街の灯を

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街の灯を

風南海はこれまで自分の心に留めて置いた全てを良に話した。ふたりは窓際に立ち、校庭の部活動を眺めている。 「父が亡くなったのは、わたしが中学に上がる年。心筋梗塞だったから突然で、母はかなり動揺していたわ。働き者だけど豪快な父は、借金も多くてね。母は遺産放棄して、住む処を失って、いっそ一家心中でもしてしまおうか、まで追い詰められた時に、母はいまの父と出会ったの。不動産会社を経営していてね、女好きな人で、見た目はやくざね、やくざじゃないけど。新しい父には奥さんがいて、子供もいるから、母は愛人。でも世間的には恥ずかしいからと、学校でも、愛人の男を、再婚相手の様に振舞うようにいわれたわ。みんな本当のこと知ってるのに、馬鹿らしい。それでも最初は良かった。母もスナックで働くのをやめて家にいてくれたし、最初は義父もやさしかったし。だけどね、わたしが高2の時、母がインフルエンザで入院していた時期があって、その時、あの人、わたしの布団に入って来たの」 「えっ」 黙って風南海の話しを聞いていた良がはじめて強く反応した。 「その頃、なんとなくだけど義父の視線が気持ち悪いって思い出していたから、布団に入られた時には、大声を出して、もう叫びに近い大声で、それで家から逃げ出したの。近所の人も驚いて、警察を呼ぶ騒ぎになってね。わたしは厄介だからと高校を中退させられ、家からも一切、出して貰えなくなった」 「病気がち、だったって」 風南海は首をふった。 「そういって世間を欺いたのよ。それでも噂は治まらず、義父はとうとう奥さんと離婚して、母の実家のあった場所に越して来たの。そこがあの家。義父には多少のお金はあったから。なんとね、わたしを監視しやすいようにリノベーションしてしまうのだもの。監禁は更に厳しくなった」 「本当に監禁されてたの?」 「そうよ」 風南海絵は笑顔だった。 「わたしは騒ぎを起こす厄介者だからって、最初の頃は部屋の表から鍵を掛けられていたけど、わたし、本当に病気になっちゃって、白血病を発症してからは、病院にも通わないとならないし、身体もみるみる弱っていくし、すると監視がそれなりに緩くなった。そんな時に良くんと出会ったのよ」 「お母さんは、お母さんは助けてくれないの」 ガクンと頭を垂れた風南海は首を振った。 「母は可哀想な人。弱くて、とても惨めだわ。いまの生活レベルを落としたくないのと、義父への執着で、娘のわたしを見捨てたの」 「そんなこと……」 「そんなに同情した目をしないで、だから話したくなかった」 「ごめん」 「謝ることじゃないわ。わたしが話したくなったのだし」 「少し横になるねといい」 風南海は保健室のベットに入った。顔色が、先程よりも悪い。まるで死人のように頬が苔ていた。良は哀しくなった。屈託のない笑顔で自分を受け入れてくれた風南海が、これ程までに苦しんで生きてきた ことに気づいてあげられなかったことを。そして風南海は、きっと長くはない。彼女の話しが真実ならば、もうあの家には返したくないと、良は思った。 「どうしたらいいんだ」 良無力な自分を嘆いた。保健士の椅子に腰掛け、額に手を当てて、祈る様に考えていた。すると、保健室のドアが開いた。 「だれ?」 見ると、そこには穂波がいた。 「穂波。病院には行ったのか?」 「うん」 嘘だとすぐに気づいた。額の傷が剥き出しのままだったからだ。 「ずっとついて来たの?」 「うん、心配だったから」 「どっちが」 「良が」 「俺のいっている意味は違う。心配なのは、穂波の方だといってるの」 クスクスクスと穂波は笑った。 