うつりにけりないたずらに

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うつりにけりないたずらに

紫陽花の咲く庭で逢瀬を重ねる。 規模でこそ本家に勝ちを譲るが格式と造園の美しさでは分家の庭もけして引けをとらない。 家父長制度の権化の如く君臨する当主の居丈高な性格を反映してか、本家の庭園は松や桜などの押し出しが良い大木が多く雄々しく猛々しい威風がある。 その妹であり、季節の移ろいを愛でる世司子が治める庭園には花が多く風雅な趣があり、見事の一言に尽きる好対照をなしていた。 物心ついた頃よりこの美しい庭をもっとも身近な遊び場として育った姉と弟は、木登りよりも花摘みを好み、花を手折るより目で愛でる耽美な性向を伸ばされた。 いずれ嫁にやる娘ならそれもよかろうが、後を継いで家を盛り立てていく長男がそれでは駄目だと嘆いたのは母だ。 分家とはいえ由緒正しい武家の跡取りとして生を享けた息子の、自分の血を引いているとは到底思えぬ線の細さと軟弱さは常々母の悩みの種であった。 おそらく静流が生まれ持つべき芯の強さや大胆さをも姉が吸い取ってしまったのだろう。 たおやめという形容が似つかわしい容姿を持つ姉が内に秘めた気性の激しさは親族含む門下生一同の語り草で男に敬遠される最大の要因でもあるが、四季折々の花が彩る庭園を心許した者とそぞろ歩く時だけは彼女もまた名は体を表すの諺通り穏やかな顔を見せる。 交互に繰り出す下駄の歯音が軽やかに響く。 幼いころより日舞を嗜む身ごなしはひどく優雅で、おくれ毛を耳の後ろに通すしぐさにさええもいえぬ品が漂う。 うなじのあたりに抗いがたく目が吸いつけられ、物狂おしい渇きに苛まれる。 目と鼻の先で揺れる黒髪をこの手で梳き上げうなじを暴きたい衝動に駆られる。 叶わぬならせめて黒髪の先に接吻したいと希う。 美しく成長した姉のうしろにつき従いつつ、どうにもならぬ渇きと餓えを持て余し口を開く。 「姉さんは紫陽花が好きだね」 「ええ。だって綺麗でしょう、お手鞠みたいで可愛いし」 童女のように稚けない言い回しで紫陽花の花弁に触れる。 「覚えてる、静流」 唐突に薫流が言い、庭の片隅、今が旬と咲き誇る紫陽花の群落の傍らで立ち止まる。 「むかし紫陽花の根本に宝物を埋めたわよね」 小さい頃の静流は今にもまして病弱で引っ込み思案、お転婆な姉のあとをいつもくっついてまわっていた。 宝物を埋めようと言い出したのはどちらだったか、おそらくは薫流だろう。 泣き虫でよく転ぶ弟をみそっかす扱いしつつもけして見捨てず、庭中引っ張り回すのが姉の常であった。 あれをとってこい、これをもってこいという矢継ぎ早な命令に目をまわしつつ、幼い静流は姉の期待に添えんと庭と屋敷とを往復した。 全ては姉に褒められたい、その笑顔が見たい一心から発した行為だったが、意地悪な姉は息を切らして駆け戻った静流に労いの言葉一つかけず、彼が持参したものを無造作に地面に叩きつけるくりかえしだった。 「今でも覚えてるよ。姉さんにとってこいって言われて、母さんの鏡台から手鏡を盗んだ事」 「そんなことあったかしら」 「とぼけても無駄だよ」 母愛用の鏡台の一番上の抽斗に手鏡が入っている。 それを拝借して来いと命じられ、ためらいつつも静流は従った。 拒めば姉は怒り狂うだろう。 母の仕置きより姉の怒りの方がよほど怖いと、賢く美しい姉を子供心に崇拝していた静流は思ったものだ。 鏡台の抽斗にはなるほど精緻な装飾を凝らした手鏡がしまわれていた。 頭上に翳して翻せば光を反射しあえかにきらめいた。 