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「はじめまして。須々木(すすき)道哉(みちや)と申します」  ミチは得意の営業用スマイルで、滑舌よく自身の名前を告げた。人間界に来て与えられた仮の名前にはまだ慣れない。でも、相手に不信感を抱かせないようにするために、何度も練習した。  来店客が多く出入りする時間帯を過ぎたレジカウンターの向こう側で、ミチが差し出した名刺を一瞥し小さく舌打ちした青年は、近くにいたパートの女性店員に「休憩いきます」とだけ告げて歩き出した。  郊外にあるドラ|ッグストアは車でのアクセスが容易なため、オープンと同時に多くの買い物客が訪れる。特に午前中は出入りが激しく、業務に追われることが多い。ミチは何度かこの店に足を運んでいた。クライエントである野崎(のざき)英慈(えいじ)の動向を探るためだ。彼がこの店でバイトを始めたのは一年ほど前になる。シフトは週五日。開店時から入る時もあれば、夕方五時から閉店までという時もある。彼は無口で、他のスタッフと業務以外でのコミュニケーションはない。レジでも無表情で黙々と対応するため、客からはいい印象を持たれていない。 「あのっ、野崎さん! ちょっとお話いいですか?」  慌てて英慈を追いかけたミチの声に、一度足を止めて振り返った彼は鋭い眼差しで睨みつけた。 「なんだか知らないけど。興味ないから」  抑揚なくそう言い捨てると、スタッフルームへのドアの向こうに消えていった。ミチは手にしたままの名刺を見つめ、肩で大きく息をした。初めてクライエントと接触する際には、新しいスーツとネクタイを着用するようにしている。ゲンを担ぐわけではないが、いつの頃からかそうするようになった。初めて会う相手に不信感を与えないためという理由もあるが、最期を見届ける使命を今一度自身に言い聞かせるためでもある。輝きを取り戻した魂を抱いて天界に戻る。その時まで、絶対に諦めないと心に誓う。  誰でも初対面の時はミチを不審な目で見る。暴言や暴力は日常茶飯事で、時にストーカーと勘違いされて警察沙汰になったこともあった。それでも、少しずつ相手との距離を縮めていくことは出来る。そうすることで、その人が抱える心の闇を知り、そうなった原因を突き詰め、苦しみや痛みから解放させる。本人も、ミチさえも知らない死までの時間。始めはさっぱりわからなかったが、経験を積んでいくにつれなんとなくそのタイミングが分かるようになってきた。  普段と変わらない生活を送っていても、突然落ち着きを失ったり、焦って何かを済ませようとする。死を目前にした者の足掻きというには誰も気づかない程度の行動ではあるが、その時のミチにはハッキリと見えていた。体の輪郭に沿って淡い光が放たれることを。その光は温かなオレンジ色で、触れると微粒子が零れ落ちる。まるで、その人の命が時間とともに削れていくようで、胸が締めつけられる。それが見えないうちはまだ大丈夫だと確信できる。幸い、今回のクライエントである彼にはその現象は起きていない。ミチは安堵しつつも、どうやって彼に近づこうか思案していた。 「あの……。野崎君に何か御用ですか?」  四十代半ばと思しきパートスタッフの女性が、遠慮がちに声をかけてきた。ミチは慌てて「大丈夫です」と返したが、彼女は不安げな目でスタッフルームのドアを見つめていた。 「どうかしたんですか?」 「初対面のあなたにこんなことを話すのもどうかと思うんだけど……。最近の野崎君、何か思いつめているっていうか……。シフトもかなり無理して詰め込んでるし、何か嫌なことでもあったのかなって。まあ、愛想がないのはここに来た時からなんだけど、以前にも増してって感じで心配してるのよ」 「そうなんですか……。何か、思い当たることってないですか?」  さりげなくミチが話を振ると、彼女は周囲を見回してから声をひそめて言った。 「ここに来る前――二、三年前に幼馴染を事故で亡くしたって聞いたことがあってね。それから酷く落ち込んでるっていう話。