「そうか……あたしと良がね」 穂波はベッドの方を見た。敷居で隠されているが、人の寝息を感じる。 「風南海さんをどうするの?」 「わからない」 そういって良は首をふった。 「話し、聞いてた?」 「悪いけど、全部」 「そっか」 穂波はひじ掛けのない、丸い椅子に腰掛けると、良のところまで椅子を動かした。 「彼女を救う道はただひとつだよ良」 「えっ、なに?どうやって救うの」 良は穂波に身を乗り出す様にして顔を近づけて来た。 「病院に連れて行くのよ。そして警察にも洗いざらい打ち明けて、行政に助けを求める」 「そんなにうまく行くかな」 脱力した良は椅子の背もたれに身体を預けた。 「まさか、自分の力でなんとかしようなんて思ってないよね」 「ん、なんだよ」 「そんなことは出来っこない!」 「はあああああ」 膝の上で手を組んだ良は、唇を尖らし、穂波を睨んだ。 「もう無理なんだよ」 「何が無理なんだよ。やってみなきゃわからないじゃん」 「無理なの」 穂波の目の中の涙が、どんどん膨らんでいった。 「そんなに否定するなよ」 良は穂波から目を逸らせた。 「否定なんてしたくないよ、でも無理なんだもん」 「なんで無理なんだよ!」 良は立ち上がり、自分が座っていた椅子を蹴った。椅子は転がり、鈍い音を立てている。その物音に気付き、風南海が目を覚ました。 「もう死んでるから」 「ええ?」 半笑いの良は、倒れた椅子を起こして。またそこに座った。 「やめろ、風南海さんに失礼だろう」 「ちがう」 「なにが?」 「死んだのは風南海さんじゃなくて、良だよ」 良は笑い出した。腹を抱え、笑っていたけれど、急にその動きは止まった。 「それ、どういうこと」 「何も覚えてないんだね」 「覚えてない」 「違和感は?」 良の瞳が忙しく動き出した。 「あった。ありすぎる程」 「やっぱりね」 唇に入った涙を、穂波は荒く拭った。 「僕は、どうして死んだの?」 振り絞るように、良はいった。 「中庭で」 良は穂波を見た。穂波の額の傷から濁った血が流れ出ていた。 「まさか、僕は中庭で首を。中庭の自殺って俺だったの。てっいうかお前」 そういいながら良は穂波の額を指さして、涙を流した。 「穂波お前さあ、ばかだなな。血が出てるから病院に行けっていったじゃん」 話しを聞いていた風南海は横向きになり、声を殺して泣いた。 「僕はなんで自殺を」 そう聞くと、穂波はとても悲しい顔をした。 「自殺じゃないよ。殺されたの」 「殺された…」 その言葉を聞いた時、雨の日の校庭が思い出された。地べたにうずくまり泣いている自分。「何がそんなに悲しいのだろう」俯瞰して自分を見ているみたいに、映像が浮かんできた。 「ああ、思い出した」 全てを思い出した時、良の悲しみは穂波に向かった。 「穂波、思い出したよ」 良は自分の腕を抱えて、猫の様に背中を丸めて泣き出した。 「あたしのことはいいんだよ。これが運命なんだから」 穂波は良の背中を撫でた。良は震えている。その痛みを、少しでも和らげたい気持ちで、穂波は掌に、ありったけの精神を込めた。 両親を亡くし、親戚の家に預けられた良は、肩身の狭い生活を強いられた。それでも将来への夢は捨てずに持っていた。中学に上がるとバイトをはじめ、高校生になると毎日5時間以上は働いていた。大学に進学したい。両親の様な獣医師になるのが、良の夢だった。必死で働き、必死で勉強をした。給料のほぼ全額を銀行に入れ、預金額と夢とが重なる思いで頑張った。なのに伯父夫婦は、その金を不正に引き出し、自分の子供達との生活費や学費、旅行代金にした。そればかりではなく、良には、両親が残してくれた遺産があったのだが、その事実を良に隠し、保険金や家、土地の売却金を全て盗み取った。