唇に毒を塗り

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唇に毒を塗り

  631a7459-362c-4fa1-9871-7a21f703c73e  屋敷の奥、日の射さぬ暗がりにひっそりある陰鬱な座敷牢。  無念に朽ち果てた亡者の妄執が立ち込め魑魅魍魎の巣窟と化す牢に、今一人の少年が居る。  漆喰を塗りこめた粗末な壁にしどけなく凭れ、片膝を立てた少年はため息が出るほど美しかった。  せかるる清流のように流れる鴉の濡れ羽色の髪、凛々しい柳眉、涼やかな切れ長の目。  色は抜けるように白い。  ほっそりと優美な体躯は取り澄ました白鷺を思わせる。  歌舞伎の女形と見まがう妖しい色香匂い立つ少年は、目にかかる黒髪の隙間から茫洋とした視線を放ち、漆喰の剥げ落ちたみすぼらしい向かいの壁を見るともなく眺める。  僅かに目を伏せる。  前髪がさらりと揺れ、長い睫毛に縁取られた双眸が物憂く翳る。  畳の目を数え退屈を飼い馴らす少年の耳にかすかな物音が響く。  音の正体は寸刻おかず判明した、人の体重で板張りの床が軋む音だ。  だれかが近付いてくる。  屋敷はどこも古く、梁も床も傷んでいる。  体重を乗せるたび甲高く奇怪な軋み音を上げる床をおそれ、厠に立つときも姉に付いていてきてもらった幼少の時分を思い出し、少年はうっすら笑む。  姉と片時も離れずにいた幸福な幼少期を回顧し、束の間郷愁にひたる少年のもとへ、床踏む足音は次第に近付いてくる。  板が鳴る。  軋む。  座敷牢に通じる回廊の奥に忽然と人影が現れる。  日本家屋は昼でもなお薄暗い。  屋敷の最奥、特別な用でもない限り人が訪れぬ秘密の回廊は何百年と変わらぬ時代の闇に支配されている。  天井を支える太い梁にも漆黒の廊下の隅にも近年手を加えた形跡はなく埃が積もっている。  闇の帳がおちた廊下の奥に忽然と現れた人影は、たおやかな姿態をしていた。  優美に韻を踏む足取りに合わせ、肩で切り揃えた黒髪がさらりと揺れる。  人影は女だ。  しかも、若い。少女と言ったほうがいい年代だ。  紫の地に杜若を染め抜いた豪奢な着物を纏っている。  躾のよさが窺える凛とした物腰は、物心つく頃より着物を着慣れた者のそれだ。  使用人すら忌避する陰鬱な座敷牢に、少女は物怖じせず迫り来る。  座敷牢の前で立ち止まり、優雅な動作で朱塗り格子に手を添える。  眉の上と肩で切り揃えた艶やかな黒髪も相俟って、香り高い桐の箱に納められた日本人形のような印象を強める。  かっきりと弧を描く柳眉は女にしてはやや気が強すぎるきらいがあるも、しっとり艶めく切れ長の目といい紅を含んだふくよかな唇といい、文句の付けようがない美人だ。  格子に手を添えた少女は暫く黙って少年を見下ろす。  物言いたげに自分を見下ろす少女を緩慢な動作で仰ぎ、少年は悪戯めかして笑う。  「やあ薫流姉さん。ちょうど退屈してたんだ、相手になってよ」  「馬鹿」  腹立たしげな口吻で少女が言うも、顔に浮かんだ笑みまでは隠せない。  薫流と呼ばれた少女は、洗練された挙措で格子の前に正座する。  えもいわれぬ気品が立ち振る舞いに滲む。  滑らかに端座した少女の袂からふわりと甘い香が立ち上る。   少女の袂より匂い立つ馥郁たる芳香は一瞬あたりに霧散し、格子を隔て気だるく座した少年のもとにも漂う。  良い匂いだ。  白粉にも似ているが、それよりもっと自然で甘い匂い。  閉じた瞼の裏を桜の花弁が舞うような、爛漫と浮き立つ春の匂い。  鼻腔をくすぐる快い香りにひたる少年をよそに、少女は格子に手を付き、その目は笑みを含んで壁に凭れる弟を見守る。  「お母様も酔狂よね。座敷牢の存在なんて皆忘れていたのに今頃になって思い出すんだもの。私も小さい頃はよく閉じ込められたけど」  「姉さんはおてんばだっから母さんも手を焼いたのさ」  「あなたはお利口だから滅多に使われなかったわね。憎たらしいったらないわ」  「座敷牢に入れられる度さしいれを持ってきたあげたのに酷い言い草」  名前どおり甘い香りを纏った姉が、昔を懐かしみ座敷牢を見渡す。   なにも変わっていない。  床机の位置はおろか、蜘蛛の巣の張った場所すら変わってない。  悪戯をとがめられ、母の怒りが解けるまで入れられた時そのままに時が淀んでいるかのよう。  暫く懐かしげに座敷牢を見渡していた薫流が、年頃の少女特有の気まぐれで静流に向き直る。  「お母様かんかんよ。また門下生と揉め事をおこしたそうね」  「絡んできたから相手をしたまでさ」  説教くさい口吻で咎められるも、悪びれた素振りもなくしゃあしゃあと言い放つ。  静流の堂々たる開き直り、反省の色などかけらもなう様子に呆れを通り越しいっそ感心したふうに目を丸くする薫流。  静流は三つ上の姉の滑稽な仕草を好ましく見守る。  おどけた顔すら媚態に転じる姉は、いつだって静流より一枚も二枚も上手だ。  着物の裾を揃えた膝の下にきちんとたくし込み座した薫流は、無邪気な笑みと口ぶりを装い核心を突く。  「それで、今度は何が原因?」  茶目っ気を覗かせ小首を傾げる。  静流はとぼける。  「別に。話す事のほどじゃない、ただのつまらない喧嘩さ」  そっけないあしらいにもめげず、薫流はさらに畳み掛ける。  「あら、つまらないなら隠す事ないじゃないの。言ってしまいなさいよ、すっきりするわよ。つまらないことなら一緒に笑ってやりましょうよ」  「強引な姉さんだね」  静流はうんざりと首を振る。  弟の正しい指摘がさも心外そうに薫流は抗議する。   