あぁ、これは野崎君の家の近所に住んでた人――いや、その人の知り合い? 違った……親戚? から聞いた話なんだけどね」  噂好きな主婦は時に有力な情報を教えてくれる。出所はどうであれ、その人の今までにない表情や行動を見れば誰でも疑念を抱く。時には噂にいろんなものがくっついて、何が真実なのか分からなくなることもあるが、彼女が言ったことはまんざら嘘ではない。これはもうシファから貰ったデータに書かれていたことだったからだ。 「まさかとは思うんだけど……。後追いとか、心配になるでしょ?」 「そうですね……。あ、申し遅れました。私、心理カウンセラーをしております須々木と申します」  今更とは思ったが、ミチは彼女に申し訳なさそうに頭を下げた。こうやって彼女に自身を印象付けることで、彼について新たな情報が入手できるかもしれないと考えたからだ。 「まあ、カウンセラーの方? せっかく話を聞いてくれる人がいるんだから、野崎君も少し素直になった方がいいわよねぇ」 「今日はこれで失礼します。あの……今日、彼は何時まで?」 「えっと、今日は確か五時までだったかな」 「ありがとうございます」  少し幼さを残した顔で嬉しそうに笑みを浮かべたミチを、彼女は茫然と見つめていた。イケメンとは言い難いが、二十五歳という年齢にしては若く見られる童顔のお陰で、年配の女性にはウケがいい。もう一度挨拶したミチの声にハッと我に返った彼女は、わずかに頬を染めていそいそと店内に戻っていった。ミチと話し込んでいたのを店長らしき男性が黙って見ていたことに気づいていたが、彼女を注意するでもなく素通りしていった。  店を出たミチは、スマートフォンで時間を確認した。彼の終業までにはかなりの時間がある。あまり強引に攻め込んでも、相手は委縮してしまうばかりで、逆に心を閉ざしてしまう。そうなると、抱えている闇の真相に追いつけないばかりか、洗濯のタイミングを逃してしまうことになる。  しかし、彼の様子を見たミチは不安を隠せなかった。もし、さっきの女性スタッフの話が本当だとすれば、亡くなった幼馴染のあとを追って自|死しかねない。決意した時点で、下級悪魔が早々に目をつけるに決まっている。そうなると少々厄介だ。悪魔から引き離すのには、かなりの時間を要するからだ。そうしている間にも、彼の死期は確実に近づいていく。心に巣食った闇は、放っておけば時間とともに浸食する。その深度が大きければ大きいほど仕事の難易度が上がる。しかも、彼は天界上層部から依頼された『特別』な存在だ。その彼の魂を易々と悪魔に渡してなるものか。  ミチは空を仰いで小さくため息をついた。雲が風に流されていく。それとともに太陽が隠れ、あたりが薄暗くなってきた。天気予報では曇りとなっていたが、ミチは風にのって流れてきた湿った匂いに気づいていた。 「雨か……」  いくら天使でも気象をコントロールすることは出来ない。それが成せるのは天界庁上層部に属する大天使だけだ。しかも天界を離れ人間界にいる今、ミチに与えられた力は半減もしくはそれ以下になってしまい、満足に使うことは出来ない。もちろん、翼は完全に封印されてしまう。  今にも泣き出しそうな空。生憎、傘は持ち合わせていない。近くのコンビニで買おうかと考えたが、英慈の仕事が終わるまではもつだろうと一か八かの賭けに出た。周囲を見回すと、ドラ|ッグストアの裏手に小さな公園があることに気づいた。そこに向かったミチは、遊具の陰に木製のベンチを見つけ、ゆっくりと腰を下ろした。ここからなら、フェンス越しにスタッフの通用口が見える。英慈が出てきたらすぐに向かうことも可能だ。  ミチは脚を組んで、ぼんやりと遊具の一点を見つめていた。夏の訪れを告げる蝉の声が響いている。気温はまだそう高くはないが、昼を過ぎた時間帯ともあって、公園で遊ぶ親子の姿は見えない。湿り気を含んだ風が木々を揺らす。ミチは人間界に来るたびに思うことがあった。天界には四季がない。でも、ミチが人間であった時、間違いなくこの風や太陽、雪や雨を身近に感じ、その度に一喜一憂していたと思うと感慨深い。