その事実を知った時、良は警察に訴え出たのだが、警察からは、民事不介入の姿勢を取られ、挙句に、いまの親を大事にしろと叱られた。うちひしがれ、ふらふらと町を彷徨っていたら、いつの間にか、高校の校庭に来ていた。生きる気力も無くなっていた。 「穂波、穂波ごめん」 その時、良は、雨の校庭で、穂波の名を呼びながら泣いた。というのも、その数か月前、穂波は自動車事故に遭い、死亡していたからだ。 頼る人は全て、この世から抹殺された。 「良、全てを知ったんだな」 その声は、伯父の純也だった。良の後ろで、傘もささずに立っている。手にはロープの様なものを握っていた。 「警察が来たからびっくりしたよ。まあ執り成しておいたけどね」 ゆっくり顔を上げた良は、伯父に振り向いた。仰天する程、怖い顔付で彼を見下ろしている。 「恩知らずとはこの事をいうんだな。育てて貰った恩も忘れて、警察に駆け込むとは、驚きだよ」 「なんで、なんで僕の貯金を」 純也は良の前にしゃがんで、幼さの残る甥っ子を睨みつけた。 「お前はアホか。生活費ってもんがあるんだよ。お前でも俺の家に住んでいりゃ、光熱費も、餌代も掛かる。それを知ってか知らずか、自分のバイト代から、少しでも生活費だって渡したことがあるかよ、ねえだろう」 「でも、だから、僕は、納屋で寝かされていたし、電気も水道もなくて、水は小川で、風呂は穂波の家か、学校のシャワーだったし、食事だって、あなたたちからは殆ど貰ったことなんかない。自分の学費も稼いだ給料から支払っているし、家の畑の手伝いだって毎日、やっていた」 「それだから、生活費は払わなくてもいいって思ったのか」 「うん、当然だよ」 良も伯父を睨んでいた。鋭く反抗的な顔は、身体の大きさが良の二倍もある伯父の怒りに拍車を掛けた。 「それに、佐代おばさんがいってたよ」 「佐代が、なにいった?」 佐代とは、良の遠縁である。昨日、所要でこの町に遊びに来ていた。 「僕の両親が残してくれていた遺産を、伯父さんと伯母さんが全部ネコババしたと。僕を、金喰い虫と罵りながら、裏でそんなことをしていたんだね」 「そうか」といい、純也は立ち上がった。 「お前の親の保険金が下りた事も、不動産を売って金にした事も事実さ。でもな良、それは全て、お前に使って来たんだよ、ネコババとはなんだ」 「嘘だ、僕は金の掛かる生活なんてひとつもしていない」 「俺の敷地内に住んでいるじゃねーか、家賃だよ、家賃」 肩を落とした良は純也に向き合い、地べたに手を揃えて、頭を下げた。 「伯父さん頼みます。大学に進学するために溜めていたお金なんです。全額じゃなくてもいいので、返して下さい。お願いします」 しかし純也は良の肩を蹴り倒した。 「ばかかお前」 そういって指で自分の頭を押した純也を見ながら、良は唇を噛み締めた。 「そんな金なんてもーねーよ。うちの末っ子の留学資金として支払っちゃったしな。どうしても大学に行きたいというのなら、また一から溜めな。大学は逃げねえーし、外国ではよ、就職して金を貯めてそれで大学に行くっていうじゃなねーか、甘えちゃいかんな良。ほらっ」 といい、純也は持っていたロープを良の手元に投げ捨てた。 「情けねー顔しているなお前。死にたいか?ああ、そうか、お前が必要としてるんじゃないかと、嫁がいうもんで、一応、ロープを持って来てやったわ。まあ、使いたかったら使いな。穂波も逝っちまった事だし、お前をこの世に留め置く理由はないだろう。あっちに行けば、父さん母さんに会えるぞ」 純也は不気味に笑っていた。腹を抱えて、変な声を出して、笑いながら去った。 「その後、良は桜の木で首を括ったの。座ったままだったのよ。ロープが見えなければ、うたた寝していみたいだった。伯父さんに、あんな罵声を浴びせられて、生きて行く事に疲れたんだね。