「またそうやってのらりくらりとごまかす。ねえ静流、前から思っていたのだけれどあなた私を馬鹿にしてない?姉さんは馬鹿で単純だから手玉にとりやすいってお腹の中で笑ってるんじゃなくて?もしそうなら心外だわ、いかに帯刀家が男尊女卑の家柄とはいえ私の弟がそんな頭でっかちだったなんてがっかりよ」  「馬鹿になんかしてないさ。姉さんの事は尊敬してるよ、とても」  「怪しいわね。なら私のどこを尊敬してるか言ってごらんなさい」  「桜の枝なんて小さい事はせず桜の木ごと切り倒してなおかつそれを僕のせいにするところ」  「失礼ね、桜の木を切ったのは誰だと聞かれたら『私です、綺麗だからおうちの庭に欲しくて』って包み隠さず言うわよ。欲しい物を欲しいと言うのは何も恥じゃないもの。……待って、私としたことが迂闊だったわ。切ったら咲かなくなってしまうわね。手間と人手はかかるけど植え替えたほうがいいかしら」  揃えた膝に手をおき何やらぶつぶつと思案し始めた姉を呆れ顔で眺め、壁から身をおこした静流は溜め息を吐く。  「姉さん、こんな諺知ってる?」  「なあに」  「男は度胸、女は愛嬌」  「それがどうかしたの」  枝を手折るくらいならいっそ木ごと切り倒してしまおう……大和撫子な見た目を裏切る豪快な発想だ。  快活がすぎて男勝りな姉の気性は十分知り抜いているが、女にしておくのが惜しいその度胸に改めて敬服する半面、姉の十分の一でも度胸があったらと皮肉まじりの自嘲の念を抱かずにおれない。  跡取りたる自分より、姉の方が余程当主の器だ。  大和撫子のたおやかな見た目と裏腹に、女だてらに武芸に秀で大胆華麗な決断力をあわせもつ姉が長男だったら、理想の跡継ぎを得られた母はどれほど喜んだことだろう。  自分では駄目だ。  自分では、母を喜ばせる事ができない。  母の期待に報えない。  諦念に近い失望の念に支配され、憂鬱を払うため静流は緩く首を振る。  畳を擦って格子ににじり寄り、含みありげな上目遣いで薫流の顔色を窺う。  「眺めるだけで満足せずどうしても自分の物にしようとするのが姉さんらしいね」  座敷牢に軟禁されるまで道場で稽古をしていたため静流は今も道着姿のままだ。  純白の道衣に映える黒い角帯、折り目正しい袴。  顔立ちが中性的なため眦凛々しい男装の剣士にも見えるが、端正に袴を着こなすさまはやはり帯刀の血を感じさせる。  格子を隔て向き合った弟の姿を毅然と顎引きじっくり眺めやり、薫流は心の中で呟く。  立派になったわね。  少し前まではびいびい泣きながら私のあとを追いかけていたのに。  木刀構える姿も絵になる眉目秀麗な剣士へと成長した弟が、旧家のしきたりを守り女装させられていた頃を思い出し、感慨に浸る。  過ぎ去りし歳月に想いを馳せ、格子越しの少年に幼い頃の可憐であどけない面影を重ね、つっと指を伸ばす。  「眺めるだけで満足なんてできないわ」  泣き虫で弱虫、いつも私の背中に隠れてばかりいたあの子がいつのまにか大きくなって。  分家の跡取りとして恥じぬよう厳しい修行に耐えている。   当主の器にふさわしい貫禄を体得するため生まれ持った才を磨き技量を研鑽し、それでも報われぬ屈辱に耐えている。  静流が愛しい。  この子が愛しい。  振袖が床に垂れ落ちる。  白い手首が格子にかかる。  格子の隙間からさしいれた指がそっと頬に触れる。  私は我がままで欲張りだ。  見ているだけで満足なんかできやしない。  見ているうちに必ず欲しくなってしまう。  それが無理とわかっていても、  叶わぬとわかっていても。  視線が絡み合う。  真っ直ぐに目を見詰める。  互いに生き写しの姉弟が格子を隔て向き合う姿は、合わせ鏡の如き酩酊を誘う。  清冽に澄み切った水鏡の目をもつ弟をひたと見詰める。  水鏡に映り込む虚像に魂を吸い出されるかのような微酔の心地で、弟の頬に指を添え、衣擦れに紛れそうな小声で呟く。  「………見ているうちに、どうしても欲しくなってしまうの」  か細い吐息に乗った囁きが耳朶に絡む。  姉の指はひやりと冷たい。  心が優しい人ほど手は冷たいという。  なら姉は本当は優しいのだ。  小さい頃はいじめられてばかりいたが、それでも姉を追うのをやめなかったのは、この広い屋敷でただひとり薫流だけが静流を庇ってくれたからだ。       母は跡取りの静流を厳しく躾けた。  使用人もまた親しみとは無縁の冷え冷えした慇懃さでもって静流に接した。  門下生は陰口を叩いた。  分家当主として師範の座を約束された静流にまつわる嫉妬と羨望が、門下生の口から口へと悪意に満ち満ちた噂を流布させた。  生まれ持った姿形のよさすら批判と中傷の対象になった。  言っても詮無き事であり、矜持の潔癖さ故に姉にはひた隠しにしてきたが、静流はもうずっと前から同じ道場で学ぶ門下生に陰湿ないやがらせを受け続けてきた。  姉に話すつもりは毛頭ない。  話したところで仕方がない、何より知られるのは恥ずかしくみじめだった。  「………………姉さんは欲張りだね、なんでも自分の物にしたがるんだから。子供の頃から全然変わってない」  頬に添えられた指を片手で包み込む。  姉の手に頬を預け安らかに目を閉じる。  こうしている時だけは素直になれる、包み隠さず本音を吐露できる。  子供に戻ったような顔で自分の手に縋る弟に頬を緩めるも、次の瞬間、その顔が強張る。  「何、これ」  姉の手をとり頬に引き寄せた静流の袖が捲れ、手首が外気に晒される。  はだけた袖口から露出した手首に何気なく目をやり、薫流は険しく眉をひそめる。  