どんな人と暮らし、どんな人と出会い、そして、誰を愛していたのだろう。  人は死を迎えると、その記憶は失われてしまう。稀に、前世の記憶を持ったまま天使になる者もいると聞くが、天界庁別館に設けられた場所に隔離されていると聞く。天界に住まう者の秩序を守るためだというが、その記憶を持っていることで一体何が起こるというのだろう。現にこうやって、何人もの天使が人間界に派遣され、人間と接触している。文化や教養、使用している機器も人間界のそれに倣っているのが現状だ。それでも守らなければならない大切なものとは一体何なのだろうか。  久しぶりに訪れた一人の時間。つい最近まで一緒だったクライエントの女性は「一人で死ぬのは寂しい」と別れ際になってもミチの手を掴んだまま離さなかった。その四日後、彼女の魂はミチの手によって天界に運ばれた。今はまだ保管室で眠っている。それが目覚めた時、彼女が担うのは天界庁直属機関での仕事。彼女もまた『特別』なクライエントだった。  ミチの前髪を一段と冷えた風が揺らした。雨が確実に近づいている。それでもミチはその場を動かなかった。さっき、レジカウンターを挟んで英慈と向き合った時、緊張とはまるで違う感情が動いたことに気づいた。こんなことはあり得ないのだが、心がむず痒いというか……何ともいえない感情が湧きあがっていた。  彼に会うのは初めてで、もちろん話したことなど一度もない。それなのに、どこかで会ったような気がしてならないのだ。でも、いくら思い出そうとしてもミチの記憶に英慈は存在しなかった。 「不思議な感じだったなぁ……」  首を傾けて、無表情だった彼の顔を思い出す。自力では見つけ出すことが出来ない、小さな小さな棘が刺さっているようでどうも落ち着かない。  そうこうしているうちに、ミチの肩に小さな滴が落ちてきた。その粒は数を増し、大きさを増していく。砂場の窪みにみるみる溜まっていく水面に雨がいくつも波紋を広げる。透明のはずの水がどす黒く濁っていく。そして、そこから例えようのない負が立ち上り、ミチを誘うように闇が広がっていく。その恐怖に体が竦む。何度も首を振り、自身を抱きしめるように回した腕に爪を立てた。それをぼんやりと見つめていたミチは、背筋にゾクリと冷たいものを感じて勢いよく顔をあげた。  その時、ミチの肩にポタリと雨粒が落ちてきた。白昼夢――いくらぼんやりしていたとはいえ、こんなことは初めてだった。小さな滴は次第に大きくなり数を増していく。雨脚が強くなり始めた時、スタッフ通用口から声が聞こえた。その声に気づいたミチは、前髪から次々と落ちる水滴に自身がかなり濡れていることを知った。弾かれるように立ち上がって振り返る。フェンス越しに英慈の背中を見つけたミチは、迷うことなく走り出していた。  ***** 「うわぁ、またゲリラ豪雨! 野崎君、車で駅まで送ろうか?」  スタッフ通用口の軒下で、英慈とともに仕事を終えて出てきた女性が心配そうに彼を見上げている。しかし、彼は小さく首を振っただけだった。 「じゃあ、気をつけてね。お疲れさまっ」  彼のすぐ横で咲いた赤い傘が駐車場へと動いていく。ミチは彼女が離れたタイミングを見計らい、英慈に近づいた。彼女の申し出を断ってみたものの、どうしようかと思案している様子。そんな彼の前に立ったミチは笑顔で「お疲れさま」と言った。突然のミチの登場にわずかに瞠目した英慈はしばらく動きを止めた。  土砂降りの雨の中、傘もささずに佇んでいるスーツ姿のミチは、誰の目にも異様に見えた。すぐそばにある軒下に駆け込むこともせず、自身が濡れている状況に慌てる様子もない。ただ、真っ直ぐに英慈を見つめているだけだ。 「――少し、お話をさせてください」  明るい栗色の髪から滴が落ちる。ぐっしょりと濡れたスーツはすっかり色が変わっている。その姿を凝視していた英慈は耐えきれなくなったようにミチからすっと視線を逸らした。 「話すことなんて何もない。ってか、お前……何なんだよ」 「セールスとか勧誘とか……そんなんじゃありません。ただ、あなたの心の傷を癒したいだけなんです」 「は?」 