良は、あいつに殺されたんだよ」 「穂波はいつから知ってた。自分や僕が死んでいること。最初から」 良は首を上げるのもつらそうに、うつむいたままだった。 「ちがう」 穂波は顔を大きく振った。 「風南海さんと文化祭で出会った夜、家に帰ったら、お母さんが、わたしの仏壇の前で泣いてて、その時、良が自殺したといってたの。わたしたちは死んでしまっていたのだと気づいた。衝撃的だった。受け入れるまで時間が掛かった。仏壇の存在にも気づかなくて、お母さんとも会話が出来ていると思っていたけど、良く考えたら、全部、すれ違っていて、直接、言葉を交わしていない事がわかった。お母さんだけでなく、他にみんなとの会話もそんな感じだった。といっても良も同じように、1日中、この世にいた訳ではないし、要所、要所で現れてるっていうか、死んでいることに気づくのが遅れたのも仕方ないかと」 良は、手のひらで顔を覆っていた。しゃくり上げる様にして泣いている。 「穂波の傷は事故の傷なの?」 「そうよ。わたしね、交通事故に遭って」 「うん、そうだった……」 良は全てを思い出していた。しかしそれは想像を絶する厳しい現実だった。 「死んでからも、いままでは自由に行動出来たんだけど」 「いまは違うの?」 「昨日から学校と事故現場しか移動ができなくなってしまって。身体もどんどん、腐敗してる」 今度は穂波が泣き崩れた。良は穂波を抱え、抱きしめるようにして支えた。 「なんで、なんで。時間が経つとそうなるの」 「ううん」 穂波は首を振った。 「わたしね、人を殺したの」 「えっ」良は穂波の身体を離し、顔を見つめた。 「まさか穂波」 「わたしたちが既に死んでいて、この世のものではないと良にも伝えなきゃと思って」 「それで、どうしたの?」 「家に行ったら、聞いちゃったのよ。あいつらが良にしたこと全部。笑ってた。家族全員で良の死を笑ってた。だからあたし、あの家に火をつけた」 「あの火事って、海岸から見えたあの日は、伯父さん家だったんだ。穂波、どうしてそんな愚かなことを」 両手をストンと下に落とした良は、首を捻りながら泣いた。 「その罰を受けたの。人を殺したら、地縛霊になり、身体は腐敗する」 「成仏は、成仏もできないの?」 「できないの。そういわれた」 「だれに」 「霊媒師みたいな人。事故現場に拝みに来てくれて、そう教えてくれたの」 「霊媒師、なんだよそれ……」 良は力なくいった。自分が死んでいると突然、聞かされ、穂波の死も思い出した。いまの現実を受け入れることだけで精一杯になっている。 「受け入れる。受け入れる必要なんて、ないんだ」 「どうしたの?」 「死んだんだよな、俺たち。て、いうことは、もうこれ以上の苦しみなんてないし、アイツがいった様に、上に行ければ、親にも会える」 ふたりは呆然と顔を見合わせた。 「それでいいの良くん。穂波さんを置いてきぼりにしていいの」 風南海が起きて来た。これまでの話しを全て聞き、自分なりに理解していた。 自分の前にいる人たちが、この世の者ではないことは、感覚で感じていたことだから、風南海はそれ程、恐れていない。 「穂波さんが地縛霊として、取り残されてしまうのよ」 「風南海さん」 良は弾かれたように立ち上がり、自分の顔を隠した。 「どうしたの、良くん。いつもの良くんのままだよ」 良の行動を見て、穂波は自分の額に手をやった。痛みはないが、傷が広がっている。まさかと思い、保健室の姿見を見ると、首から肩にかけても傷が広がっていた。 「まるでゾンビ」 もう笑うしかなかった。可笑しいのに、とても悲しい。死んでしまったことの悲しさ。母親を悲しませたことの悲しさ。人の命を奪い、天罰を受けることになった悲しさ。