手鏡をこっそり懐に呑ませ、生まれて初めての盗みに伴う興奮とそれに倍する罪悪感とに胸躍らせながら駆け戻った静流をむかえた姉は、こともあろうにその眼前で手鏡を叩き割ったのだ。 「どうしてあんなことしたのさ」 思い出すのは砕け散った鏡の欠片、その一片一片が宿す姉と自分。 さながら万華鏡の模様の如く砕け散った何十もの顔。 「教えない」 「癇の発作でもおこしたの?」 愉快そうに含み笑う姉に食い下がるも答えは得られず、繊細な指が紫陽花の花弁をちぎり捨てていくのを複雑な心境で見守る。 姉の行動にはいつも理由があった。 どんなに理不尽な仕打ちや思わせぶりで謎めいた行動に見えても、その裏にはきちんと理由が存在するし本人の中ではきちんと筋が通っているのだ。 後に知れたことだが幼い薫流が弟の眼前で持参品を叩き壊したりわざと汚すのを好んだのは、従順すぎる彼を歯痒く思ったから。 気位の高い薫流の目には、分家とはいえ武家の嫡男でありながらにこにこと自分の指図に従うばかりの弟が媚びてるように映ったのだ。 早い話、彼女一流の天邪鬼なやりかたで弟に発破をかけていたわけだ。 しかし、手鏡を割った行動だけは不自然に思えてならない。何故ならあの手鏡は姉のお気に入りの一品だったのだ。時折鏡台の抽斗を開けては、手鏡にうっとりと見入る姉の姿を小事の隙間から盗み見ていた静流は、よりにもよってその品を壊す姉の行動が理解できなかった。 行動の文脈こそ不明だが、あの時の形相はしかと目に焼きついている。 絶望と憤激とが渦巻く形相は般若のように禍々しく歪んでいたが、昏く燃え盛る熾火さながら凄愴な美をも孕んでいた。 姉は怒る姿も美しい。 一体何が薫流にそうさせたか、ずっと聞きそびれていた。 真実に触れるのを忌む気持ちが心のどこかにあった。聞いたらもう後戻りできぬという予感が瀬戸際の抑止力となったのかもしれない。 互いの出方を推し量るような沈黙を払い明るく仕切り直す。 「貢くんや苗さんがいた覚えがないからあれは実家の庭だね。ということは、このどこかに玉手箱が埋まってるわけだ」 「いやあね、開けたらおばあちゃんになっちゃう」 「なら永遠に封印しておけばいい」 「中に何をいれたか覚えてる?」 「僕は入れなかったよ。姉さんが埋めるのをそばで見ていただけ」 「何故?」 「盛者必衰、全てはただ風の前の塵に同じ。形あるものはいずれ滅び去るから美しい。自分が愛でたものならなおさら死体のように棺に入れて時の流れに逆らうのは見苦しい」 「可愛げない子ねえ」 ふざけてぶつまねをする姉から笑って身を躱す。 「はしたないよ姉さん、こんなところを見られたらお嫁にいけなくなる」 途端、姉の顔から笑みが消えて不自然に強張る。 「私を貰う人はもう決まってるもの」  気まずく俯く弟めがけ、顔を跳ねあげざま腕を振り抜く。 「隙あり」 「わっ、ぷ」 「お馬鹿さんな静流!」 右手に握り隠した紫陽花の花弁を投げつけ、黄色い嬌声を上げ駆けだす姉。 「待ってよ姉さん、狡いよ!」 「追いついてごらんなさいな」 遠ざかりゆく背で生き物のように黒髪がうねり狂う。 誘うように導くように風を孕んだ袖がたなびき、下駄の歯音が軽やかに鳴る。 しかし女と男では歩幅と脚力が違うため、差は次第に縮まりつつある。子供の頃は姉の方が速かった。 静流は姉の後をついて回るばかりだったというのに、いつ頃から差が開いてしまったんだろう。 「姉さん」 もがくように手を伸ばし、翻る袖をつかまえる。 袖を引かれた体が静流の胸元へ後ろ向きに倒れこんでくる。 反射的に受け止めた薄い肩と背中の感触に狼狽が走る。 