静流の顔に動揺が走る。  努めて平静を保ち、あくまでさりげなくを装い隠そうとする静流を遮り、格子のはざまに腕を突っ込みむりやりその手を引き寄せる。  力づくで振り解こうかとも思ったが美しい手を傷付けるのを危惧し、諦めて身を任せる。  なげやりな内心を隠しもせぬ無造作な態度でもって、姉にとられるがまま手をさしのべる。  倦怠に醒めた目と厭世的な無表情の取り合わせの弟にむかい、薫流は声を潜めて問う。  「………縛られた痕ね」  手首にくっきりと残る痛々しい痣。  細い紐状の物で、手首を括られたあと。  重苦しい沈黙がおちる。  薫流は恐ろしく真剣な顔で手首の痣を見詰め、有無を言わさず命じる。   「そちらの手も出して」  義憤に駆られた毅然たる口吻に逆らえるものなどいない。  静流は観念し大人しく従う。言われたとおりにもう片方の手もさしだす。  格子のはざまに手を入れもう片方の手を引き寄せるや、ぐいと袖口を上げ、外気に晒した手首を入念に検分する。  「どういうこと?」  薫流の声は凄味すら帯び、落ち着き払っていた。  先走りがちな感情を抑制しているのがよくわかる透徹した無表情。    両の手首を見比べながらの姉の詰問に伏し目で逡巡するも、白状するまで許さないといった静かな気迫に気圧され、渋々口を開く。  「………ちょっとした悪ふざけさ」  両の手首にくっきりできた痣を見下ろす。  薫流は僅かに正座を崩し身を乗りす。  熱心な凝視を注がれ、格子に凭れた静流はばつ悪げに視線を伏せる。  薫流の視線を避けるように顔を背け、無意識に手首をさすり、乾いた声色で淡々と話し始める。  「道場で囲まれて大人数で押し倒された。皆嗤っていたよ、僕を床に押さえ込んで。次期分家当主サマがいいザマだってね」  ほんの数刻前の記憶が脳裏を過ぎる。  稽古中、道場で門下生に囲まれた。  師範代を務める母は急な来客があり席を外していた。  師範代がいなくなった隙を狙い門下生は集団で静流を取り囲み、そして……  『才能もないくせに家柄だけで師範の座を約束されて、まったく羨ましいご身分だぜ』  『こんななよなよした女男に俺達が劣るってのか?馬鹿にしやがって』  『お前みたいな女々しい男が剣を持つなんざ笑わせるぜ』  『武に秀でた本家の跡取りならともかく、女が腐ったような分家の跡取りが贔屓されて門下生筆頭に居座り続けるなんざ反吐が出るぜ。わかったらとっととやめちまえよ、こっから出てけよ』  『お前と一緒にいると女が腐った匂いがうつっちまう』  『道場の格も下がるってもんさ』  『いいか、勘違いすんなよ。師範がお前をここで学ばせてんのは出来損ないの息子を哀れむ親心だ。本家の貢と比べたら前なんてお話になんねーおちこぼれの出来損ない、振り回す剣は覇気のなさにゃあこっちまで気が抜ける!わかったか、お前がいると迷惑なんだよ。才能もねーくせに血筋だけで贔屓されてるお前にここにいる連中みんなむかむかしてるんだ』  次々と浴びせ掛けられる罵声と嘲笑、露骨な中傷。  静流は表情ひとつ変えず黙ってそれを聞く。  女形陰間と陰口を叩かれるのは今に始まった事じゃない、それこそ日常茶飯事だ。  門下生の多くは女が腐ったようなやつと静流を忌み嫌う。  本家の跡取りの貢と比べ実力が劣り、当主の器に不相応と嘲る。  師範代と当主を兼ねる母がいる前では皆一応の敬意を静流に払ったが、ひとたび母がいなくなれば門下生の多くは稽古を放り出し、または稽古を続けるふりで巧妙かつ陰湿極まる嫌がらせを開始した。  打ち込みの練習の際、わざと脛や肩を打たれるのは日常茶飯事。  試合の際、反則とされているはずの足払いをかけられ転ばされる。  それらはまだいいほうでひどいのともなるとすれ違いざま唾をかけられる、背中を突き飛ばされる、後ろ髪を引かれる。  一度など道着に墨をかけられた。  純白の道着に染みた墨は洗っても洗ってもなかなかおちず、結局仕立て直す事になった。   『剣士としての自覚が足りません。本家の貢さんを見習いなさい』  母には事実を伏せた。  道着の汚れも不自然な箇所の怪我もすべては己の不注意と未熟のせいとした。  告げ口は武士の恥だ。  相手に合わせて自分まで堕ちることはない。  しかしそれだけではない。  静流自身心の片隅で彼らの言い分は最もだと思っていたのだ。  本家の跡取りの貢と比べ自分はなんて駄目なんだろうと卑下し、母の期待に応えられぬ自分を責めた。  才能のない自分が周囲に疎まれるのは当然、ならばこの理不尽な仕打ちも甘んじて忍ばねばと沈黙を守る静流に連中はますます調子に乗り、嫌がらせはさらに悪質なものへと変化した。  静流は目を閉じ続ける。  「僕に覆い被さった一人が懐から紐を出し手首を縛り上げた。抵抗したけど無意味だった、なんたって多勢に無勢だ。木刀を取り上げられたらどうしようもない。この通り僕は痩せてるからね。手首なんてほら、姉さんより細いんじゃないかな?」  「話を逸らさないで」  「わかったよ。………縛り上げて身動きを奪ってから、彼らは僕を壁際にひきずっていってね。正面に回った一人が………」  「何?」  薫流が鋭く切り込む。  静流はためらう。  矜持をねじ伏せられた恥辱に体が熱くなる。  衣擦れの音が耳朶をくすぐる。  甘やかな芳香が鼻腔を突く。  格子に縋り寄った薫流が隙間から手をさしのべ、静流の髪を一筋摘み、袖をたくし上げた甲斐甲斐しい手つきで耳の裏に通す。  「大丈夫よ、お母様には言わないから」  「……いいの、姉さん。