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若すぎて
更に1週間が経過しても、風南海の部屋の窓が開くことはなかった。夕方の暗い時間に行っても、部屋の電気は点いていない。表に回るとリビングと思しき部屋は明るかった。やはり風南海は入院しているのか。だとしたら、あの日の。ふたりの行動が影響しているに違いない。良は、自責の念に苛まれる日々を送っていた。
「元気ないね、良」
穂波とふたり、学校の屋上にいた。穂波は柵に腕を置き、海を見ている。良は海に背中を向ける様にして、穂波の隣に立っていた。
「風南海さんから連絡ないの」
「連絡先、交換してないから」
穂波は首を曲げ、良を見た。腕に顔を置いている。
「まじで?」
「持ってないんだってスマホ」
「珍しいね」
穂波は突き放す様にいった。
「病気なんだ、彼女」
「病気?」
「もう3年になるといってた」
「治るの?」
穂波は柵に背中をつけ、良を見上げた。
「たぶん、治る。と思う。あまり病気の話しをしたくない様子だったから。詳しく聞いてないんだ」
「確かに、顔色は悪かったと思う。色白なのかも知れないけど」
良は大きく伸びをした。
「放課後、また家に行ってみるよ」
「彼女に会えたらいいね」
穂波の強張った作り笑顔を見て、良は彼女の頬をやさしくつねった。
「しあわせになれよ」
「なによ急に」
良が去っていく後ろ姿を見ながら、穂波は自分の頬にふれた。そして俯くと、その場に座り込んでしまった。
風が強く、波もうねりを見せている。良は荒れる海を見ながら、風南海の家へと歩いていた。良の高校は、この海岸線にあった。片側1車線の道路を挟んだ山側だ。この道は車の通りが激しい。1本奥に入ると狭い道ばかりで、地元の人間以外では、迷って、引き返すのも苦労する。なので人々は皆、この海岸線の道路を使う。良はいつも自転車でこの道を通り、防波堤の前にある公園に停めてから砂浜に下りる。朝夕、この海岸には犬の散歩の人が多く行きかうが、暗い時間帯には、人の姿は見られない。午後5時、町は既に薄暗かった。
「良くん」
風南海の家に向かう手前に海の家がある。もちろん閉店しているが、その店の脇のベンチに、風南海が座っていた。
「風南海さん」
風南海は歯を見せずに微笑んでいた。片手を肩の高さまで上げ、手を振っている。
「なによ、お化けでも見るみたいに」
良はうろたえた様子で頭を掻いた。久しぶりに見る風南海はとても新鮮で、それでいて美しかった。
「ずっといないから」
そう良がいうと、風南海はベンチの脇に寄り、ここにおいでと、ベンチを叩いた。彼は軽く辞儀をしてから、誘われるがままに、隣に座った。
「1週間、合わなかっただけで、人見知りになっちゃった?」
「そんなことないよ。人見知りなんて、子供じゃないし」
良は口を曲げた。
「うふふふ、元気があって良かった」
「風南海さんこそ、お元気でしたか」
良は風南海に、揃えた膝を向けた。
「うん、元気よ」
「入院してたの?」
「うん、そうよ」
入院の話しをした途端、風南海は視線を逸らし、スカートのヒダを弄んでいる。
「やっぱり、あの外出が原因かな。お母さん、怒ってなかったですか?」
「怒ってないよ」
風南海はこちらを見なかった。横顔は微笑んで見える。
「実は心配で、一度だけ玄関のチャイムを鳴らしたことがあるんだ」
「えっ」
風南海は、はっとした顔付で良を見た。
「いつ?」
「別れた日、だったと思う」
「お母さん、なんて」
「インターフォン越しだったけど、どなたですかとだけ」
「そう、他には」
「何も?」
風南海は上を向いて、息を吸い込んだ。目は瞑っている。
「ごめん、いきなり訪ねて、お母さん、びっくりしたよね」
「ううん大丈夫よ」
ふたりは真っ暗になった海を見つめていた。波の音だけが激しく、怖いくらいに心を震わせる。
「わたしね」
風南海は、波の音に消されそうな小さな声でいった。
「どうしたの?」
「実は、わたし……」
「うん」とてもいい難いことを話そうとしているのだろうと良は思った。
「良くんに話さなければならないことがあるの」
「わかった。聞くよ」
彼女の方に完全に向いた時、良の手が、ベンチの上にあった風南海の手にふれた。その時、暗がりの中で人影が動いた。
「あっ」
風南海は何かに弾かれた様に立ち上がると、良を抱きしめた。
「また」耳元でそういい、彼女は去って行った。
良はしばらくその場を動けないでいた。風南海の香り、肌の冷たさ。良の首にふれた指先は、特に冷たかった。良は自分の首筋をさわると、手のひらを見た。そして匂いを嗅いだ。あれ程ちかくで女性を感じたのは、はじめてのことだった。風南海さんはどうなのだろう。そういう経験はあるのだろうか。いまは二十歳だが、3年前から病気だし、高校に入ってすぐに身体を壊したといっていた。恋をしている時間なんてなかっただろうに。そう考えると、気持ちが楽になった。小さな男だと自分で思う。
