時として

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時として

「これ以上のものは世界中のどこにもないであろう」 瀬戸内海の小さな港町に、風南海(かなみ)は住んでいた。 薄い水色の木の家は、海の町に良く似合っている。ツタが白い窓枠を彩り、薄いカーテンを、風が揺らしていた。風南海は1階の窓から、外の景色を眺めている。膝を立てて座り、腕を窓枠に乗せていた。ここは風南海の癒しスポットだった。どんなに嫌なことがあっても、絶望しても、この場所から見える景色は、いつでも風南海を落ち着かせてくれる。 木々に覆われたこの家の裏手に風南海の部屋はあり、正面玄関は通りに、裏手は海岸に通じていた。窓から見える短い木々の小道の向うには海があり、自然と同化している。木々の下は薄暗いのに、海と砂浜だけが、光って見えた。 風南海は小説を手にしていた。しかしあまり入り込めず、ついつい外ばかり眺めてしまう。 「漫画が読みたい気分だったのよ」 ひとり言をいいながら、風南海は小説の表紙を見た。うら若き青年が描かれている。漫画っぽい表紙。まさか中身は文字だけで、絵がひとつもないとは、一体だれが気づくだろう。そんなことを考えていたら、眠たくなった。両手を顔の下に敷き、瞳を閉じた。 「あのう?」 誰かに話し掛けられている。気持ちの良い風。目を開けると、ひとりの青年がこちらを見ていた。 「だれですか?」 目線が同じ。背がとても低いのか、子供なのか、膝立ちをしているのか。声には出さずに考えながら、風南海は小首をかしげた。 「部屋の中に、ボールが入ってしまって」 10代後半と見られる少年の名は(りょう)。両手の指先だけ、遠慮がちに窓枠に掛けている。 「ボール」 風南海は部屋を振り返り、ボールが落ちてないか見渡した。 「何色のボールですか?」 「黄色い、テニスボールです。砂浜で犬が遊んでいたものを拾って投げたら、こっちに入って行ってしまって」 風南海は、やはりといって、良を一瞥した。 「やはりとは?」 風南海は黙ったままで、部屋のドアの下に転がっているボールを取りに立った。白い襟の付いたワンピース姿。髪の毛は後ろでふんわり結んでいた。恭平は彼女に見とれて、ボールのことなど忘れてしまっている。 「これですね」 風南海がボールを、自分の顔の横に持って行き、笑顔を作った。 「あっはい。そうです。そのボールです。その、やはりとは、さっき」 「ああ」といって風南海はクスクス笑いだした。 「ごめんなさい、気にしないでね。わたし、さっきまでうたた寝していて」 「知ってます」 「あらっ、やだわ」 風南海は髪の毛の乱れを直す仕草をした。 「夢を見ていて、犬が浜辺を走っていたの。大きな、ふわふわした犬」 「いや、さっきの犬は柴犬でした」 「そう」 「あっなんか、すみません」 良は2度続けて頭を下げた。 「あげます」 「あげ、はい?」 窓越しにボールを差し出され、良は立ち上がった。可愛らしい顔の作りが、急に男らしさを増したように見えるのは、彼の身体の作りが、意外にしっかりしていたからだ。 良はズボンの腿の辺りで両手を拭くと、ボールを受け取った。 「どうぞ。柴犬にあげて」 「えっ?」 良が変な声を出すので、風南海は目を大きく開いて、顔を少し突き出した。 涼やかな瞳に、透き通るように白い肌。良は思わず息を飲み込み、うつむいてしまった。 「あなた、どうかされましたか、気分でも悪いの?」 「いえ、そんなことは。絶好調です」 顔を上げた良の頬は赤らんでいた。 「すみませんでした」と頭を下げた良と声が重なる様に「行かないで」と風南海はいった。そして彼女は自分の声に驚き、指で唇を隠した。 「どうしたの?」 そういうと良は、厳しい目つきで風南海の部屋の中を見渡した。もしかしたら風南海が、不自由な立場にあるのではいかと考えたのだ。 「どうもしないの。ただ、ずっとひとりでいたので、ひとりは寂しくて」 下を向き、手を前で重ねている風南海は、とても華奢だった。 「ご家族の方は?」 「いるわよ。でも友達はいなくて」 「ご病気か何かですか?」といい、良は「ごめんなさい」とすぐに謝った。 「謝らないで」 風南海は口に手を当て、今度は笑い出した。笑うと目が三日月になり、とても親しみやすく感じた。良も思わず笑顔になる。 「気にしないで下さいね」 風南海は元いた場所に座り、両手を窓枠に重ねた。良はモジモジとしていたが、風南海の笑顔につられて、ぎこちなく座った。 「3年前だったかしら、血液の病気になってしまって。それからずっと、わたしの行動範囲は家か病院なの。結局、高校も卒業できずに、もう二十歳になりました」 「なっ治るんでしょう?」 「うーん」 風南海は膝を抱えると、口元を緩め、虚空を見上げた。 「必ず治る」 彼女はいい切った。 「そう願っているし、そう信じてる。だから精神面はとても元気なのよ。身体はしんどいけれどね」 「いまもしんどいの?」 「いまは、不思議ね。なんだかふわふわしてる」 「ふわふわ?」 「うん、とても楽よ」 その時、部屋のドア越しに物音が聞こえた。 「もう行きます……」 良は立ち上がり、海の方を見た。海辺を歩く人の影が見えた。 「また来てもいいですか?」 「うん」 風南海は笑顔で彼にうなずき、手を振った。彼女は彼の姿が見えなくなるまで、ずっと見ていた。そして中学生の時に両親に買って貰った勉強机の前に立ち、そこに手をついて、ゆっくりと肘掛け椅子に座った。 彼と話している時は、あれほど身体が楽だったのに、いまは立っていることも、上体を起こしていることもつらい。そのまま机にうつ伏せになり、呼吸を整えていた。 「喉が渇いた」 母親を呼ぶ元気がない。扉の向こう、廊下を二三歩、行くだけでリビングが広がった。風南海が病気になったことで、親が改装したのだ。この方が娘の異変に気づいてあげられるからだと、両親が話していたのを風南海は聞いたことがある。 「水が欲しい」 部屋には風呂もトイレも付いている。風南海は、何日かぶりに自分の意思で部屋を出た。リビングを覗くと、キッチンのシンクの前に立ち、洗い物をしている母親が見えた。いつものエプロン姿。風南海は扉に凭れ掛かり、母の姿を見ていた。子供の頃に返った様な気がした。学校から家に帰る道すがら、ずっと母親のことを考えていた。家に帰り、母が見えないと、家中を探し歩いた。泣いたりする訳ではないが、母はいつも心の中にいて離れない。何をして欲しい訳でもなく、姿が見えるだけで、それでいい。その頃の自分に戻った様な気がして、懐かしさと、恥ずかしさが同居している。 母親がこちらを向いた。 「お母さん、お水、持って来て」 母親は笑顔でうなずいた。
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