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十日ばかり続いた大雨の、やっと覗いた晴れ間だった。
轟轟と川は溢れ田はすっかりと水に浸かり、村の者は少しばかりの高台にある寺に身を寄せ合いようやっと生きているという有様。雨漏りに肩口を濡らしいつかいつかと、待ちに待った晴れ間だった。
高台から見下ろす村は溢れた暴れ川の一部の様になっていたが、この機を逃す事など出来はしない。十日ぶりの青空の端には再び湧き出た灰の雲が顔を覗かせ、こちらへゆるりと流れているのだ。再び雨が降り出す前にせめて流されずに残った物を持ち出せないか、と。村の若い男達が村へ降りて行くのも当然の事であり、茂吉もその一人であった。
茂吉の家は川の傍であったため今頃すっかり流れされてしまっているだろうが、水から逃げる際の着の身着のまま、ぼろを纏って震えている母に綿入れの一つも持って行ってはやれないだろうかと。そう思っての事だった。
他の男衆に混じり膝の下まで嵩を上げた水の中を進む。飛沫を上げ泥をかき分け苦労しながらも漸く村までたどり着けば、やはり残っている家はほんの僅か。水の流れの滞留する場所には下流へ流され損なった木材に混じり家財道具がちらほらと浮いており、男衆は本来誰の持ち物であったのかも解らぬ程に汚れたそれらを手あたり次第に拾い集めて行く。
茂吉もそれに倣い足元に浮かぶ欠けた茶碗を拾ってみたものの、目当てである綿入れは見当たらない。辺りの水を掻きまわし探ってみるものの浮かび上がるのは泥に混ざる屑ばかり。
せめてもう少しましな物はないだろうか。歩を進める内に茂吉は男衆の輪からじりじりと離れて行き。
ふと底が抜けた。
踏み出した先にあるはずの地面は其処には無く。あ、と思う間も無く茂吉の身体は頭を下に濁った水へと落ちて行った。
落ち着けられる身体。鼻と口から雪崩れ込む泥水。暗く沈む意識。それが、嗚呼、どれほど前の事だったろうか。
未だ雨が降っている。
茂吉にそれが察せられたのは、唸りにも似た雨音が石壁に幾重にもこだまして響いている為だ。
途切れる事なく延々と続く雨の音。耳鳴りにも似たそれを聞きながら、茂吉はずうっと息を殺し膝を抱えている。
もうどれほどの間、こうしているだろう。
泥水に沈み、流され、目を開いた時にはこの三方を岩壁に囲まれた洞窟にいた。一体ここがどこであるのか見当もつかず、茂吉は今、己が生きているのかそれとも死んでいるのかも解らぬまま濡れた地面に蹲り続けている。
冷え切った身体は痛み空腹は耐え難く。意識さえ切れ切れになり始めていたが、茂吉は立ち上がり外を目指す事が出来ずにいた。擦れた目を必死に瞬かせる。暗闇に落ちかける意識を必死に繋ぎ止める。気力を振り絞り、茂吉は眼前、暗闇の中に浮かぶそれから必死に眼を反らすまいとしていた。
かつり、かつり。
硬い物と硬い物が触れ合う音。雨音に混じり僅かに聞こえるそれ。硬質なその音が足音であると、獣の様に長く伸びた爪先が石の床を叩く音であると、茂吉は知っている。
石壁に囲まれた洞窟の中にちらちらと揺れる小さな焚火。それが照らし出す影は黒く長く、頭と思わしき場所には二本、角の様なものが見えている。
鬼だ。
脳天に生えた二本の角。ぼろを纏った手足は丸太の様で、体躯は茂吉の一回りも大きな様に思える。その姿の恐ろしさに身を竦め、悲鳴を噛み殺し。茂吉は目を覚ました瞬間から変わらず、眼前五間ほど離れた場に腰を下ろした鬼の姿を見据えていた。洞窟の出口があるとすれば鬼の身体の向こう、その暗がりの先だろうが逃げる事は出来ない。身動ぎの一つもすればたちまち捕まり食われるやもしれない。なにしろ相手は鬼なのだ。此方の手足を枯れ枝の様に千切って喰らうに違いない。自分は偶然に此処に流れていたのではなく、あの鬼が食らう為に自分を川から拾い上げたのだろう。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい。そうして茂吉は息を殺しその場に蹲り続けているのだ。
ひときわ外の雨音が大きくなる。