おどろおどろしいゾンビの姿で、無限に魂は存在し続け、誰にも認知されずに、そのうち、憎しみを抱くようになり、呪いの亡霊として呪縛される。なんて愚かで、悍ましい。 「穂波さんが助かる方法はきっとある。探しましょう一緒に」 風南海は、良の腕を掴んだ。 「ほら、わたしは、あなたたちが見える。触れることもできるのよ。不思議でしょう。だから、穂波さんの呪縛を解くことも可能だと思うの」 「うん」 良は力強くうなずくと穂波を見た。穂波の傷が広がっているのは、見て知っていた。時間がない。漠然とそう感じた。 「穂波、行くぞ」 穂波は首を振っていた。 「こんなところにいて、だれにも見つけられず、生徒に恐れられるだけの無限地獄に陥りたいのか。安心しろよ、お前の傷は他の人には見えないし、お前は前の様に、とっても可愛い。それに、お前が僕を守ってくれた様に、今度は僕がお前を守る。覚悟してついて来い」 「良……」 「めそめそするな、お前らしくない」 「良だって、さっきまでぎゃん泣きしてたくせに」 「そうだな」 風南海と穂波、良の3人は顔を見合わせて微笑んだ。そして手を繋ぎ、事故現場へと向かった。霊媒師はそこにいた。 「穂波、あれが霊媒師?」 「うん、そう」 「なんか普通だな。黒いマントでも着ているかと思ったら」 「意外に普通でしょう」 穂波はふたりの顔を交互に見て、顎を突き上げた。 「普通ね、普通の主婦よね」 そんな穂波の仕草が可愛くて、風南海はつい笑い出していた。 「さあ、行こう」 良は真顔になっている。横断歩道の向う側にある公園入口の歩道。花束が置かれている場所で霊媒師の女は祈りを捧げていた。いつ、どんな状態で穂波は死ななければならなかったのか。砂浜を走るのが好きな良を探して、事故に遭ったとは考えられないか。昔から穂波は、良の後ばかり追いかけていたから。 「あっ」 穂波は急に立ち止まり、良と繋ぐ手に力が入る。 「あの人じゃない」 3人が横断歩道を渡り切る手前で、振り返った女の顔を見た。パーマのかかった結んだ髪は乱れ、焦心しきっている。 「でも、あの人は」 「知っている人?」 良が聞いた。女はよろよろと通り過ぎて行った。 「わたしを車で跳ねた人」 「なんだって」 振り返る良の腕を持ち、穂波は公園へ向いて歩き出した。 「あの人の姿、見た」 3人は並んで公園のベンチに座っていた。左端の穂波は、女が去って行った方を見ている。 「うん、見たけど」 真ん中に座るのは良だった。 「随分とやつれて見えた」 「車に跳ねられる瞬間に見たの。あの女の人が音楽に合わせて身体を揺らしていたのを、その次の瞬間にバーンだけど。聞こえてたわ、叫んでいるあの人の声。わたしを抱えて救急車を呼んでと、そう叫んでた。変かも知れないけど、実の母親に抱かれているようで、女の人が可哀想に思えた」 「穂波さん」 風南海は、穂波の手を取り、自分の頬に当てた。穂波の手には無数のかすり傷が、それが痛々しかったが、泣くのは控えた。 「良くん、穂波さん。昔ね、こんな話を聞いたことがあるのよ」 風南海は、静かに話し出した。 「命の交換ができると」 「命の交換?」 そう繰り返す穂波に、風南海は、黙ってうなずいた。 「命の期限が短い人間が、死者に命を捧げることが出来るの命の交換」 「捧げる……」 「そうよ穂波さん、あなたも知っているでしょう。わたしはもう長くないと」 「いえ」 穂波はうつむいた。すると良が身を乗り出した。 「どういうこと、風南海さんが誰かに命をあげるってこと?」 「うん、そうなるわね」 「可笑しいよ。自分は死んじゃうんだよ」 「だからいったでしょう。わたしは長くはないの。もしこの手続きを踏まずに、わたしが死んだりしたら、もう誰も助けられない」 風南海は涼やかに微笑んでいった。