「それより、風南海さんは僕に何を伝えたかったのかな」
暗がりの人影は、心配した彼女の両親だろうか。言葉にするのも憚られる何かが、風南海を苦しめているのは事実のようだ。
「あれ、なんだろう?明るい」
山側の中腹あたりで火の手が上がっているように見える。良は微かな頭痛を覚えた。
その翌日は土曜日だった。3年生の良には部活動もなく、塾もないので、1日中自由に動ける。良は丘の上にある自宅から自転車で一気に駆け下りると、いつもの、海辺の公園に自転車を停めた。
「あれ、穂波?」
穂波は公園のベンチに座っていた。うつむいていた穂波は、良の存在に気づくと小さく手を振った。
「どうした穂波、元気ないぞ。傷……」
前髪で隠れていたが、大きな青あざのようなものが見える。良が触れようとすると、穂波は頭を抱えてうずくまってしまった。
「何があったんだ穂波、だれにやられた?」
「だれでもない」
声が震えている。良はしゃがみ、穂波の肩にふれ、そっと抱きしめた。
「冷たいな穂波、お前、そんなに体温、低かったっけ」
「うん」
うずくまったまま、穂波は答えた。
「そっか」
「たぶん良は、あたしに触ったことないし」
「子供の頃は良くおんぶしてあげたよ」
「小学生、低学年までよ」
「お前、急に太ったから」
そういわれ、顔を上げた穂波は良の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱した。
「何すんだよ」
少し長くなった前髪を整えながら、良はしかめっ面をした。
「女の子に太ったなんていわないの。デリカシーの欠片もないわね」
「おっ元気になったな」
良は、頭を撫でる振りをして、穂波の前髪を上げた。驚いた穂波は目を見張り、硬直している。
「穂波……」
額の傷口は膿んでいた。昔みた、動物の死体の傷口の様に、腐りかけているといった方がわかりやすい。良は息を飲み、直ぐには言葉を発せられない。
「どうしたんだ、これ」
穂波は答えなかった。見開いた瞳から、涙が、血の雫の様に流れ落ちた。
「病院に行こう。これ、かなり深い傷だよ。うっ……」
酷い匂いがした。さっきまで何の匂いもしなかったのに、穂波の額から悪臭が漂う。
「もう帰らないと」
立ち上がり、無表情で穂波はいった。まるで心がここに無い様に見える。マネキンみたいに、瞬きもせず、一点を見ていた。
「何いってるの。さあ、病院に行こうよ」
「良くん、大丈夫だよ。最近、たまにこうなるの。でもね、明日になれば治るんだ」
「そうは思えないよ、その傷」
良は取り乱していたが、穂波は冷静だった。彼女の肩に両手を置き、彼はうなだれた。
「頼む、穂波、教えてくれないか、お前に何が起きているんだ」
「うーん」
良は穂波を座らせた。前髪で傷口を隠してやる。すると、穂波の表情が元に戻って行く。
「だれにやられたの?」
「だれにもやられてないって」
「じゃあ、その傷はなに?ていうか、痛くないの」
そういいながら良は、額の傷口の辺りに触れた。穂波は、とても穏やかに微笑んでいる。その笑顔は大人びていて、良は一瞬、どきりとした。
「良、いっていいのかな?」
穂波はいつもの口調になっていた。
「いいよ、いっちゃいなよ。俺が助けになると思うよ。大人にも相談するし」
「大人ってだれ?」
「大人は、それは」
大人の顔が思い浮かばない。幼い頃に両親を亡くした良は親戚の家で育てられた。決して裕福ではなかったその家には、子供が他に5人もいて家計は苦しい。それで親戚家族は、お荷物の良を、死んだ者として扱った。存在を認めない、完全無視の状態。
「風南海さんは大人?二十歳だものね」
「年齢的には確かに大人かも知れないけど、彼女には相談できないよ」
これから風南海に会い、昨日、彼女が自分に伝えたかったことを聞こうと思っていた。
「好きなの?風南海さんのこと」
「うん、いや、そんなことはどうでもいいよ」
取り敢えず、いまは一旦風南海のことは忘れ、穂波の傷の原因を聞きだしたかった。虐待という言葉も浮かんだが、穂波は母一人、子一人で、幼い頃から、とても大切に育てられていることを良は知っているし、穂波の母親はとても身体が小さい。成長した穂波に暴力を振るうのは無理だ。
「好きならさ、ちゃんと伝えた方がいいよ。後悔しない様にね」
「なんだよそれ。穂波、誤魔化すな。話しを逸らすな。どうして額にそんな深い傷があり、病院にも行かない?金がないなら僕が払うよ」
良はめずらしく声を荒らげた。
「お金なんかない癖に」
「はあああああ」
「ないじゃん」
「お前、良くそういうこというね。僕は中学生の頃から郵便配達をして、高校からコンビニでバイトをして、ずっと頑張って来たんだよ。お蔭で大学の入学金だって自分で溜めたしね」
そういって良は、胸を大きく反り返した。