喧嘩の原因を探るのが目的で差し向けられたんじゃないの」  疑い深く念を押す静流に薫流は嫣然と微笑み返す。   爛漫と咲く牡丹のような凄艶な微笑。  「喧嘩の原因?そんなの決まってるわ、馬鹿な門下生が庭の桜を切ろうとしたの。静流はそれを止めに入ったのよね。枝一本なら見逃してあげたけれど木ごと持ってこうなんて欲張るんだもの。さすがに見逃せないわよねぇ?」   悪戯っぽい笑みを含んだ目と唇で、唄うような抑揚で言う。  屈託なく微笑む姉に一瞬あっけにとられるも、次の瞬間込み上げる笑いが弾け、反り返るようにして笑い出す。  行儀悪く足を投げ出し手を付き、鈴を転がすように朗らかな声で笑い転げる静流につられ、薫流もまた口元に手を添え笑う。  「ははっはははははははっ、本歌取りとは恐れ入ったね姉さん!姉さんにかかっちゃさすがの母さんもかたなしだ!」  「名案でしょう。お母様は庭の桜を毎年楽しみにしてる、静流が体を張って花泥棒を制したのだとわかればお咎めなしで釈放よ」  「それで押し通すの?」  疑念を隠せぬ静流に薫流はしれっと言う。  「嘘も方便」  まったく、姉さんは一枚も二枚も上手だ。  薫流は不思議な女性だ。  ときに臈長けた遊女のようにもあどけない童女のようにも見える。  極彩色の万華鏡のように千変万化、掴み所ない媚態で人を夢中にさせる。  静流もまた子供の頃より薫流の奔放さに翻弄されてきたひとりだった。  揃えた膝に手をおき取り澄ます薫流にまたひとしきり笑い転げ、目尻に滲んだ涙を人さし指で拭い、深呼吸で顔を上げる。  「薫流姉さん」  声色を改めて名を呼ぶ。  笑みの余韻を唇に留めた薫流が視線を上げる。  格子越しに薫流と視線を絡め、囁くように言う。  「もっと近くへ来て」  薫流が膝を進める。  睫毛が縺れる距離に顔が迫る。  優美に揺れる黒髪の中心には白磁じみて精巧な顔がある。  市松人形じみて秀麗な目鼻立ちと紅をひとさし足したような唇の対照が艶かしい。  薫流が動くたび甘く華やかな香りが匂い立つ。   あたりに広がるえもいえぬ芳香に薫陶し、静流の目が恍惚と潤む。  二人を隔てるものは無粋な格子だけ、その格子から発情した白蛇の如く艶かしくくねり出た手が薫流の膝にのる。  闇の帳が包む座敷牢の内と外でふたりは対座する。  絹のように流れる黒髪  物憂い影をおとす睫毛  妖艶に艶めく双眸。  甘い曲線を描く唇と品良く尖った顎に至るまで瓜二つだ。  睫毛がもつれ吐息が絡む距離にて見つめあえば、弟の唇が男にしてはやけに赤く、淫らに色づいてることに気付く。  「…………これ………」  魔性めいた赤さに惑わされ思わず手を伸ばす。  下唇の官能的なふくらみに指でふれ、すくう。  指の腹を返してみれば、血よりもまだ赤い朱が一点なすられていた。  「口紅」  仄光る弦月の形に唇を引き静流が笑う。  手練手管に通じた遊女の媚態をも隠し持つ、したたかな笑み。  『女形は化粧して踊ってろ』  『もとから女みてえな面してんだ、さぞかし口紅が映えるだろうさ。どれ、塗ってやるよ。遠慮すんなって』  『とびっきりの別嬪に仕上げてやるよ』  押し倒された道場の床の冷ややかな固さ、  束縛された手首窮屈さ、  よってたかって押さえ付ける手の容赦のなさ。  道場の床に組み敷かれ必死で抵抗したが多勢に無勢、門下生の多くは静流より体格がよく、掃き溜めに鶴の如き彼を膂力に利して組み敷くのは造作もなかった。  抵抗すればするほど宴に興を添えた。  手首を紐で縛られたまま激しく身悶える静流の姿はとても痛々しく劣情をそそり、抵抗の痕跡を留めてしどけなく肌蹴た道着から覗く華奢な鎖骨と白い肌からは淫靡な色香が匂いたち、恥辱と憤怒、苦痛と焦燥とが入り混じり上気し歪んだ顔は、しっとり汗ばむおくれ毛に縁取られて、性別を超越した切ないほどの美を湛えていた。  既に青年といっていい屈強な少年らに、少女とみまがう少年がよってたかって組み敷かれ嬲られる嗜虐的な光景に、門下生は興奮する。  面突き合わせ生唾を飲み、下世話な興味を剥き出しにこちらを覗き込む門下生らの顔にはぎらぎらと欲望が滾っている。  床に押さえ込まれた静流に門下生の一人がのしかかり、前髪を掴んでむりやり仰向かせ顔ごと固定する。  ひやりと硬い異物が敏感な唇にあたり、本能的な拒絶を示す。  それは筆。  激しくかぶりを振ったせいで毛先が潰れ筆の芯が当たったのだ。  床に組み敷かれた静流の目に映る光景は悪夢じみていた。  紐で手首を結ばれた自分を組み敷きのしかかる何人もの男、中の一人が笑いながら静流の唇の端に筆を押し当てる。  筆が唇に被さり、乱雑に紅をなする。  一心不乱に暴れたせいで門下生の手元が狂い、筆が唇を割り舌をなする。  『咥えてみろよ』  衆人環視の中、先端に毛を備えた固く細い異物により唇が割られ犯される。  酸素を欲して薄く開けた唇に当てられた筆が、意地悪くじらすような緩慢さでふくらみを這っていく。   門下生に視姦された状況で唇に紅を塗られるのは耐え難い屈辱だった。  手首を縛り上げられた無様な体勢で紅を塗られる間中、全身が燃えるような恥辱に苛まれていた。  意地悪い嘲笑がさらに恥辱を煽り立て、門下生がふざけて口の中へ筆を突っ込むたびえずきに襲われた。  嗜虐的なねちっこさで唇をなぶる筆使いを思い出し、静流は顔を顰める。  「本当参ったよ。あんな下手くそには二度と塗らせたくないね」   稚拙な筆使いが唇を嬲るたび、くすぐったさとともに恥辱の裏返しの性感が芽生え、唇を中心に漣の如く広がった。  唇を中心に漣立つ淡い官能。  