信忠とすず姫の婚約

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信忠とすず姫の婚約

同じ年の七月。初陣を果たした信忠が岐阜城に戻ると、留守を申しつけられた小姓の金森甚七郎と佐治新太郎が、松姫からの文を勘九郎に渡した。 「文だけでは御座いません。これを」 濃い紫の縮緬仕立ての風呂敷に包まれた箱状の物を、新太郎は湯上りの勘九郎の前に差し出した。 「これは」 湯上りの上に真夏の夕方は蒸し暑い。勘九郎は額に滲む汗を何度も拭いては、白い浴衣の胸を開け、首筋に流れる汗を拭った。十代半ば過ぎの勘九郎の身体は未だ成長途中で、日に当たっていた部分以外は白く、そして華奢だ。 「もしやこれは?」 にやりと口角を上げた勘九郎は、「開けて見よ」と顎で指図した。 「宜しいのですか、それでは」 風呂敷包を広げ、それを軽く畳んでから、新太郎は幾重にも重ねられた和紙の中から一枚の絵を取り出し、勘九郎に向けた。 「これは」 板敷の居間の床に置かれた絵には、若い女の上半身が描かれていた。 「お美しい」 思わず、小姓ふたりが口にしてしまう程、肖像画の女は美しかった。暫く絵に見入っていた勘九郎だが、何かを思い出したようにふと、膝の上に置かれた文を広げ、それを読んだ。 「まさしく、まさしくこれは松殿の肖像画である」 読み終えた文を懐にしまい、勘九郎は肖像画を両手で取って、まじまじと眺めた。 「誠に、松姫様はお美しい方で。甚七郎も感動いたしました」 甚七郎は、まるで自分の婚約者を見るかのように、目を輝かせた。 「であろう。姫の美しさは文の文面から読み解くことはできたが、ここまで麗しきお方とは」 「はあ、誠に…」 苦笑いをする新太郎を、勘九郎は訝し気に見た。 「なんじゃ新太郎、歯切れの悪い物言い」 「実は、妙な噂話を小耳に挟んだのでございます」 「何だ」 「いや…」 「はぐらかさず申してみよ新太郎」 勘九郎が帯に挟んでいた閉じた扇子で床を叩くと、なぜか甚七郎の方がはっとしたように背筋を伸ばした。 「その、殿には塩川長満殿の御息女、すず殿との縁談が進んでいると」 それを聞いた勘九郎は目線を外し、斜を向いた。 「気になり詳しく調べたところ、すず殿は畿内一の美女と名高いお方ゆえ、殿が大いに喜びんでおられると」 「それは誠で御座いますか?」 甚七郎は顎を指先でさわり、勘九郎に流し目を送った。 「なっなんだその目は甚七郎」 肖像画を床に置いて、勘九郎は胡坐を組みなおした。 「松姫との婚約は表面上解消されておる」 この頃、織田と武田の関係が悪化し、若いふたりの婚約は解消されていた。 「ま、はい、そうですが、ではなぜ殿は今更肖像画をご所望なされたのですか?」 甚七郎が言い返した。勘九郎は罰が悪そうに首の後ろを触りながら口を開いた。 「織田が武田と敵対し、松姫との婚約も破綻したが、儂は父上に、松姫との婚約破棄だけは承服しかねると申しておる」 「それは誠でございますか?」 甚七郎が一歩膝を寄せた時、蝉が鳴きだした。勘九郎は唇の端に笑みを浮かべ、良く手入れされた豪華な庭に視線を移した。 「この城もこの庭も、全て父上の御尽力の賜物。儂は未だ、何も成し遂げてはおらぬ。しかしな、初陣も果たしたいま、これからは織田家のため、身を粉にして働き、手柄を上げて見せる。父上の望まれる通り、いづれ父上を凌ぐような立派な武士となり、子々孫々織田家を盛り立てて行く。だからという訳ではないが、婚姻に関してだけは、父上の御命令には従えぬ。婚約が決まってから六年ほど。初めの頃は、姫の幼さだけが文章のところどころに見えたが、ここ最近はめっきり女らしくなり、正直、儂は姫に心惹かれておる。松姫は尊敬に値する女だ。この先、武田との関係が如何様になろうとも、松姫とのことは諦めたくないのだ」 「しかし、姫様のお心は」 「新太郎、案ずるな。姫も同じ気持ちであろう。その証拠に、次は儂の肖像画を送って欲しいと書いてある」 勘九郎は懐から文を取り出し、新太郎の前でひらひらと振って見せた。 「解せませぬ」 「何が解せぬのだ、甚七郎」 「わたしも小耳に挟んだのでございます」 「お前もか、もういい何を耳に挟んだのだ、申してみよ」 「塩川殿の御息女が美人ゆえ、甲斐の姫との婚姻は解かれたと」 「なんだそれは」 甚之助を睨む様に見ていた勘九郎が再び庭に目をやった。明らかに動揺していた。 「言いたくないですが、絶世の美女と歌われるすず姫との婚姻を喜び、そちらになびこうとしていたところに、松姫の肖像画が届き、松姫の美貌を見た瞬間、こちらも捨てがたいと、急遽、松姫との婚姻の破棄はないと言いだされたようにしか思えませぬ」 「無礼だぞ、甚七郎。言葉を慎め」 それまで黙って聞いていた新太郎が口を挟んだ。 「其方とて、そう思っていただろうに新太郎」 「その様なことは…」 「どうなさった。言葉に詰まっておる」 唇をぎゅっと結び、首をかしげる新太郎を、甚七郎は面白げにからかった。 「もう良い」 勘九郎がかったるそうな声を出すと、ふたりは背筋を伸ばし、勘九郎を見た。 「其方」 扇の先で、甚七郎を刺した勘九郎はにやりと笑った。 「其方の申すとおりである」 勘九郎は人前では珍しく身体を倒し、脇息に寄っかかるようにした。父、信長が良くする恰好である。 「まあ実際のところ、松姫との婚姻解消に異議を唱えたのは事実である。がしかし、それは次に迎えられるであろう、どこかの姫、すず姫と申したか。その女のことを少々面倒だと思ったからである。どんな美女であれ正室の様な顔をされても困るから。その中には父への少しの反抗の様なものもある。まあそれに、塩川の息女が美女という噂を聞いていたのも事実。これは」 勘九郎は起き上がった。 「それは朗報である。なぜなら、どれほど性格が良くても、どれほどの両家の娘であれ、顔が悪くては元も子もない。そうそうそうじゃ、生まれて来る子供がぶさいくでは子供自身も惨めであろう。儂は自分自身の欲ではなく、先程も申した様に、子々孫々までを考えて、見え麗しきおなごを求めておる。のう新太郎、これは正論ではないか」 そう勘九郎に問われ、新太郎は迷いを見せながらも小刻みにうなずいた。 「ま、答えになっているかどうかは別として、人それぞれいろいろと考え方が御座いますから。ところで殿、肖像画を求められていますが、どうなさいますか?」 「どうなさるって、それは送るしかないだろう。のう甚七郎」 「では早速、絵師を」 ふたりが去った居室の縁側で、勘九郎は文を読み返していた。そしてふっと溜息をついて、暮れ行く夏の空を見上げ、「松姫、私の正室は、其方以外に考えておりませぬ」そうつぶやいた。
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