その「鬼」は自ら起こしたらしき焚火の前に腰を下ろしたきり殆どの間、じい、として。時折傍にある大きな岩の前にまで行っては同じ場所に戻ってというのを繰り返していた。一体、鬼はいつ自分を食らうつもりなのか。戦々恐々と茂吉の精神は張り詰め続けている、が。その鼻先にふと触れるものがあった。
洞窟の湿った土の匂いと焚火の僅かな煤の匂い。それに混じり鼻先に届いたのは確かに肉の焼ける匂いであった。
暗闇に目を凝らしてみれば鬼の手には確かに、何か動物の肉らしきものが握られている。皮を剥ぎ木の枝を突き刺された肉の塊。兎か雉か、それとも自分の様にどこからか攫って来た人の肉やもしれない。
だというのに、飲まず食わずの空腹に耐えかねた茂吉の腹は飯の匂いに現金にも鳴き声を上げた。
雨音の他には聞こえる物も無い広い洞窟の中、奇妙に大きく響く腹の虫。茂吉は大いに慌て己の腹を殴りつけるが虫は泣き止む事は無く。間の抜けたその音が漸く止む事には、恐ろしいかの気配は茂吉のすぐ傍にまでやって来ていた。
獣のそれの様な吐息が間近に聞こえ恐ろしさに顔を上げる事も出来ない。
がちり、がちり。合わぬ歯の根ばかりが音を立て続け、永遠の様な束の間が過ぎて行く。
どの様にして喰われるのだろう。生きたまま皮を剥がれるのか、腸を引きずり出され火に焙られるに違い無い。あの枝に刺された肉の塊の様に。
と、恐怖に震える身体が明後日の方向から引かれる感覚があった。
視界が反転し見開いた視界に黒々とした石の天井が映り、流れていく。襟首を掴まれ身体を引き摺られているのだ、と。理解すると同時にあまりの恐ろしさに縮こまっていた手足が弾かれる様に暴れ出した。喰われる。締められる間際にまな板から飛び出そうとする魚の様だ。無益に石の床を蹴り抵抗するが鬼は茂吉へ見向きもせず、その身体を引き回す。
やがて、焚火の近くへと放り出され茂吉はもんどりをうって転がった。
口からは意図せず無様は悲鳴が漏れるが茂吉は己の様に気が付く事も出来ない。恐怖と混乱と、火事場のなんとやらが働き茂吉の脳裏には焚火の近くは即ち出口の近くであるという記憶が天啓の様に蘇る。逃げなければ。走らなければ。
だが、駆け出そうと身を起こした瞬間。眼に入った物に茂吉は釘付けられた。
あの、鬼が眺めていた岩。
間近に迫ったあの巨大な影。
それは岩などではなく、身体を丸める様に身を伏せた巨大な鬼であった。
火に照らされた角、牙、獣じみた顔付き。
瞼を降ろしてもなお恐ろしげなその姿に腰を抜かしながら、茂吉は思わず瞬いた。
これは死体だ。
既に息絶えた死骸。それも、死して時の経った死骸だ。
なぜ、死骸がここに。
束の間の思考。その間に背後に迫ったの腕の一振りが茂吉の頭へと振り下ろされ、ぺしゃり、と。頭蓋の割れる小さな音を最期に茂吉の思考は二度と巡る事は無かった。
大きな肉がとれた。
泥の川を流れていた獲物はまだ新しく、柔らかく。鬼は良い拾い物をした、と。上機嫌に拾い上げたそれを住処の奥へと置いた。永く続く雨は獲物の匂いをもかき消し久方の狩りで鬼が手にしたのは大きな肉が一つ、それから小さな肉が一つ。
空腹を感じはすれど鬼が手に取ったのは小さな肉の方だった。己の片手に収まるほどの小さな肉。その皮を剥ぎ腸を引き出し、火に当てながら鬼はこのころずうっと眠ったままの母を見やった。
母が我が子の声も届かぬほどにすっかりと眠り込んでしまったのは、この雨が降る前の事。
こう眠ったままでは腹も空くだろうに。肉を焼けば匂いにつられ起き出すだろうと思ったのに。
腰を持ち上げ鼻先へ触れてみるが、母は目を覚ます気配も無く。岩の様に引き結ばれた口元は開かれる事はない。
小首を傾げ、傾げ。鬼は焼かれた肉を食らう。数口で終えてしまう程の小さな肉。
次は、あの川で拾った大きな肉を焼こう。
そうすれば、きっと、母も目を覚ますだろう。
いつものようにすっかりと体躯を持ち上げて、自分を見てくれるだろう。
そう思い巡らせ、鬼は大きな肉を持ち出すためその腰を持ち上げた。
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