第一章

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第一章

 家を出るなり口から漏れたため息は、今日という日の幽霊みたいに白かった。川端のヤナギの木立がよこす微風に揺れ、宵闇へ消える。何度現れても、何も残らない。近頃の僕らの毎日に似て。    背後に遠のく扉の向こうで、父が熱に浮かされている。病と無縁の、村で一番快活な人だったのに。「嫌なことは忘れる」と座右の銘を口にされれば、それが元気の秘訣かと人が勝手に思いこむほど。けれど変に湿って涼しかった今年の夏から、畑の作物と同調して調子を崩し、七日前にとうとう倒れた。  とはいえ昨晩までは、「この俺が畑にいない日があったなんて、俺も忘れるから、皆も忘れろ」と空元気を見せていた。それが一段と熱の高くなった今日、笑えないお伽話の語り手に変わってしまった。    幼い頃の僕は確かに、父母から聞く物語が好きだった。一番のお気に入りは魔法使いの話。森の過密な緑が守る小さな茅葺(かやぶき)屋根の家、吊り下げられた薬草の束、薬研(やげん)に乳鉢――架空の世界が鮮明に色づき、薄膜となって現実と重なり合っていた。僕はお伽話の住人気分で、始終(しじゅう)箒に跨って遊んだし、鍋をかき混ぜては、美味しくなる魔法が上手だと母に褒められ喜んだ。    だがあれから十年は経つ。不調のせいで忘れ間違えたか、僕の成長をなかったことにして、今日の父は一日中語り続けていた。次第に明後日の方へ向き始めた目、滅裂になっていく話の筋。身震いしたのを見かねたらしく、母が僕に上着を掛け、外へ出してくれたのだった。    母の気遣いに感謝して、薄雲越しの弱い月光の中、家を離れはしたものの……どこへ行こう。村は静まり返っている。この頃は昼間もこんな様子だ。どの家でも誰かが寝込んでいるから。  冬が挨拶回りを始めるこの時期、熱を出す人は珍しくないが、今年は特に多く、回復も遅い。日々の食事を切り詰めてきた影響かもしれない。冷夏による不作の中、冬用の備蓄も考えると、そうせざるを得なかったのだ。    貧しい村だけれど、僕の小さい頃までは、東の森の賢女の里で薬を調達できたらしい。薬草の扱いに長けた賢女たちが、王都や町とは比べ物にならない安価で調合を請け負ってくれたと、母から聞いた。    昔の話だ。賢女の里の住人は、重病の国王のためにと全員が王都へ召集されたきり、誰一人戻っていない。その老王の崩御から、数年が経過してもなお。だから僕たちは今、襲いくる病魔に対してまったくの無策だ。    父の忘却が、本当に僕の十年を消してくれたら良かったのに。あの頃の僕なら、こんなふうに途方に暮れて彷徨ってなどいない。皆に治癒の魔法をかけに走り回る。現実が何も変わらなくても、少なくとも――自分には何もできないなどとは、考えない。    自然と足が東へ向いた。川沿いの道を流れに逆らって歩き、丘を越えて森を目指す。空想を呼び起こし、幼い頃に持っていた魔力、自分に対する無条件の信頼や未来への希望を取り戻したくて。    東への道は、荷車の轍も人と家畜の足跡も薄かった。住人が留守と知りながら、(いたずら)に領域を侵し、賢女の里へ行く者はない。木の実や薪や材木を集め、家畜を放すくらいなら、自村の林で事足りる。僕だって一人になりたいのでなければ、灯火も持たずに慣れない場所へ赴きはしなかっただろう。    頼りの光源を探して仰いだ空に、後ろへ隠した月の光で縁だけを輝かせた、黒雲の一塊(いっかい)。その眩さは目だけでなく、胸の奥までもしくりと痛ませた。何か懐かしいものを見たときのように。  空を見るのは、顔を上げて歩くのは、そんなに久しぶりだっただろうか。長く伸びた枝の間へ踏み入りながら、思わず苦笑いが漏れた。  森は木を()り枝を打つ人の不在を物語っていた。土に還りつつある落ち葉のにおいを、冷たい闇が押さえつけている。しかし想像より暗くはなかった。闇が濃い分、光が目立つ。川面(かわも)に、淡い色の葉の上に、主のいない蜘蛛の巣に、光輝は静かに宿っていた。  中でも川縁(かわべり)に点々と立つヤナギの幽光が、妙に心を惹きつけた。風が細枝を揺らす。散り残った葉の白っぽい裏面が月明りを返し、暗がりでちらちら瞬いて見せる。それが輝く縁取りをつけた雲と同じく、なぜか懐かしさを帯びて胸に迫った。    ありふれたヤナギが美しく、しかも懐かしいなんて不思議だ。こうして夜にじっくり見る機会などあっただろうか。太陽が昇れば起き、沈めば寝る生活だし、まだ夜警に立つ年でもない。普段の両親なら、夜の外出など認めなかったはずだ……普段なら。    夜露を飛び散らせ、僕は茂みへ分け入った。次第に川から離れていく道を外れて。  道の先、無人の村に用はない。僕は「普段」を取り戻したいのだ。父も母も、皆が元気に笑っていた村を。勇んで明日を迎えに行った僕を。忘れたいほど虚しい毎日は、もうたくさんだ。  だからとにかく前を向きたい。俯くばかりでは、自分にできることも何も見つかるはずがない。    僕は、不思議な力で胸を揺する夜の森の風景が、鬱屈とした気分をすすいでくれることを期待した。そして自分をかりそめにでも奮い立たせるため、昔のように、万能の魔法使いになりきろうと試みた。    今は秘薬の材料を探す途中。病魔が蔓延(はびこ)る季節、皆が僕に助けを求めてくるから、家の鍋はスープを煮る暇もなく薬を煎じている。早く薬草を集めなくては。    ……でも何を摘むべきか分からない。    幻想の邪魔をする現実が憎い。小さい頃は意識せずとも、魔法使いになれたのに。思えばいつ、どうして、あんなに好きだったごっこ遊びをやめたのだろう。    失望から逃げるように、服が湿って冷えるのも構わず歩き続けた。せせらぎの傍を離れず、ヤナギの木を(しるべ)に、灌木と蔦のもつれ合う下を身を屈めて通り抜け――正面に開けた空間に、一軒の小さな家を見た。    中腰のまま立ち止まり、息をのんだ。「森の過密な緑が守る小さな茅葺屋根の家」。幼かった僕がお伽話から想像した、魔法使いの家。それがそっくりそのまま、目の前に現れていた。    ――あなた、大丈夫?    突然聞こえた声に驚き、思わず立ち上がった瞬間――頭が灌木の枝をかすめ、衝撃で降り注いだ夜露の雨が、目に流れ込んで視界を奪った。
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