男にしては線が細いと静流と比べてもなお薫流の体は頼りなく、蜘蛛の巣に囚われた蝶の如く儚げでさえあった。 「鬼ごっこは私の敗けね」 「下駄で走ったりしたら危ないよ」 「貴方がいるから大丈夫」 「僕は腰元かなにか?」 「召し使いのほうが近いんじゃないかしら」 「酷いな」 漂う体臭と手が受け止める感触に浮き立つ心を必死に偽る。 密やかに生唾を呑み、長い睫毛や秀麗な鼻梁、ふっくらと上品な唇に吸い寄せられんとする視線を引きはがす。 白檀だろうか、懐に焚き染めた馥郁たる香の匂いが鼻腔に染みて眩惑される。 離れなければ。放さなければ。 わかっていても頭の芯が甘く痺れたようになって理性が働かない。 薄い布越しに感じる女性らしい丸みとくびれ、華奢な体には見合わぬ豊満な胸が官能的だ。 誰か、罰してくれ。 誰か止めてくれ。 このままでは遠からず禁忌を犯してしまう。 切なく狂おしい思慕の念を姉離れできぬ甘えにすり替え誤魔化し、軟弱な己を叱咤する。 早く離れろ、抱擁の現場を屋敷の者に見られたらまずいことになる。 何故?転びかけた姉を抱きとめた、ただそれだけのことじゃないか。 何らやましいところも後ろ暗いところもない、堂々と申し開きすればいい。 本当にそうだろうか。 一点たりともやましいところはないと誓いを立てられるか? 腕の中でほのかに息づく女の体に、手のひらに伝うぬくもりと上擦る脈拍に一線を越えかけはしなかったか。 蜜味の背徳と結びついたひりつくような情欲をかきたてられはしなかったか。 違うと否定する。揺れ惑う心に必死に言い訳し、苦渋に歪む面持を俯け、手のひらに残るぬくもりごと握り潰す。 「このあたりに箱を埋めたの」 腕の中から見上げるようにして薫流が囁く。 「覚えてるの?」 長い睫毛に縁取られ、濡れ濡れと妖艶にーどこか淫蕩に輝く瞳に吸い込まれそうになる。 「おぼろげに思い出したわ。……そう、たしかこのへん。あの一際咲き誇る紫陽花の根本よ。覚えてない、静流?花弁をよく髪に散らして遊んだじゃない」 「僕を使ってお人形さんごっこするのはやめてほしかったけどね。女の子じゃあるまいし」 「本当は妹が欲しかったって言ったら怒る?」 「母さんが聞いたら怒るよ。それでなくても女々しいだの未熟だの、分家の跡取りにふさわしくないって叱られっぱなしなんだから」 「本当に女の子だったらよかったのに」 そっと瞳を伏せる。そうすると普段の男勝りな印象は影をひそめ貞淑な儚さを纏う。ごくささやかな衣擦れの音に混じり合う吐息が胸の内をさざなみだてる。 「きっと着物が似合ったのに。紅襦袢なんてどうかしら」 「女々しくて悪かったね」 「貴方が男じゃなければよかった」 「僕は姉さんが姉さんでよかった」 冗談ともつかぬ科白の応酬に小さく笑い、すっとひとかたまりの紫陽花を指さす。 「あそこよ」 おもむろに屈むや袖をたくしあげ、素手で地面を掘り返しにかかる。静流は驚いて声をかける。 「爪が汚れてしまうよ。着物も」 「いいの」 姉は頑固だ。言い出したら聞かない。 ため息一つ、姉の反対側に回り込んで彼もまた袖を捲る。 「僕も手伝う」 向かい合わせにしゃがみこみ、どちらからともなく笑いあう。 「紫陽花の根本には秘密が埋まってるの」 「薔薇じゃなかったっけ」 「細かいことはいいじゃない」 「いい加減だなあ」 「ほら、もうすぐよ。赤いのが見えてきたわ」 湿気を含みしっとり潤った土は容易く指を呑み、お椀の形にした手のひらでもってすくいあげるとほろほろとそぼろの如く零れ落ちる。 子供みたいな人だ。穴掘りに熱中する姉を眺めて思う。一つの事に熱中するとまわりが見えなくなる。