「――って、どう見ても怪しいですよね? 初めて会う方のほとんどが同じリアクションをされます」  苦笑いを浮かべたミチは、上着の内ポケットから名刺を取り出して、それを英慈に差し出した。上質な紙の上を滑るように雨の滴が流れていく。英慈が受け取るまで根気強く待っていると、彼の長い指が恐る恐る動いた。そこに印刷されていた文字を目で追う彼を、ミチは微笑んだまま見つめていた。  わずかに伏せられた瞼を縁取る長い睫毛、高い鼻梁、きつく閉じられたままの薄い唇。端正な顔立ちを引き立てる黒髪が彼の誠実さを表していた。店内では気づかなかったことが、情報となってミチの中に入り込んで来る。 「ダズル……ランドリーサービス? クリーニング屋か?」 「まあ、そのようなものです。でも、ハウスクリーニングや衣類を扱うものではありません」 「じゃあ、何を洗濯するの?」  訝しげに視線を上げた英慈だったが、濡れることも構うことなく真っ直ぐに自身を見つめているミチに、大仰なため息をついて見せた。 「――そこまでして仕事が欲しいわけ? どんだけ社畜? ブラックな会社ならさっさと辞めた方がいい……」 「あなたを助けたい。抱えている苦しみを……消してあげたい」  ミチの言葉に、英慈が小さく息を呑んだのが分かった。しかし、すぐに無表情になると抑揚なく吐き捨てるように言った。 「それって宗教? ヒーリング系の勧誘じゃないの? 俺、そういうの全然興味ないから」  立ち尽くしているミチを押し退けるように歩き出した英慈だったが、ふと足を止めた。そして、くるりと向きを変え通用口のドアを開けると、すぐそばにあったのか透明な傘を手に取った。それをミチに黙ったまま差し出した。 「風邪ひくよ。これ、使っていいから」 「え? あの……あなたは?」  戸惑うミチに、英慈は顔を背けたまま言った。その声は小さく、雨の音にかき消されそうなほど不明瞭だったが、ミチにはハッキリ聞こえていた。 「俺は大丈夫……だから」  俯いた彼の口元に浮かんだ自嘲気味な笑み。それを見逃さなかったミチは傘を持つ彼の手を咄嗟に掴んでいた。 「大丈夫じゃない! 大丈夫なんかじゃ……ないでしょっ」  節のある長い指。雨で濡れ、冷えた大きな彼の手から伝わるのは、いたる所に傷を負った煤汚れた魂の嘆きだった。もとは美しく輝いていたはずの魂が悲しみに溢れ、自ら闇に堕ちようとしている。わずかに触れただけでここまで分かるのは、初めてのことだった。ミチは苦しげに眉を寄せ、英慈を見上げて言った。 「俺が……責任を持って、洗濯します。あなたの……魂を」 「え……」 「だから、少しの間でいい。俺を……あなたのそばにいさせてください」  傘を持つ彼の手がピクリと動いた。その手を上から力強く握りしめたミチは、溢れる涙を止めることが出来なかった。  どうして……彼は、こんなに傷ついた魂を隠そうとするのだろう。どうして……そんなに悲しげな目で見るのだろう。  いつ悪魔に魅入られてもおかしくない状態になっているのはすぐに分かった。これ以上、放っておくわけにはいかない。それはプロの洗濯屋としてのプライドもあったが、それ以上に仕事という概念を超えた彼を救いたいという思いがミチを突き動かしていた。 「――お前に何が分かる。他人のお前に……何が分かるって言うんだよ」 「分かりません。その痛みも傷も……当事者にしか分からないことは百も承知です! それでもっ。あなたに手を差し伸べることぐらいは出来る。俺は……黙って見過ごすことが出来ない性分なんです」  ドラッ|グストアに訪れた客が不思議そうな目で二人のやり取りに目を向ける。しかし、雨に追われるようにすぐに店内へと駆け込んでいく。他の人間には見えない。英慈が抱える深い悲しみを目の当たりにしたミチは、その場から動くことが出来なくなっていた。掴んでいたミチの手を振りほどくように英慈の手が離れていく。その瞬間、ミチの体に流れ込んでいた温もりが途絶えた。 「――性分て。そんなんで、人間……誰でも救えると思うなよ」  英慈はボソリと吐き捨てると、ミチに背中を向けた。