まるで物語でも話して聞かせている様に。 「手続きってなに?」 穂波が聞いた。 「この世と黄泉の国とを繋いでくれる人を探して、手続きをするらしいわ。契約書みたいなものだといっていた。誤解しないで、この話をしているわたしでさえ、最初は半信半疑だったし、信じられなかったわ」 「じゃあ、どうして信じられたの?」 立ち上がった良は腰を曲げ、膝に腕を置き、風南海を見ている。 「良くんと出会う直前かな?夢の中で良くんと、穂波さんと出会ったの。そしてね、天使の梯子が無数に差している美しい場所で、手続きをしたの。二か所に名前を書いた」 「夢の話しでしょう」 「そうよ良くん。でも正夢かな?」 「命の交換なんだから、その反対もあるの?例えば、死者が生存する人間を、なんだろう。交換って」 訝し気に良は聞いた。 「余命僅かな人が死者を蘇らせる。死者は、生きている人を蘇らせる。蘇るはおかしいわね。やり直しができる。そういうことかな」 「そんなこと、信じられないよ。後半は夢の中の話しだし」 「確かに俄かには信じがたいわよね。でも蘇りは真実よ」 「なんなら試してみるか穂波」 ベンチに座り直した良は穂波の肩を抱き、自分に振り向かせた。 「蘇らせて貰うんだ。駄目で元々、試してみるか」 「でも良くんは?」 「俺には家族も身寄りもない、でもお前には、たったひとりきりのお母さんがいる。お前は未だ死んでは駄目なんだ」 「ううん、いい。良くんが生き返らせて貰って」 「良く聞け穂波。俺は身体が元気なままだし、そのうち成仏するだろう。しかしお前は違う。いいか穂波、本当に生き返るかどうかわからないけど、一か八か、試してもいいと思うよ。損はないし」 「なにいってるの良くん。もし本当なら、風南海さんが死んじゃうんだよ。そんなの可笑しいよ。人の命をなんだと」 「ごめん…そうだった」 良は風南海に向いて深く頭を下げた。風南海はいつもの様に微笑んでいる。 「そうと決まったら、探しましょう」 そう風南海がいった時、滑り台の階段裏から、主婦風の女が出て来た。 「あっあの人」 穂波は立ち上がり、その女を指さした。 「そうです。わたしが霊媒師のレイコです」 良と風南海は立ち上がり、目を見張ってレイコを見ていた。 「お話は全部聞きました。黄泉の国との手続きですね。お安い御用です」 レイコは白い前掛け姿で、風南海の隣に座った。 「では、風南海さんにお聞きしますよ。あなたの寿命はもって半年、いや3か月、かな。その命、どなたに差し上げますか?」 風南海は良を見た。そしてふたりはうなずいた。 「穂波さんに、この命を差し上げます」 すると穂波は大きくかぶりを振った。 「風南海さん、駄目だよそんなの。もしかしたら新薬かなんかで生き延びることが出来るかも知れないんだよ」 「それはありませんよ穂波さん」 レイコは穂波の前に立ち、彼女の右肩に手を添えた。 「風南海さんは必ず半年以内に死にます。そしてベットから出られるのはここ数日のみ、後は死んだも同然の生活になります。医療費を払いたくない両親は、自宅での介護を望み、病院もそれを了承。必要最低限の世話しかして貰えず、罵声だけを浴びせられ死んでゆくのです。それでも穂波さんは、風南海さんを生きながらえさせたいですか?」 風南海はうなずきながら穂波を見た。 「穂波さん、わたしをあの家から解放して欲しいの。死んで楽になりたい」 「そんな……でも、だったら良くんを」 「穂波さん」 風南海は穂波を抱きしめた。そして彼女の髪の毛をさやしく撫でた。 「ここで、無限の苦しみを味わうのは穂波さんなの。身体も朽ちて行く。わたしはあなたを助けたい。わたしの代わりに生きて欲しい」 「風南海さんの言う通りだよ穂波。お前が生きろ。いいね」 ふたりに促された穂波は、戸惑いを消せないままうなずいた。 