地を刷く着物の汚れにも無頓着に、それでも時折腕の動きに合わせ垂れてくる袖を邪魔そうにたくしあげ、一つ一つ丁寧に手ですくって柔らかな土をどかしていく。 そしてついにそれが見えてきた。 「見つけた」 そろえた膝に抱え上げ化粧箱の泥を払う。たしかに見覚えのある箱だ。現物を前にして幼いころの記憶が鮮明によみがえってくる。 「おばあちゃんになっちゃうかもしれないよ」 「もくもくと煙が出てきて?」 「僕が開けるよ、姉さんに皺を増やすのは忍びないからね」 化粧箱を奪おうとした手があっさり空振りする。 「私が開ける」 真剣な、それでいてどこか思い詰めた眼差し。まさか本当に弟の老化を恐れたわけではないだろうが断固として宣言し、ちょうど中間に箱を置く。 元々は祖母が愛用していたもので、それを母が受け継ぎ、世代を経て薫流に回ってきたものだ。 意匠が古いのは江戸時代の細工だからだろう。 泥まみれの細い手がふたにかかる。 少し躊躇うように指が震え、いったん退き、呼吸を整え改めて向かい合う。 息も絶え絶えに舞う蝶を見ているかのようなその動き。 まるで封印を破ることを恐れているような、己の決断がもたらす変化と結果に怯えているように縺れあう指遣い。 見ていられなかった。だから思わずその手を掴んでいた。 「一緒に開けよう」 白い手に手を重ねて握り締める。 紫陽花に埋もれた庭に雨の匂いが充満する。しっとり湿った土が放つ匂いが鼻腔を甘くくすぐる。露と泥に濡れた姉の手を優しく包み、澄んだ眼差しをひたと合わせる。 どこまでも深く深く、心の奥底まで澄明に映し出す鏡合わせの眼差し。紫陽花の陰に隠れての秘め事。 まっすぐに弟を見据える薫流の顔がふっと和み、一瞬の波紋の如く、泣き笑いに似て哀切な表情が掠める。 「……仕方ない子」 それはだれに向けての言葉だったか、あるいは秘めた恋慕に殉じる自分への餞か。 その言葉を許諾の証と受け取り、ふたり呼吸を合わせて蓋を持ち上げる。蓋はごく軽く、さほど力を入れなくてもあっさり動いた。上に乗った泥がさらさらと零れていく。 箱の中身を覗き込み、意外の念に打たれる。 「硝子……いや、違う」 袖を押さえて手を伸ばし、枠だけが残った手鏡を取り上げる。 箱の中には太陽の光を弾いてきらめく破片が敷き詰めるようにして保管されていた。 「母さんの手鏡よ。貴方の目の前で地面に叩きつけて壊した」 姉はあの破片を一つ残らず拾い集め、後生大事に化粧箱の中に保管していた。 「なぜ……?」 何故こんなことを。 疑問を紡ぐ弟に意味深な一瞥をくれ、かちゃりと音たて一つを摘まむ。 「どうして私が手鏡を壊したかわかる?」 あんなに大事にしてたのに。 欲しがってたのに。 「母さんの鏡台の一番上の抽斗、こっそり手にとっては飽きず眺めていた。裏面は黒漆に鶴の絵、柄はすんなりと手になじむ素敵な手鏡……」 歌うような節をつけ片手に持つ手鏡をくるくる回し、反対側の手に摘まんだ破片を枠組みに嵌めてみる。 その瞬間、静流にはわかってしまった。 薫流があんなに大事にしていた手鏡を叩き壊した理由が、実の弟に盗みを犯させてまで手に入れた鏡を葬り去った真相が。 「ほら、そっくりでしょう」 破片に映り込んだ静流と薫流は、あまりにも瓜二つで。 双生児ですらこうも似ないだろうと思わせるほど容貌が酷似していて。 もちろん性別が違うから骨格が違う、静流がいくら細くても薫流とは体つきが違う、それを差し引いてもなおそっくりだと感じさせるほど外見の印象が通底している。 幼い薫流は鏡の中に真実を見てしまったのだ。 残酷な真実を。 「鏡には呪いが宿ると昔から言われていた。いわゆる呪具の一つなの。