そして、それ以上何も言うことなく降りしきる雨に向かい走り出していた。 「野崎さんっ」  ミチの声が一際強くなった雨音にかき消される。本来であれば彼に差し掛けなければいけない傘を持ったままの自分の至らなさに腹が立つ。自分はもう嫌というほど濡れている。さらに濡れたところで状況は変わらない。それならばせめて、冷たい雨とともに流れる彼の涙を受け止めることが出来たなら……。  彼に渡された透明のビニール傘。決して上質なものではないが、そのハンドルには彼の優しさが溢れていた。 「どうして……彼が苦しまなきゃ、ならない? あんなにも……温かいのに」  初めて彼の魂に触れたミチは、自身の胸が強く締め付けられるのを感じた。胸が痛い。息が出来ない。今までに出逢ったクライエントに、これほど心を揺さぶられたことがあっただろうか。  仕事は仕事。私情は持ち込まない。そう割り切ってきたミチだったが、野崎英慈という男に対してはその強い意思も簡単に覆されそうで怖かった。今回は、天使になって初めて経験することばかりだ。シファが「ちょっと頑張ってもらわないといけないかも」と言った意味が少し分かったような気がした。  今まで通り、何もかもが上手くいくとは限らない。時間はこうしている間にも確実に過ぎていく。ミチは傘を胸に抱きしめたまま薄い唇を噛みしめ、もう見えなくなってしまった英慈の面影をいつまでも追い続けていた。  *****  あの日から、ミチは英慈を知ることに躍起になった。彼の前に姿を現すことを極力避け、遠くから彼の日常を見守る日が多くなった。  彼は、幼いころから住んでいた街を離れ、今は郊外の築十年のマンションで一人暮らし。両親も遠方に移り住み、連絡はほとんどとっていない。マンション近くのコンビニの常連であるにも関わらず、店のスタッフと馴れ合うことはないようだ。バイト先のドラ|ッグストアへは、最寄りの駅から電車を利用して通勤している。バイトが終わればマンションにまっすぐ帰る。特定の友人もなく、誰かと連れ立って出かけることも、酒を飲みに行くこともない。  ミチは、情報が書き込まれたタブレットの画面から顔をあげると小さく吐息した。二十六歳にしては地味すぎる――と言っては失礼だが、彼の日常は至ってフツーで、危うい気配がまったく感じられない。あの雨の日にミチが感じたのは一体何だったのか。内に秘めた悲壮感を表に出さないだけなのだろうか。それにしても、相変わらず無表情で愛想はない。同性であるミチが見ても整った顔立ちをしている彼。彼女がいてもおかしくないと思うのだが、その気配すら皆無だ。 「三年前に幼馴染を事故で亡くしている……。それまでは今とは違う『フツー』の生活を送っていた……」  英慈のバイト先にほど近い駅前通り沿いのオープンカフェ。歩道に面した場所に置かれたテーブルで一人難しい顔をしていたミチは、シファから送られたデータを読み返していた。そこには英慈に関してのパーソナルデータしか記載されていない。通常ならば、どういった経緯で今に至る――という詳細が記されているが、今回はそれがない。何度見ても、その内容は変わることはなかった。シファに問いただしても「それだけだよ」というばかりで埒が明かない。限られた時間内に経緯を調べ、それをもとにどうすれば最善かを導き出し、何があっても彼の命が尽きるまでに洗濯を終えなければならない。その焦りに後押しされるように、ミチは彼に関する情報を集めていた。  彼が以前住んでいた街に出向き、幼い頃の彼を知る人物にそれとなく話を聞いた。そこで、三年前に起きた事故をきっかけに、彼がこの土地を離れたことを知った。地元の図書館で、当時の事故の記事が掲載された新聞を読んだ。当時二十二歳の大学生だった寺坂(てらさか)真路(まさみち)は、不慮の事故により公園の池で亡くなった。溺れたと通報があってから三日後、捜索していた捜査員に水底に沈んでいるところを発見された。目立った外傷はなく、水死と判定。彼は英慈の幼馴染で、幼いころから両親ともに付き合いがあり仲が良かった。  