「いいのかな、わたしだけ、良くん」 「いいんだよ穂波、もし成功したらだけど、必ずまた会おう」 穂波の背中にレイコが触れた。レイコに前を向く様にいわれ、穂波は良に小さく手を振った。穂波を救える喜びと、離れてしまう寂しさで良も泣いた。レイコは片側に座る風南海の背中にも同じように触れ、目を閉じた。レイコは俯き、何か呪文を唱えている様に見える。首筋にネックレスが見えた。 「あれ、あのネックレスどこかで見た気がする?」 良が見守る中、数分でレイコは目を開けた。そして立ち上がり、ふたりを横たわらせると、何もいわずに去って行った。 「どういうこと。レイコさん?え、えーと、そうだ穂波」 良は穂波を抱えた。 「おい穂波、まだかな?えっ、ていうか、新しい穂波に俺が見えるかな」 「海がきれい」 そういったのは風南海だ。ゆっくり身体を起こす風南海を、良は呆然と見つめていた。 「風南海さん?」 「身体が嘘みたいに楽になったわ、良くん」 「どういうこと風南海さん」 良は腕の中の穂波を見た。傷はそのままで眠っている。 「穂波、おいおい、どうした起きろよ」 頬をたたき、顔を近づけた。 「息をしてない。ううん、前から息はしてなかったんだな死んでたんだから」 「穂波さんは逝けたのかしら。逝けるように頼んでいたから」 風南海は長い髪の毛を結んでいた紐を外し、風に合わせて頭をふった。シャンプーの香りが漂う。そして穂波からは死臭がした。これまでそんな匂いではなかった筈なのに、急に死臭が漂う。良は一瞬で全てを悟った。 「騙したな」 「騙してないわ」 良は風南海を睨んだ。鋭く尖った目からは涙が溢れている。 「じゃあ、なぜ穂波は行き返らない」 「行き返らないの。でもねわたしが元気になれたでしょう。健康な身体を手に入れたのよ。手続きは完璧だったわ。それ穂波さんだって、しあわせよ。死ねたんだから。この手続きをしなかったら、穂波さんは無限地獄に堕ちたのよ。わたしは穂波さんを救ってあげたの」 「は、あ」 混乱した良は言葉を出せないでいる。口だけをパクパク開け閉めし、咽喉を手で押さえ、暫くして平静を取り戻した。 「命の交換じゃなかったのか」 「いったでしょう。生きている人間を蘇らせることも出来るのよ。死者が余命僅かな人間を健康に蘇らせる」 「そんな、こんな騙し方をするなんて、君は人ではない」 「そうね、親にいじめられ続けていたら、人の心を失ってしまった」 「言い訳だ」 良は穂波を抱きしめた。そうしていたら、次第に穂波の身体が薄くなっていくのがわかった。 「え、穂波、色が色が」 色が薄くなると同時に身体が軽くなり、天使の梯子が差した。 「天使の梯子」 腕の中を見ると、もうそこに穂波の姿はなかった。良は穂波を追う様に立ち上がった。 「天使の梯子。あの霊媒師がいた時、梯子は出てなかったのに」 「そうだったかしら」 風南海はこれまで見せたことのない態度を取った。腕をベンチの背もたれに掛け、足を組んで、砂浜に立つ良を見たが、すぐにうつむいた。 「顔付が変わったね、風南海さん」 良は振り向かずにいった。 「どういうこと?」 「風南海さん、悪魔崇拝した?」 「してないわよ、失礼ね」 明らかに、風南海の声は上擦っている。 「思い出したんだ。あのレイコとかいう霊媒師の首のネックレス。僕の家の近所に悪魔を崇拝していると噂のある新興宗教団体の住処があって、そこから出て来る信者がみんな、あのネックレスをしてるから。カトラリー製が特殊な形なんだよね。見たら忘れられない」 話しを聞いていた風南海は、飽きれたように溜息をついた。 「それが、わたしの悪魔崇拝となんの関係があるっていうのよ。ていうか、そんな団体は知らないけど、わたしが悪魔崇拝って、どういうこと?