「そうだったね」
「な、なんだよ。いい返さないのかよ」
いつもの穂波なら必ずいい返して来たのに、きょうはやさしく微笑んでいるだけだった。明らかに様子がおかしい。良は立ち上がり、穂波の手首を掴んだ。
「行くぞ!」
「どこに」
「病院」
「やだ」
「このままにしておいたら、取り返しのつかないことになる」
良が強く腕を引っ張ると、穂波は泣き出した。シクシクと肩を揺らし、子供の頃の様に指で涙を拭っている。
「ごめん、痛かったか、ごめん穂波」
良は穂波の頭を撫でながら、自分も涙ぐんでいた。身内に無視され続けた生活。そんな時、近所に住む穂波は、妹同然だった。家の敷地内にある納屋で暮らしていた良に、ご飯を運んでくれたのも穂波だ。幼い頃、良は誓った。例え自分が傷ついても、穂波だけは守るのだと。
「お兄ちゃん」
「ん?」
小さい頃、穂波は良のことを「お兄ちゃん」と呼んでいたが、いつの頃からか、良と呼ぶようになっていた。最初は戸惑ったが、いまではお兄ちゃんと呼ばれる方が違和感がある。
「必ず、病院に行くから」
手首を掴む良の手を、穂波はそっと解いた。
「信用できないよ。いまのお前は」
「信用、していいよ」
「どうしたんだよ」
「もう一度だけ、人を信用していいよ、お兄ちゃん」
信用していいよってどういうことなのか。穂波と別れてからもずっとその言葉の意味を考えていた。何かが引っ掛かる。その時、「もう人なんて信用しない」自分が放った言葉と共に、ある映像が浮かび上がる。雨が降っている。びしょ濡れの男は良で、いつもの制服姿である。泣いているのか、水溜まりの校庭にうずくまり、泥を掴んで、地べたを叩いている。
「あれは、なんだった?」
記憶を辿ろうとすると頭痛がした。風南海に会うために砂浜を歩いていた良はその場に座り込み、海を見た。朝日がキラキラと水面を照らしている。なんて幻想的で素敵な光景なのだろう。良は目を細めた。天使の梯子が海に向かって降りていたからだ。
「あの上の世界って天国なのだろうか」
両親を亡くした時からそう思っている。その明るい振る舞いからは想像できないが、彼はとても繊細な心の持ち主だった。或る意味、穂波の存在が、彼が、これまで生きてこられた要だったのかも知れない。
「あれっ」
良は立ち上がった。天使の梯子の下に人の姿を見た気がしたからだ。ゆっくりとした足取りで歩を進めると、そに人物が風南海だと気が付いた。
「かっ風南海さーん」
彼女を呼びながら、良は海に入って行った。海水は、氷水の様に冷たかった。こんなところに入ったら、死んでしまう。
「風南海さん」
普通に泳ぐのと違い、足が取られる。そうだ、泳げばいいんだ。良は泳ぎが得意な方だ。クロールで泳ぎ、すぐに風南海の腰を捉えた。
「捕まえた」
風南海は抵抗しなかった。青白い顔を朝日に向け、泣いていた。
「寒いから帰ろう」
風南海の肩を抱き、手で波を漕ぎながら歩いた。風南海の家に連れて帰る気はない。きっと家庭に大きな事情を抱えている筈だ。しかし良の自宅という訳にも行かず、学校の保健室を思い出した。休日のきょう、保健士はいない。先週、衛生班だった良は、保健室の鍵を持っている。
ふたりが並んで歩く様子を、穂波は見ていた。良と公園で別れてから、そこを動いていない。少し距離を置き、良の後を追っていたら、今の光景を目にしたのだった。
「どうして、こんなことに」
穂波は溢れる涙を堪え切れず、両手で顔を覆って泣いた。
「少し暖まった?」
保健室にある予備のジャージに着替えたふたりは、並んだベッドに向かい合って座っていた。
「うん、とっても」
「温かい飲み物でもあったら良かったんだけど、何もないなごめんね」
風南海はかぶりを振った。
「良くんを巻き込んでしまって申し訳なくて」
「まあ、いいじゃん。それで、聞くよ。どうしてあんなこと。自殺しようとしたんでしょう。海水浴とは思えないしね」
「うん、死んじゃいたいと思った。半分だけ」
「半分?」
「今朝は気分が良くてね、海岸を歩いていたの。良くんに会いたくて」
風南海に真っすぐ見られ、良の視線が泳いだ。
「そうしたら、公園で穂波さんと話している良くんを見て、どういう訳か、悲しくなってきて、もう生きている意味がないような気になり。気が付いたら海に入っていた。ばかだよね」
「そんな……でもなんで、僕と穂波が一緒だと死にたくなるの?」
「良くんのことが好きだからよ」
「……」
僕も好きですという言葉が、すぐには出て来なかった。愛の告白をされたことは何度もあるが、今回はいままでとは違う。サイドボードに置いた白湯の入ったマグカップを取ろうとして、手先が狂い良は、お湯を零してしまった。すると風南海は良の隣に座り、彼の両手を挟み、肩に頭を乗せた。
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