使い方次第で生霊の呪いを跳ね返すこともできれば反対にひとの魂を吸い込んで永遠にとらえる事もできる」 「呪いの片棒担がせるつもりで盗ませたの?ひどいね」 薫流はそっと笑い、一つ破片をもどした鏡を伏せて置く。 『貴方が女ならよかったのに』 それだったらまだ救われた。 「どう転んでも姉と弟にしか見えないわね」 姉と弟、男と女。 血で繋がれた者同士は肉で通じ合うことができぬ宿命、近親相姦は畜生道に堕ちる一族最大の禁忌。 思えば姉と弟が並んで鏡を見たのはあれが初めてだったのだろう。 物心ついたころより似ていると周囲に評せられてきたが自分の目でそれを確かめたのは初めてで、もはや逃れようもなくはっきりと血の繋がりの事実をつきつけられ狼狽した。 あるいは薫流が幻視したのは瓜二つの姉弟の背後に渦巻く、血の澱みから生み出され、過去と未来を糾う一族の業そのものだったのかもしれぬ。 この世には知らぬほうが幸せな真実もある。 「怖かったの。似すぎているんだもの、私達」 当時はもっと、もっと似ていた。 性差の曖昧な子供の頃、丈夫に育つよう女物の着物を着せられていた静流と薫流の見分けがつかず、使用人たちはほとほと困り果てたものだ。 薫流の人差し指が頬に、ついで形よい鼻梁に触れ、おのれとの相似を確かめるようにおずおずと輪郭を辿っていく。 その指を口に持っていき強く吸いたい衝動に駆られる。 いっそ噛み千切って食べてしまいたい衝動に悩まされる。 ああ、苦しい。 貴女が欲しい。 最後だからと言い訳し自分の方から手を伸ばす。 驚いて引っ込みかけた薫流の手を掴み、薬指を口に含む。 「あ」 熱く潤んだ粘膜が薬指を包み込む。泥と血の味が口の中に広がる。 香り立つ薬指を味わいつつ、唾液に濡れ光るそれを名残惜しげに口から抜いて嘘をつく。 「血が出てたよ。破片か小石で切ったんだね」 「そう?気付かなかったわ」 「姉さんは鈍感だからね。僕はちゃんと見てたよ」 貴女以上に貴女の事を、貴女の事だけを。 忌まわしいが捨てられなかった鏡の破片を慈しむような指遣いで一つ一つ箱におさめ、おもむろに薫流が言う。 「私が死んだら鏡を見てね、静流」 「え」 「鏡を覗けばそこにいるから」 ずっと一緒に。 「私の欠片をひとつあげるわ」 不吉な発言にいろめきだつ弟に笑いかけ、小さな破片を一つ手渡す。 思わず受け取ってしまった静流が、手のひらの破片を持て余し物問いたげに仰げば、弟の手に手を添え優しく破片を包ませる。 「形見だと思って持っていて頂戴」 「いきなり何を言うのさ縁起でもない。形見だとかそんな、姉さんも僕もそんな年じゃないだろ」 「言葉の綾よ。今はまだいいけどいずれどちらかが先に死ぬでしょう、その時になって形見分けで揉めたくないの。母さんと莞爾さんを見てればわかるでしょう?あんなふうにこじれてしまうのはいやだわ、絶対に。だから、ね、静流、持っていて頂戴。私と貴方が仲良く遊んだ子供時代の記憶を忘れない為に、私の想いを託したかけらをあげる」 自分が叩き壊した鏡の破片を弟に無理矢理手渡し、持っていろとせがむ。 その行動の背景にある複雑な心理を解読するには静流はあまりに青く未熟で、結局は薫流に押し切られる形で、懐紙で二重に包んだ破片を袂に隠す。 「姉さんには敗けたよ」 「そうこなくっちゃ。貴方はうんと長生きして私を看取ってくれなきゃだめよ」 「それは貢君の……お婿さんの役目じゃないのかい?」 苦笑がちに問う静流にこちらもまた不敵な含み笑いを返す。 「あの人はだめよ、きっと私の事なんかほっぽって剣をふってる。本家の長男はそうじゃなきゃだめだ、子を生して既に用済みの妻を看取る暇があるなら稽古に励めというのが莞爾さんの主張。