大体、悪魔崇拝なんて本当のことなの?」 風南海は明らかに動揺していた。冷静で物静かな風南海とは、まるで別人に見える。天使の梯子がまぶしいらしく、光を酷く嫌がっていた。 「近所で噂になっていて、学校でも注意喚起されてた。風南海さん、そこに行ったんだね」 「ふん、まあいいわ」 前髪で目元を隠した風南海は座り直し、前を向いた。 「あなたが悪いのよ」 「僕が?」 「自転車でわたしを連れ出したでしょう。あの時、集会の告知を見てしまったのよ。ポスターに、命の交換と書いてあった。だからわたし」 「そんな…」 良は前に回って、風南海を見た。 「レイコとかいう人が穂波にいったことは本当なの?無限地獄とか、地縛霊とか、身体が腐るとか」 「あー、それ。うそよ、うそ、うそ。レイコが穂波さんの霊体を腐らせる呪いをかけ、人を殺したから霊体さえも腐るなんて嘘を穂波さんを信じ込ませた。人は死ねば腐るのは当たり前じゃない?だから穂波の肉体は家族によって荼毘に伏されている訳だし、幽霊の穂波の身体は幻同様。だいたいね、幽霊が腐る通りがないじゃない、バカなの」 「…そうだけど」 「全てレイコの仕業。穂波さん、人を信用しやすいから。でもその呪いは、わたしの命の復活と交換で解いて貰ったわ。だから死ねた。成仏したってことよ。そう思えばレイコにも感謝よね」 風南海はふんと鼻を鳴らして微笑んだ。 「自分の幸福の為に、そこまでして穂波を追い込んだ。ねえ、放火のこと、人を死なせてしまったこと、穂波がどれだけ悩んでいたと思う?どれだけ彼女が苦しんだか、なのに、どうしてそんな呪いを……」 「だってね」 「え?」 「良くんの気持ちが穂波さんにあるってわかっちゃったんだもん。悔しいじゃない。わたしの方が美人なのに、穂波なんかが愛され」 絶望だった。良は天を仰ぎ、天使の梯子の天辺を見た。 「えっ、まさか」 穂波が体育座りで、心配そうにこちらを見ている。 「良かった、元に戻ってる。傷がない」 穂波の姿を見つけた良は笑顔になり、穂波にうなずいた。穂波が自分を待っている。もう現世に思い残すことはない。ただひとつを除いては。 「もういいよ風南海さん。僕は行くよ、穂波のところへ」 「どうして良くん」 風南海は焦って良に抱き着いたが、良がかわし、彼の身体を掴むことは出来なかった。 「良くんお願い待って!」 「なに?」 「レイコさんに頼めば、良くんは行き返ることが出来るのよ、ねっ一緒に行きましょう、あの場所へ」 「でも、僕が行き返るために、誰かが犠牲になるんでしょう」 「探せばいいのよ。病院に行けば死にそうな人が、たーくさんいるわ」 「もういいよ。ここに未練はないから。さようなら風南海さん」 「良くん、良くん」 良の姿が消えると、天使の梯子も消えた。風南海は良を追い、海の中に入り、どんどん沖へと、波を分けて歩いた。 「良くん待って、わたしはただ、良くんに見つけられたことが、しあわせだった。あの家に閉じ込められたひとりぼっちのわたしを、あなたは見つけてくれた。例えそれが幽霊であっても、わたしはそれで良かったの、良かったのに」 数日後、風南海は砂浜で発見された。 死因は窒息死。首を絞められた跡が残っていた。 首を絞められ、海に捨てられた。警察は殺人事件として捜査を始めた。 この一連の事件の数日前のことだった。 「レイコさん、またお客様ですよ」 「生きてる方?死んでる方?」 「もう嫌な聞き方、死んでる方です」 「佐藤良と申します」 「で、どんな依頼?あげる方?貰う方?それとも殺す方?」 「殺す方で」                       「了」
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