事故が起きた日、英慈は真路と行動を共にしていたことが分かっている。そして、溺れたと通報したのも彼だ。警察は事故と事件、両面から捜査を進め、一時は英慈を疑っていたようだったがその疑念はすぐに晴れた。池に落ちた真路を必死に助けようとしていた彼の姿を、周囲にいた何人もの人たちが目撃していたからだ。声を限りに叫びながら手を差し伸べる英慈の姿が目に浮かぶ。すぐそばで幼馴染が池に沈んでいく様を目の当たりにした彼の気持ちを考えると居たたまれない。  その日を境に英慈の様子が急変した。明るく快活だった彼が無口になり、その表情は沈んだままになった。入社したばかりの会社も辞め、家に引きこもりがちになった彼は長年住んでいた家を出た。間もなくして彼の両親も引っ越したようだ。真路の家族はまだそこに住んでいるが、一人息子だった彼を亡くした両親のショックは大きかったようで、近所付き合いもなく他人の目を避けるようにひっそりと暮らしている。  人の命は儚く、あとに残された者たちが負う心の傷は深い。時が忘れさせてくれるなどというのは、本当は慰めにもならない。つい数時間前まで息をして笑いながら話をしていた者が、突然ただの骸になってしまうことを素直に受け入れることが出来るかといえば、それは否だ。  でも、英慈から感じられたのは、ただ何かを失ったという漠然とした悲しみだけではなかった。強烈な虚無感や痛みとともにやり場のない苦しみを背負っている。まるで、犯した罪を償うかのように毎日を淡々と生きている。  そんな彼の命の期限が近づいている。こんな場所でのんびりとコーヒーを飲んでいる暇などない。でも、焦って行動すれば、彼に警戒され距離が離れていく。 「どうすればいい……。あぁ……焦るな、焦るなっ」  そう口にするたびに落ち着くどころか逆に焦りが増す。今まで担当した依頼がたまたま順調に運んだせいか、はたまた完璧に仕事をこなせるという自身の奢りがそうさせているのか……。ミチは、自身を落ち着かせるように氷がすっかり融けてしまったアイスコーヒーを口に運んだ。その時、視線の端に入った道路の反対側を歩く青年の姿に、危うくグラスを落としそうになった。 「野崎さん……?」  ミチは腕時計と彼の姿を交互に見つめた。間もなく午後三時になろうとしている。バイトを終えて帰宅するにはかなり時間が早い。パートスタッフの話では、今週は夜までシフトが組まれていたはずだ。慌ててタブレットを小脇に抱え、席を立ったミチは彼のあとを追いかけた。  細身のデニムにシンプルなシャツを合わせ、肩にはスクエアリュックを掛けている。普段と別段変わらず無表情で歩く彼だったが、駅前のとある店の前で足を止めると、躊躇なく重そうな扉を開けた。その店は外観からしてかなり古くからその場所にあるようだ。ミチは店の看板を見上げ、首をわずかに傾けた。 (あれ……? 見たことがある)  古びた看板。文字は掠れ、汚れも酷い。かろうじて、そこが洋菓子店であることが分かる。歩道に面したガラス窓から中を覗き込むと、奥のテーブルに腰かける英慈の姿が見えた。誰かと待ち合わせかと思い、慌てて店に足を踏み入れた。洋菓子の販売だけでなく、喫茶スペースもある小ぢんまりとした店だ。 「いらっしゃいませ。こちらでお召し上がりですか?」  愛らしい声で問うスタッフの声に、英慈が気づくのではないかとヒヤヒヤしながら曖昧に頷く。すると、奥のテーブルへと案内された。英慈の姿が見える場所であったが、そこに置かれていた観葉植物の鉢のお陰で、彼の方からはミチの方は見えづらくなっている。ミチはホッと胸を撫で下ろした。  店の中は薄暗く、年代を感じさせる。流行に合わせ、あえてレトロな雰囲気を演出しているカフェとは違う。昔からこの場所にあるという揺るぎない主張は半端ない。でも、穏やかで静かな空気が流れているのが分かる。ショーケースに並ぶケーキも流行を追いかけていない。だが、どれを選んでもハズレはないと思わせる。 「ご注文はお決まりですか?」  スタッフの声に、ミチは英慈の方をチラリと見て「あの人と同じものを」とオーダーした。