露骨な視線に晒され辱めを受ける事で身の内を疼かせる倒錯した快感に動揺する。  体は怒りと恥辱で火照っているのに、紐が食い込む手首は痛いのに、唇にこそばゆく触れる筆先が静流の意志と裏腹に未知の感覚を開発する。  自分の体に意志を裏切られる絶望は、門下生に辱めを受ける事実にも増して静流の矜持を砕く。  顎を掴まれ力づくで押し上げられる痛みと乱暴な筆が敏感な唇を擦る不快さに身じろぐ静流を、野卑な笑みを剥き出し見下ろす門下生たち。    べたべたと紅を塗りたくられた顔を覗きこみ、今日までともに学んだ門下生たちがせせら笑う。    『どうだ、別嬪に仕上がったろ』  『普段のお高くとまった面よかこっちのがよっぽどいいぜ』  『咥えさせてみるか?』  『待てよ、男だぜ』  『関係ねーよ、実際そこらの女よかよっぽど上玉じゃねーか』  『催してんじゃねえよ、無節操め』  そこまでならまだ許せた。  侮辱されたのが自分だけなら。  自分は本家の跡取りと比べ劣っているのだから仕方ないと  理不尽な仕打ちも甘んじて呑もうと。  しかし。  『薫流にのぼせてるからって手っ取り早く弟で間に合わせんじゃねーよ』  耳を疑う。  目を見開く。  醜いあばた面の少年が静流の首から上だけを舐めるように見、舌なめずりせんばかりに笑み崩れる。  おぞましく、醜悪な笑み。  おそらく頭の中では目の前の静流に重ね、薫流を陵辱しているに違いない。  最愛の姉を組み敷き着物を剥ぎ取り股を開かせ、気丈な姉が自害したくなるような痴態の数々を悶々と妄想しているに違いない。  痘痕から飛び出た膿汁がかからんばかりの距離に接した少年が、興奮に浅ましく息を荒げ、静流の顔に粘着な凝視を注ぐ。  額にかかる鴉の濡れ羽色の黒髪  きっかりと弧を描く柳眉  長い睫毛の下の潤んだ双眸  憂いの翳りを含んだ繊細な鼻梁  ふっくらと甘美な唇。   そのすべてをねちっこい視線で犯される嫌悪と恥辱、それをも上回る姉を侮辱した男に対する絶大な怒り。  姉と瓜二つの顔に生まれたことを、これほど呪った事はない。  自分が不甲斐ないばかりに、最愛の姉までもが辱めらてしまった。  こんな男に。  こんな下郎に。  『こうしてみると本当よく似てんな』  あばた面の少年が静流の顎に手をかけ、淫らに色づく唇を指でさすり、興奮に乾いた上唇をいやらしく舐める。  『せいぜい薫流の口だと思って楽しむことにするさ』  刹那、理性が爆ぜた。  時が沈滞した屋敷の最奥、埃っぽい暗がりに向かい合うふたりを沈黙が包む。  「だから、返り討ちにしたのね」  薫流がぽつりと呟く。  静流は答えない。  薫流に問い詰められ白状してしまった自責に苛まれ、眉間に焦慮の皺を刻み、悩ましげに唇を噛む。  「死に物狂いで暴れた甲斐あって紐が緩んだ。紐がほどけた途端、そばに転がっていた木刀を掴んで跳ね起きた」  「手加減を忘れるほど熱くなっていたのね」  「殺さなかっただけ褒めてもらいたいね」  「二人は骨が折れていたわ。三人は捻挫ですって。派手にやったわね」  「当然の報いさ」  口角を吊り上げ、せいぜい酷薄な笑みで言い放つ。  朱塗り格子を挟んだ弟を、薫流は寂しげな翳りを秘めた笑みで見守る。  気遣わしげな色を湛えた目は、鋭利で繊細な硝子のように張り詰めた弟を案じるそれ。    朽ちた畳に座し、格子に寄りかかるように身を凭せ、茫洋とたゆたう目で掌を見下ろす。  先ほどまで木刀を握り締めていたその手には、今もまだ腕を砕いた時の衝撃がのこっているよう。   骨が砕けた手ごたえを反芻するよう掌を開閉しつつ、遠い目をして尋ねる。  「姉さん」  「なあに」  じっと掌を見詰める。  固い格子に背中を預け闇に沈んだ天井を仰ぐ。  黒ずんだ梁が交差する天井は異様に低い。  こんなところに閉じ込めらていたらまともな人間だっておかしくなってしまうだろう。  皮肉な感想を抱き狭い牢を見渡す。  漆喰の剥げ落ちたみすぼらしい壁に三方を囲まれた六畳間。  むかって右側には埃が積もった床机が置かれ、左側には万年床が敷かれていた形跡がある。  忌まわしい事に、この牢は使われた形跡がある。  今はもう寝床も取り払われ朽ちた畳と床机が残るだけだが、左側の畳が布団の形に窪んでいるのが一層不気味さを醸す。  静流は母に命じられ座敷牢に入った。  門下生に対し手加減なしで木刀をふるい、大怪我させた事を咎められ、悶着の原因を白状するまで出さないと言い渡された。  静流は口答えせず言い付けに従った。  当主の器たれと静流に強く願う母に経緯を話すくらいなら、一生座敷牢にこもっていたほうがマシだった。  手首を縛られ組み敷かれたなどと  紅をさした自分に催した連中に襲われたなど、言えるわけがない。  格子にもたれ掌を見下ろし、自分とは比較にならないほど剣の腕がたち、人格も優れた本家の跡取りを思い描く。  「僕はいつ、貢くんに追いつけるんだろう」  彼ならきっと、こんなみじめな思いはしない。  こんなみじめな思いとは無縁だ。  本家の跡取りとして重んじられる彼と、分家の跡取りとして軽んじられる自分と、どうしてこうなにもかもがちがうのだろう。  彼はすべてにおいて優れ、自分はすべてにおいて劣っている。  だれもかれもがそう言う。  二人を比べそう言う。  本家の跡取りは立派で分家の跡取りは未熟だと、どんなにか努力したところで決して埋まらぬ実力の差を容赦なくつきつける。  子供の頃は頻繁に行き来し、屋敷の庭で隠れ鬼に興じた従兄の顔を回想する。  目を閉じれば思い出す。  