第三章

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第三章

 勧められた椅子にかけ、逆さに吊ってある薬草の束や机上の薬研、乳鉢、天秤を眺めていると、ヴェラが丸っこい葉を浮かべた水のコップを持ってきてくれた。開け放した窓からの風と、口に含んだ水のスッと鼻に抜ける清涼感が暑さを払う。ほどなく汗は乾いた。  家主は黒い上着を着たまま、向かいで喉を潤していた。それ自体に魔力でもあるのだろうか。  そんな僕の考えはお見通しだったらしい。問う前に答えが返ってきた。   「商人から買った普通の上着よ。日差しや棘を避けられれば何でもよかったけど、裏地の色が気に入ったの」 「歩いてるときに見えたよ。銀色が好き?」 「ええ。それも目立たない裏側にあるのがね。知ってる? 『すべての雲には銀の裏地がついている』の。私は亡くなった母に教わったわ。黒雲も裏側は日光月光に輝いているように、悪い出来事の裏側には、必ず希望の光がある。だから絶望に目を塞がれた人がいたら、闇の端っこをちょっと(めく)って、綺麗な裏地に気づかせてあげなさい、それが私たちの仕事だって」 「素敵だね。お母さんも魔女だった?」   不意に、短い沈黙。それを破ったのは回答ではなく質問だった。 「賢女と魔女は何が違うのかしら」 「賢女は薬を作ってくれる人。魔女は魔法の力で、賢女の薬よりよく効くのを作れるし、箒で空も飛べるんだ」 「魔女は万能ね」  机を覆う、四季の草花を刺繍した掛け布に頬杖をつき、ヴェラは笑った。が、その万能の力を披露する気配はない。  焦る必要はない。落胆が顔に出ないよう、自分に言い聞かせた。もう魔女に弟子入りしたのだから……いや、許可をもらったっけ? 「家が恋しい?」  そわそわしていたら誤解された。僕は(かぶり)を振り、ここぞとばかりにヴェラに頼んだ。一つでも魔法を教えてほしいと。   「魔法使いになるまで帰りたくない」 「ご両親が悲しむわ」 「父さんは大丈夫さ。『嫌なことは忘れる』主義なんだ。何があっても次の日には笑ってるよ。母さんも見習いたいって言ってた」 「そう? お父様は本当に、そんな希代の忘れ上手かしら。ねえ見て、この机」    掛け布がめくられ、色褪せた木の天板が露わになった。一部を跳ね上げて開けられるようになっている。裁縫道具をしまっているのだと、ヴェラは中身の糸や針を出して見せた。   「秘密の道具入れ。調剤より刺繍の方が、気が休まるのよね。なんて……天板がささくれて痛いから、布を掛けただけ。嫌なことを忘れるって、こういうことじゃないかしら。ちくちくする記憶はなくならない。でも触り心地のいい記憶を――幸せを覆い被せて、見えないように、刺さらないようにすることはできる。お父様はね、幸せを探すのが上手なんだと思う。だから辛い目にあってもすぐに笑える。もしかして、幸せの方が付き(まと)っているのかも。それがいなくなっても、お父様は記憶の棘の上に立てるかしら」    悪戯っぽい微笑み。僕は顔を(そむ)けた。彼女は遠回しに、僕の頼みを断っているようだ。かといって引き下がれない。千載一遇の好機を逃し、魔法の一つも覚えず帰ったら、僕の毎日に何の楽しみが残るだろう。もう、ごっこ遊びで夢を見ることも許されないのに。   「さっきの答え合わせをしましょうか」    賢女と魔女の違い、と彼女は続ける。   「何も違わない。これが正解。賢女は最初、魔女と呼ばれていたの。魔法のように不思議で素晴らしい仕事をすると、讃える意味で。でも王都で病が流行ったときに、魔女の呪いだって噂が広まって……。治療の手伝いに行っていた里の人は、戻らなかった。母も。そのせいで作れなくなった薬もあった。先祖代々の知識を、私たちは口頭で伝えてきたの。読み書きできる人なんて、町にしかいないものね。結果、人に話していない知識がそのまま、持ち主と共に滅んでしまった。あの事件以来、この辺の人は私たちに配慮して、賢女と呼んでくれるのよ。流行り病が落ち着いてからは、魔女を悪く言う人も減っていたけど――数日前に、国王からの招集を受けたわ。今度は里の全員が。病の治療という名目だけど、魔女が狩られる時代の再来かもしれない。ライル、お父様がごっこ遊びを禁じたのは、あなたを危険から遠ざけたいからに違いないわ」    穏やかな語り口で、ヴェラは僕の夢の薄膜を切り裂いた。現実という乾いた隙間風が吹き込む。やっと絞り出した声が掠れた。   「僕は帰らなきゃいけない?」 「そうよ」 「ごっこ遊びもしちゃいけない?」 「やめた方がいいわ」 「ヴェラにはもう、会えないかもしれない?」 「そうね」 「じゃあどうして僕を連れてきたの」    ヴェラは一人で帰宅するべきだったのだ。夢を目の前に置き、僕が手を伸ばしたら取り上げる、そんな酷い仕打ちをする理由がどこにあるだろう。  僕はそう嘆いたが、彼女は答えを用意していた。   「確かにね、私と関わるのは危険だわ。お父様に申し開きできない。それでもここへ招いたのは――未来のあなたを、魔法使いにするためよ」 「……え? 魔法は存在しないんじゃないの?」   賢女も魔女も同じ、ただの人間だった。つまり魔法など作り話にすぎない、という意味だと解釈していた。しかしそうではなかったらしい。理解が追いつかない。  悲しみと怒りのやり場も失い呆然とする僕に、ヴェラは外に出るよう促した。  最後に魔法の秘密を教える、と。
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