貢さんは真面目な人だから、父の理不尽に肩が外れるまで素振りしてこたえようとする。痛ましいわ」 「あの人の男尊女卑は病気だね。頭の中まで江戸時代だなんて救われない」 「同感。だからね、お願い。私が死ぬ時はそばにいて、死ぬ姿を目に焼き付けて。私を看取るのは貴方じゃなきゃ嫌、子供でも夫でもなく静流、貴方じゃなきゃ嫌なの」 「そんな約束はできない。それにきっと姉さんは長生きするよ、皺くちゃのおばあちゃんになっても薙刀の稽古してるんじゃない?」 「静流」 姉が名を呼ぶ。 「たとえ命果てても、魂は貴方とともに行くわ」 地獄の業火に焼かれようとも、懐紙に包んだ破片もろとも蒸発しようとも、貴方が復讐の狂気に魂を売り渡し闇に堕ちようとも 最後の最期までどうか心臓にいちばん近い場所に私を抱いていて。 魂の在り処なんてわからないけど、最後の一音が絶えるその瞬間まで心臓の音を聞かせて頂戴。 孤高を貫くにはこの子はあまりに優しすぎる。 「姉さん……?」 行きたい。行けない。なら逝くしかない。 ある予感がある。 遠からず運命の荒波が古く呪わしい因習に縛りつけられた一族を襲い、なにもかもさらっていくだろう。十年ぶりにふたを開け、中にしまわれていた破片を日に当てた時、そこに映る弟の顔に惨劇の予兆を視てしまったのだ。 静流にまとわりつく黒い靄、秀麗な面差しに施された禍々しい血化粧…… あれは返り血。 おそらくは薫流の血。 時経りた道具には神が宿るという。何十年とたてば人形とて命を宿すという。 ならば先祖代々連綿と受け継がれてきた手鏡が、闇と同化した十年の眠りから目覚めるや所有者一族を破滅に導く惨劇を予知するのもありえる話で。 どうかこの子だけは。 「姉さん」 「なんでもないわ」 私の命も魂も吸い取っていいから、どうかこの子だけは。 心配する静流の胸に手を当て目を瞑る。 懐紙に包まれた鏡の上に片手を乗せ、ありったけの祈りと願いを注ぎ込む。 「今ね、呪いをかけたの」 「え?」 「私より先に死ねない呪い」 してやったりとほくそえむ薫流に何か言いかけて途中で呑み込み、降参したように首を振る。 「そんなに皺くちゃになった姿を見せたいの?」 「おばあちゃんになった私は嫌い?」 「まさか。どんな姉さんでも姉さんは姉さんだ、皺くちゃのおばあちゃんになっても男勝りな美人のままだろうさ。今と変わらずわがまま放題だったら閉口するけどね……いや、ボケが始まってもっと手に負えなくなるかも」 「いやな子ねえ」 元通り埋め直した後、どちらからともなく手を取り合って腰を浮かせる。 「帰りましょう」 「うん」 たった今交わした言葉の真意、微妙な遣り取りの含意を敢えて考えぬようにし、屋敷へと戻る帰途仲睦まじい姉弟を装う。 いつのまにか自分の背を追い越していた後ろ姿を見つめるうち強く吸われた薬指が疼き、潤んだ目を伏せ熱くもどかしい余韻を反芻し、軽く折り曲げたそれをそっと上唇に触れさせる。 薬指には運命の赤い糸が結ばれてると言ったのは誰だったか。 ならば静流は二人を縛る血の糸を噛み切ろうとして愛する人の柔肌を食い破る事を躊躇したのか。 いっそ噛みちぎってくれればよかったのに。 そうすれば貴方の一部として命尽きるまでともにいられたのに。 滾る血潮に熱通う薬指に接吻しつつ、弟の意気地のなさを呪う。 これより半年後、自刃した薫流の返り血を浴びた静流の顔は、彼女がかつて鏡の中に見出した狂相と酷似していた。
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