、手の中にある文を握り締めた。 「それは、織田様からの文ではござりませぬか?」 「左様、勘十郎信重殿からの文である」 勘十郎信重とは織田信忠のことである。のちに名前が信重から信忠に代り、かなりややこしい。 「その様に握られては、大切な文がクシャクシャになってしまいますよ」 「ああ…」 松姫はうつむき、折りたたまれた文を撫でる様にして皺を伸ばした。 「何か、特別なことが書かれていたのですか?」 「わかる?」 「その慌てたご様子から察するに」 うつむく松姫を覗き込むようにして、さくらは姫と目を合わせた。 「読んでみる?」 消え入るような、小さな声で松姫は言った。 「良いのでございますか?」 文を差し出す松姫の手から、さくらはそっと文を取り、広げた。 「ふむふむ」 読み終えたさくらは、丁寧な折り目がついた文を松姫に渡し、こくりとうなずいた。 「良いではないですか」 「良い?」 「はい」 さくらは大きく微笑んで、胸を張って見せた。 「織田様が、姫様の肖像画が欲しいと願われておるのです。早速、絵師を手配致しましょう」 「待て、待てさくら」 「はあ…」 立ちかけたさくらは座り直し、首を傾げて松姫を見た。 「そなたはこの文の問題点がわかっておらぬ」 「どういう意味で」 「勘十郎信重殿が、わたくしの肖像画を欲しておるということは、勘十郎信重殿は、わたくしの容姿が気になるということだ。そればかりか、こういうことを気にするということは、既にわたくしの容姿が勘十郎信重殿に…」 「あの、姫様」 さくらは松姫の話しを遮った。 「最近、常に思っていたのですが、勘十郎信重殿と呼ぶのは、その、長くはないですか」 「勘十郎信重殿ではないか。この呼び名の何が悪い」 「勘十郎は通称で、信重は諱。これをつなげて呼ぶのは?」 「しかし」 松姫は文で顔を隠し、うつむいた。 「嬉しいのじゃ」 「嬉しい?何がでございますか」 「勘十郎信重殿の名を口にすることが」 「名を、口にする」 さくらは米神に指先をつけ、小さく何度もうなずいている。 「出来る事なら、織田勘十郎信重殿と呼びたいくらいじゃ」 「それはなにゆえで?」 眉をひそめるさくらを、松姫は顔を隠していた文の端からちらりと見て囁く様に言った。 「恋とはそういうものじゃ」 「左様で、ござりますか」 「さくらは恋をしたことがない」 「ええ、恋をする身分でもないので」 文を膝の上に置いた松姫は、手櫛で長い髪をといている。 「その様に自分を蔑むな。恋をするのに身分が関係あるか。恋というものは、しようとして出来るものでもない。例えるのなら、春の陽気の中、ふっと肌を撫でる風のように、どこからともなくやってきて、心を温めてくれるのじゃ」 「ふーん」 唇を尖らせ、さくらは首をふり、 「わたしにはわかりませぬ」 そうピシャリと言った。 「まあ良い。そなたにも良い縁談を、わたくしから母上にお頼み申そう」 「姫様、それはお断り致します。さてさて、忙しいわたくしは夕餉の支度でもしに、台所に行きましょうかね」 腰を上げようとするさくらの袂を掴んだ松姫は、「待て!」と声を張った。 「未だ話は終わっておらぬ」 「話し?」 「ほれ、これじゃ、これ」 文を顔の前でひらひらと揺らす松姫を見て、さくらは「あーっ」と言って手を叩いた。 「勘十郎信重殿の文ですね」 「そなたが勘十郎信重と呼ぶでない。不敬な」 ぷりぷり怒る松姫をさくらは楽しそうに見ていた。 「その、勘十郎様が、わたくしの肖像画を欲しいと願っておるのじゃ。そこでそなたに頼みたいことがある」 「んー、なんなりと」 「そうか、なんなりと、わたくしの願いを聞いてくれるのか」 「まあ、よろしいですよ」 絵師や、新しい小袖の相談だろうと、さくらは思っていたが、それにしては、松姫の熱量が高い。 「ありがとう、さくら。そなたこそ、わたくしの心の友、真の友じゃ」 「あっまあ、そうですね。大袈裟ですが」 松姫に両手を取られたさくらは、胸を大きく反り返した。 「ええ、な、なんですか」 「そなたは美しい」 「そんなこともないと」 「そなたの美しさは城内一、いや甲斐一、いや日ノ本一じゃ」 ここまで来ると、松姫の企みも見えて来た。 「のう、さくら、これは一生の願いじゃ」 「な、なんでござりますか」 さくらは顔をゆがめ、斜に構えた。 「その肖像画の」 「肖像画の?」 「わたくしの代わりに、その肖像画の」 「松姫様の代わりに?」 「そなたが、さくらが松姫として肖像画に描かれて欲しいのだ」 「なんてこと…」 さくらは言葉を失い、松姫の瞳をまじまじと見た。
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