瞼裏の闇に浮かび上がる。  姉に意地悪され泣かされてばかりいた静流を慰めてくれた少年、下駄の鼻緒が切れた時はひょいとおぶさってくれた。  貢君はあの頃から人間ができていた。  面倒くさい顔ひとつせず、足手まといの僕のお守りをしてくれた。  あれから十年の歳月が経ち、二人がおかれた環境は大きく変わってしまった。  否、それぞれに分別が付き立場の違いを自覚しただけかもしれない。  幼い頃は何もわからなかった。  大人の事情など関係なく無邪気に呑気に遊び呆けていられた。  分家と本家の確執など知らず、伯父と母のいがみ合いとも無縁に、桜の花弁が舞う庭で駆け回っていられた頃が懐かしい。    『いつでも遊びにきてくださいね、静流さん。待ってますから』   『父上の事は気にするな。いつ来てくれても構わない。……苗も喜ぶ』  最後に会ったのはいつだったか。  別れを惜しむように庭に立った苗の言葉に、苗に寄り添った貢が付け足す。  似合いの二人だった。  猛禽のよう鋭い双眸が近寄りがたい印象を抱かせる貢が、傍らの苗を見るときだけは驚くほど優しい顔になった。  おそらく無意識だろうが、苗に寄り添い見守る貢の顔には、あるかなしかのはにかむような笑みさえ浮かんでいたのだ。  双眸の険しさと表情の厳しさから大人びて敬遠されがちな貢が、苗といる時だけ年相応に見えたのはきっとそのせいだ。  『俺も喜ぶ』  苗を守るように傍らに立ち、見送りに出た貢は一言添えた。  本心からの言葉だった。  貢は決して嘘を吐かず世辞を言わない、その高潔で誠実な人となりこそ当主の器にふさわしいと称賛される由縁だ。  静流は曖昧な笑みを浮かべ、別れを惜しみ再訪を願う二人に背を向けた。  身を翻した瞬間笑みがかき消えた。  睦まじく寄り添うふたりの様子に嫉妬とも羨望ともつかぬ屈折した想いに駆られ、逃げるように本家を去った。  貢君はすべてを持っている。  足りないものなどなにもない。  けれども彼は上を目指すのをやめない。  さらなる高みを目指しがむしゃらに剣をふるい、ますますもって実力と評価を高めていく。  僕が欲しい物をすべて持っているくせに、  満ち足りているくせに。  なぜ与えられたものだけで満足しない?  なぜ勝ち得たものだけでよしとしない?       君には苗さんもいるのに、  身分の差を除けば何の障害もなく愛し合える人がいるのに。    貢の隣で控えめに微笑む盲目の少女を追想、己の境遇と引き比べた理不尽に顔が歪む。   この手にはなにもない。   欲しい物はすべて貢くんが持っていってしまった。  名誉も称賛もなにもかもただ彼の為にだけ用意されていたのだ、最初から。  彼が本家に生まれ自分が分家に生まれたそもそもの始まりから。    力なく握り込んだ手を下ろし、苦渋の色が滲んだ双眸を儚く伏せる。   色落ちして生木を晒した格子に凭れ、鈍い軋み音を聞きながら、呟く。  「いつになったら貢くんを追い越せるんだろう」  追いつきたい一心で剣を振るった。  追い越したい一心でしのぎを削った。  しかし血を吐くような努力も一向に報われず、気付けば彼は遥かな高みに上り詰め、静流は無力を噛み締め置き去りにされた。  強くなりたい。  もっと、強く。  こんな目に遭わないくらい強くなりたい、己の身も心も守れるくらい、大事な人を守れるくらい。  手首に残る薄赤い痣を見詰め、胸を苛む鬱屈を抑えた声で吐露する静流の方へすっと手がさしのべられる。  拒む暇もなく頬を包まれる。  顔を手挟み正面を向かされた静流は、驚き惑ういとまもなく姉の目に吸い込まれる。  綺麗な目だ。  「じっとして」  赤い唇が囁く。  静流は大人しく言う事を聞く。  言われたとおり微動せず姉の手に身を委ねる。  薫流は慣れた動作で袖をたくし上げるや、片手を静流の顎に添え正面に固定し、袖を抜いたもう片方の手の指でもって唇に触れる。  滑稽なほど真面目な顔で口元に薬指を運び、吸う。   唇の隙間からちろりと覗く舌がひどく艶かしく目を奪う。  軽く啄ばみ、腹を唾で湿した薬指を今度は静流の顔へ近づける。  虚空をすべり近づく薬指に鼓動が妖しく高鳴る。  正面に迫る黒々と濡れた目と赤い唇の蠱惑に惑わされる。  酷く、喉が渇く。  顔にかかる震える吐息に睫毛が慄く。  体から急激に力が抜けていく。  静流は何ら抵抗なく薫流の手に身を委ねる。  顎にかかる手のぬくもりがひどく愛おしい。  姉の顔をまともに見つめるのを避けて僅かに伏し目がちにした静流の唇にそっと薬指が触れる。  唇の端に接した薬指は、捺印を押すように暫くそこに留まる。  やがてまた動き出し、下唇のふくらみをゆるやかに辿り始める。  唇に触れる指先にぬめりを感じる。  薫流はひどく真剣な様子で静流の唇に自身の唾を刷り込んでいく。  下唇の丸みを辿る指が慄くような官能を紡ぐ。  よってたかって組み敷かれ紅を施された時とは比較にならない細心さで唾を塗布され、先刻とは比較にならない優しく妖しい官能が織り成される。  蜻蛉の羽の軽やかさで唇をくすぐる指遣いに陶然とする。  繊細かつ丁寧な指遣いでふちに沿い唇をなで、形状を確かめる。  姉の手にされるがまま人形のように従順な静流にむかい、無邪気な声色を作る。  「覚えてる、静流?子供の頃よくこうして遊んだでしょう。オシロイバナの種を潰してお互いの唇に塗りっこしたわね」  「覚えてるよ、化粧の真似事」  「綺麗にしてあげてるのにあなたったらちっともじっとしてないで、やりにくかったわ」  拗ねる薫流につられ静流も朗らかに声たて笑う。  