一瞬、不思議そうな顔をした彼女だったが、「かしこまりました」とすぐに笑顔を見せた。  しばらくしてテーブルに運ばれてきたのは、この店オリジナルのブレンドコーヒーと、シンプルなシフォンケーキだった。気温が高いこの時期に好んでホットコーヒーを飲む者はいるが、英慈も彼らと同じ拘りを持っているのだろか。 「あの、これって……。皆さん、よく頼まれるんですか?」  ミチの問いかけに少し考えるような素振りを見せた彼女は、チラッと英慈の方を見て言った。 「あの方、以前はお友達とよく一緒にいらしてたんですよ。でも、二年くらい前から一人で来られるようになって……。お聞きしたら、亡くなったお友達の供養に来てるんだって」 「供養……」 「月に一度、いらしてますよ。そして、毎回同じものをオーダーされます。お友達が大好きだったメニューらしいです」  そう言って去って行った彼女の背中を見送った後で、ミチはコーヒーのカップを口に運んだ。先ほどのオープンカフェで飲んだコーヒーとはまるで違う。香りもさることながら味に深みがあり、飲んだ後に舌に残るわずかな苦みが心地いい。 (あれ……? これ、どこかで飲んだ味がする)  この店の看板を見た時と同じ感覚に、ミチの動きが止まった。この店の存在を知ったのは、ついさっきのことだ。まして、ここのコーヒーを飲んだのも然り。それなのに、懐かしい気持ちが蘇ってくる。  古い物が置かれた店内を見回し、レジカウンターの脇にある黒い置時計に目が留まる。振り子式のかなり古い物であるが、ミチの記憶に訴えかけるものがある。でも、それが何なのか分からない。  既視感――? 初めて来る場所なのに、前にも来たことがあるように錯覚する。  英慈を見ると、黙々とシフォンケーキを口に運んでいるが、どこか懐かしさを感じる。一口食べるたびに、それを流し込むようにコーヒーを飲む。その姿はまるで、苦手な甘い物を我慢して食べているかのようにも見える。ミチもシフォンケーキを口に運んだ。舌にのせた瞬間、程よい甘さが広がり何とも幸せな気持ちになっていく。 「美味しい……」  思わずつぶやいて、慌てて口を噤んだ。甘い物に目がないシファが知ったら、毎回買ってこいと催促されるに違いない。この店のことは絶対に黙っておこうと心に決め、味わいながら口に運んだ。食べ物でこんなに心が潤うことがあるのかと思うほど、ミチは満たされていた。それと同時に、何ともいえない物足りなさに気づく。それは、観葉植物を隔てて座る英慈も同じだった。何度もテーブルの向かい側を見てはため息をつく。そこにあったはずの存在がない現実を突きつけられているようで、見ているミチの方が苦しくなってくる。誰もいない席に英慈が見ていたのは、真路の幻影なのかもしれない。  食べてはため息を吐くことを何度か繰り返して、力なく自嘲気味に笑う英慈。彼にとって真路はただの幼馴染ではなかった――そう垣間見えるその姿に、ミチは急に切なさを覚えた。  コーヒーを飲み干して、静かに席を立つ。ミチは、英慈に気づかれないように会計を済ませると、足早に店を出た。少し歩いたところで振り返り、古い看板を見上げる。スマートフォンを取り出し、その店にカメラを向けてシャッターを切った。  初めてなのに初めてじゃない感覚。人間であった時の記憶はない。それなのに、この店の同じ空間に英慈といることが当たり前のように思えてならない。この店独特の雰囲気がそう思わせたのか……。人の記憶は些細なことで蘇ることが多い。それは感触であったり、匂いであったり。でも、決定的なことは何一つ思い出せない。看板に書かれた『repos《レポス》』はフランス語で安らぎを意味する。英慈はこの場所で、真路と何を語っていたのだろう。ミチはそこから目を逸らすように歩き出した。タブレットを握る手がわずかに汗ばんでいる。今日はそれほど気温は高くない。その理由が何なのか、ミチにはまだ分からなかった。
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