「男が化粧されて嬉しいはずじゃないか。しかも姉さんときたら癇性持ちで少し身動ぎしただけで烈火のごとく怒り出すし、こっちはびくびくしてたよ。正座を崩すなだの裾を乱すだの口うるさくて、将来はさぞかしやかましい小姑になるだろうなって幼心に思ったものさ」  「まあ」  薫流は柳眉を逆立て憤慨する。  軽口を叩き合うあいだも指は止まらず滑らかに、琴を爪弾くような華麗さでもって静流の唇を下から上へと辿る。  「もっと怖いのは僕がやる番。少しでもはみ出すとこっぴどく抓られる」  「可哀想だから腕にしてあげたのに、そんな事言うなら顔にすればよかった」  格子を隔てた薫流は唇を尖らせ怒ったふりをするも、目はおかしげに笑っている。  格子のあちらとこちらに親密な空気が交流する。  昔そうしたように甲斐甲斐しく静流の唇を拭いてやりながら、長い睫毛に覆われた目に一抹の感傷を過ぎらせ薫流は言う。  「懐かしいわね」  「うん」  「ほんの数年前の事がもう二十年も昔の事みたい」  「姉さんが化けたからじゃないか」  「失礼ね、人を魑魅魍魎みたいに」  「見違えるように綺麗になったって意味」  「あなたも変わったわ」  「稚児が陰間になった?」  紅さし指の異名をもつほっそりと優美な薬指が上下の唇をしっとり拭う。  漸く紅を拭い終え指をのけた時、薫流の顔には毅然とした表情が浮かんでいた。  眦を決し互いと向き合う。  凛冽と冴える眼差しがひたむきに静流を捉える。  一直線に切り揃えた前髪の下、しんと冴え渡る冬の闇。  真っ直ぐ対さねば何も見えぬ真理を体現するが如く居住まいをただし、等身大の鏡の如く静流の目を見据える。  一呼吸の吟味の後、満足げに唇が綻ぶ。  「いいえ。よい剣士になったわ」   掛け値なしの称賛。  心からの本音。  貢と比較され蔑まれ嘲られ貶められ、道場で孤立していた静流が、ずっと欲しかった言葉。  見開かれた目が当惑に揺らぎ、薫流の言葉がしみこむにつれ悲哀に歪む。  姉のそれと比べても見劣りせぬ長い睫毛を伏せ、双眸を哀切な光にぬらし、苦渋に満ちて呟く。  「…………姉さんだけだよ、褒めてくれるのは」  認めてくれるのは。  言外の暗喩を悟り、一転薫流の顔が厳しくなる。  当主の母そっくりに態度を厳格に改め、鞭打つように叱咤する。  「見損なわないで」  姉の叱責に応じ静流が気だるく顔を上げる。  苦悩と葛藤の色濃く屈折した翳りを帯びた静流と対座、帯刀の姓に恥じぬ気品漂わせ揃えた膝に手をおく。  凛と背筋を伸ばし顎を引く。  幼い頃から芸事の師匠につき会得した惚れ惚れするような姿勢のよさ。  本家の莞爾は芸事を軟弱と嫌い姉と一緒に舞を嗜む静流を女々しいと唾棄するが、見目のよさと立ち居振る舞いの美しさが完璧に調和した薫流を前にすれば、いかに狭量な伯父とて考えを改めずにはおれない。  一切の虚飾を剥ぐ潔い眼差しが、静流の眼底をまっすぐ貫く。  「私が世辞を言うような人間に見えますか、静流」  厳粛に口調を改め、問う。  静流は魅入られたように姉を見返す。  薫流は瞬きもせず静流を見据え淡々と語り始める。  「帯刀の剣の真髄は静かな水の如く流れる剣、変幻自在に形をかえ成長を続けるなにものにも縛られぬ剣。静流、貴方の剣筋はまさにそれです。帯刀の当主が何代もかけ造り上げた剣筋こそ、あなたが呼吸の自然さで振るう剣。  古来より名は体を現すと言われ、ものを表す名には言霊がやどると信じられてきました。  貴方の名はしずる、静かに流れると書いて静流。帯刀の精神がやどる尊い名です。卑下するのはよしなさい。姉が自信をもって断言します、貴方の剣にこそご先祖様の魂が篭もっていると、貴方こそ帯刀の剣を後世に伝える当主の器にふさわしいと」  一呼吸おき痣も痛々しい手首を一瞥、慈愛に満ちた笑みを広げる。  「下郎に惑わされてはいけません。彼らは清き流れを濁す雑魚です。雑魚の戯言など流しておしまいなさい。貴方の素晴らしさは私が一番よくわかっています。周囲の人間が何を言おうとも気にかけるには値しません。上から見下すことしか知らぬ下種に何がわかりますか、下から仰ぐことしかしらぬ輩に丈を把握できるとでも?ばかばかしい。いい、静流」  挑戦的に目を光らせ、限りない愛情と自負をこめ弟の名を呼ぶ姉は、気高くも美しかった。   「真っ直ぐに見なければ何も見えないのよ。あなたを真っ直ぐに見れない人々は、実はあなたを怖がっているのです。自分が怖れている事に気付きたくなくて、一度真っ直ぐ見てしまえば存在の大きさに圧倒されてると本能でわかっていて、だからこそ上段から見下そうとするのです。決して追い越されない場所から見下ろそうとするのです。それはただの逃げです。怯惰です。正面に立つのをおそれ踏み台に上る連中など放っておきなさい」  高貴な黒髪に縁取られた白い顔が、あどけない童女のそれへと変わる。  『目が節穴なのよ。上から見下ろしてばかりいる連中に貴方の剣が見えるものですか』  愛らしい顔でませた口を利く、在りし日の薫流を思い出す。   『真っ直ぐに見なきゃなにも見えないのよ。見えていても見えないのよ』    『あなたは本当はすごいんだから自信をもちなさい。本家の跡取りなんて目じゃないわ。私にはわかる、水が見える。あなたはすごい才能を持って生まれたの。あなたの振るう剣は水のように自在に形を変える、何物にも縛られず自由に奔放にひるがえり他を圧倒する』  泣いてばかりいる弟に熱心にかき口説き、最後に必ずこういう。  しゃがみこんだ静流の肩に手をかけ視線の高さを合わせ、きっぱりと。  命にかけてそう誓えると、力をこめ。  『あなたは私の誇り、自慢の弟よ』  「……姉さんは変わらない。昔からそうだ。いつだって強引に、僕を立ち直らせる」  降参の溜め息を零す静流の顔は、不思議と晴れやかだった。   格子を挟んでの根競べに勝ったのを潮に薫流が立ち上がり、さりげなく話題を転じる。  「座敷牢の由来を知ってる?」  怪訝な表情で首を傾げる静流を含みありげに見返し、格子に片手を添え身を乗り出す。  上品に袖を摘み静流をさし招き再び顔を寄せるや、歪みを含有した複雑な笑みをちらつかせる。  「帯刀家は昔から外と交わるのを拒み近親婚を繰り返してきたの。そのせいで濃く血が淀み、心身に病を抱えた者が時折生まれるようになってね。精神の畸形故に表に出せないと判断された人達がここに入れられていたの。実際に使われていたのは昭和初期までだって言うけど、どうかしらね」  何故いきなりこんな事を言い出したのだ?  訝る静流に寂寥の笑みを向け、愛しげに朽ちた格子をなでる。  「私も入ろうかしら」  気丈な姉が垣間見せた一瞬の表情に不吉なものを感じ、漠たる不安に苛まれる。  茫洋たる横顔が、心ここにあらずといった眼差しが。  この座敷牢に入りたがっているように見えたのは、錯覚だろうか。  外界との接触を格子に阻まれ隔絶されても、弟の傍らに在りたがっているように見えたのは都合よい解釈だろうか。  真偽の判別がつかぬ静流は曖昧に笑うしかない。  「ふたりが入るには狭すぎるよ」  「冗談よ」  頓着なくあっさり言い、格子から手を放しさばさばと促す。  「そろそろ出る気になった?お母様に申し開きに行くなら付き合うわよ」  「もう暫くここにいるよ。小一時間もたてば母さんの怒りも冷めるだろうし」   「そう」  薫流は反対せず、静流の受け答えを予期していたかの如き淡白さで頷き振袖の筒をさぐる。  取り出されたのは古風な鍵。  年月の荒びを感じさせる重厚な鍵を静流のすぐ目の前、容易に手の届く床におく。  「ここにおいとくわね。出たくなったら勝手に出なさい。貴方の気まぐれに付き合ってあげるほど暇じゃないのよ」  唄うような抑揚の薫流の声を心地よく聞きながら、まどろみをたゆたい目を瞑る。  急に眠気が押し寄せてきた。姉と話して心がほぐれたせいかもしれない。  姉への純粋な感謝を別れの言葉にかえ、静流は告げる。  「顔を見せてくれて嬉しかったよ」  閉じた瞼の向こうに気配をさぐる。  じきに板張りの床が鳴る音が聞こえると予想し、その時を待つ静流の鼻腔を、甘く華やかな香りがふわりとくすぐる。   頬を擦る薄片の柔らかさをいぶかしみ薄目を開ける。  怪訝な表情で薄目を開けた静流は、片側の頬に接する桜の小枝を認める。  格子の隙間からさしのべられた八分咲きの桜の小枝を辿れば、薫流の笑顔に行き当たる。  してやったりと得意満面、稚気閃く媚態を目に宿し嫣然と微笑む。  「さしいれ」  「……やけに甘い匂いがすると思ったら」  「袖に隠して持ってきたの」  「枝を手折ったら可哀想だよ」  「人の腕を折る方がよっぽど可哀想よ。相手が同情に値する場合はね」  静流に小枝を渡し、「それに」と付け加える。   「これは私がやったんじゃないわ、道場の門下生がやったのよ。花泥棒を止めたのは静流、あなたよ」  まったく、姉さんにはかなわない。   弟の正当性を実証するために、わざわざ桜の枝を折るとは抜かりがない。  姉の方が一枚も二枚も上手と改めて確認、感嘆の念を禁じえぬ静流に今度こそ背を向ける。  着物の裾をはしたなく翻さぬよう風雅に去っていく薫流を見送り、あたりにただよう甘い香りを胸一杯吸い込む。  託された桜の小枝からはらりと花弁が舞う。  点々と畳にはりつき、格子をすりぬけ板張りの床にも接吻する可憐な花弁に目をやり、呟く。  「………薫流」  ほっそりした指が唇に触れた慄きを反芻、姉の残り香をもとめ小枝に結ぶ花弁を唇で愛撫する。    『帯刀家は昔から外と交わるのを拒み近親婚を繰り返してきたの。  そのせいで濃く血が淀み、心身に病を抱えた者が時折生まれるようになってね。精神の畸形故に表に出せないと判断された人達がここに入れられていたの。実際に使われていたのは昭和初期までだって言うけど、どうかしらね』  何故突然、あんな事を言い出したのだろう。  『私も入ろうかしら』  あんな哀しい目をしたのだろう。  答えはすぐ近くにある。  近すぎて見えない場所に。  しかし静流は目を閉ざす、目を閉ざし見ないふりをする。  他ならぬ姉の幸せのために、禁忌に踏み込むのを避け、懇々と湧き上がる想いを封じ込める道を選ぶ。  薄暗く侘しい牢に一人きり、愛する人の残り香が咲き初めた桜の香に溶けたゆたう片隅に蹲る静流の脳裏に、詠み人知らずの歌が浮かぶ。  「心ざし 深く染めてし 折りければ 消えあへぬ雪の 花と見ゆらむ……か」  捧げる想いが深いからこそ、消えきらぬ雪が花と見えるのだろうか。     自分は桜ではなく、唇を凍らせる雪に接吻しているのかもしれない。   唇に染みた雪はやがて心をも凍らせ、人間らしいぬくもりを奪い去ってしまうかもしれない。  それでもいい。  それでも構わない。  桜よりなお芳しいあの人の指の味を覚えていられるなら、修羅に堕ちても悔いはない。    座敷牢に咲く一輪の桜に得難き想い人の面影を重ね、静流は目を閉じた。
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