【3】

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「単刀直入にお聞きします……」  ミチは英慈のバイトが終わる時間を見計らい、通用口から出てきた彼に突撃した。  あの雨の日から英慈の前に姿を見せることのなかったミチだったが、いろいろ悩んでいても仕方がないと思い切った行動に打って出た。突然行く手を塞ぐように立ち尽くすミチに驚いた英慈はわずかに瞠目したが、すぐに冷静さを取り戻すとあの日と同じように手で押し退けた。 「いい加減にしろ。ストーカーだって通報するぞ」 「どうぞご自由に」  広い歩幅で歩く英慈から離れまいと、ミチもそのあとを必死に追いかけた。脅しのつもりで投げかけた言葉のようだが、ミチは平然と食い下がった。 「勧誘なら他を当たれ」 「勧誘じゃないって言ってるじゃないですかっ。あなたに……聞きたいことが、あるんです」 「俺は忙しい」 「コンビニに寄って、マンションに帰って寝るだけのクセに……」  息を切らしながら言うミチに、英慈は腹立たしげに大仰なため息をついて見せた。それでも、歩く速度は落とさない。 「やっぱり、ストーカーじゃないか。お前、俺のことを調べて何をするつもりだ? あまりしつこいと、マジで訴えるぞっ」  語尾を強めて言う英慈は振り向こうともしない。ミチは、彼の広い背中を睨みつけ、すぅっと息を吸い込んだ。 「――寺坂真路さんって、ご存知ですよね?」  ふと、英慈の足が止まる。早い速度で歩いていたせいで、そのすぐ後ろを歩いていたミチが彼の背中にぶつかった。 「いてっ。急に止まらないでください」  唇を尖らせて毒づいたミチを振り返ることなく、英慈は黙ったまま俯いた。歩道を歩く人たちが「邪魔だ」と言いたげに英慈を睨んでは追い越していく。しばらくして、獣の呻き声にも似た掠れた声が英慈から聞こえてきた。 「――知らない」  体の脇に下ろされた手をギュッと握りしめ、英慈は苦しげに肩を上下させた。ミチは、彼の後ろに立ったまま続けて言った。 「嘘、つかないでください」  その瞬間、英慈が物凄い勢いで振り返り、ミチの胸ぐらを掴みあげた。その顔は怒りの様相ではあったが、眉間に深く刻まれた皺がミチにはどこか悲しげに見えた。 「知らないって言ってんだろ! お前……一体何者なんだ? 俺のことコソコソ調べて、何をしようとしてる?」  彼の指先から憤怒の情が窺える。でも、ミチの体に入り込んできたのは耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫びだった。真路の名を耳にした瞬間から、英慈が纏う空気がガラリと変わった。でも、そこには憎悪や恨みの念は感じられない。触れているわけでもない。ただ近くにいるだけなのに、ミチの肌がピリピリするほどの痛みが断続的に続いていた。  英慈の大声に驚いた通行人が、ギョッとした顔で振り返る。関わらないようにと遠巻きに見る者や、歩道の端に避けて素通りしていく者もいる。それでもミチは怯むことなく彼を見上げた。 「亡くなった者が一番悲しむこと。それは、その存在を忘れ去られることだと言います」  ミチの言葉に、グッと息を呑んだ英慈は言葉に詰まったように黙り込んだ。胸ぐらを掴んだ手がだんだんと緩んでいくのが分かる。ミチは、彼の手の上に自身の手を重ねた。 「知らないなんて言わないでください。真路さんが勘違いしたらどうするんですか? 忘れてなんかいないですよね? この場で訂正してください」  畳みかけるようなミチの言葉に、英慈は俯いたままその動きを止めた。指先が微かに震えている。それに気づいたミチは、彼の指先をキュッと握りしめた。先ほどの怒りはもうどこにも感じられない。しかし、次の瞬間怒濤のように溢れ出したのは、胸が苦しくなるような悲しみだった。その痛みをまともに感じ取ったミチは、目の前がぐらりと揺らぐのが分かった。 「――訂正すれば、アイツは帰ってくるのか? 謝れば……生き返るのか?」 「野崎、さん……」 「帰ってこないだろ……。アイツはもう、この世にいない。会うことも……叶わない」  彼の手から力が抜け、ミチのシャツを滑り落ちるように下ろされる。俯いた彼の頬を幾筋もの涙が伝い落ちた。いくら幼いころから慣れ親しんだ仲とはいえ、二十も半ばを超えた男性が亡くなって三年が経つ相手に対し、これほどの想いを寄せるというのは普通では考えられない。ミチの中で、一般的な『幼馴染』という枠で括られた関係がまるで別のモノにすり替わった気がした。ただの思い過ごしかもしれない。その可能性も考え、ミチは言葉を選ぶように紡いだ。 「お話を聞かせてもらえませんか? 彼のことも含めて、あなたの全部を知りたい……」  ミチの言葉に、のそりと顔をあげた英慈は乱れた前髪の奥から鋭い眼差しを向けた。涙に濡れ、赤く充血したそれは獣の目に良く似ていた。 「聞いてどうする? お前は……アイツを生き返らせることが出来るっていうのか」 「出来ません。神様でも、それは出来ない。でも――彼の代わりに、遺された者の魂を救うことは出来ます」  真剣な表情を崩すことなくそう告げたミチを一瞥した英慈は、彼の視線から逃れるように背を向けて吐き捨てるように言った。 「魂が救われたからって、何が変わるわけじゃない。アイツがいなきゃ、意味がないんだよ……」  手の甲で乱暴に涙を拭い歩き出した英慈に、ミチは何かを振り切るように声をあげた。 「それが俺の仕事なんです!」  何度拒まれても構わない。その仕事を認められなくても、今までやってきたことに間違いはない。だから、今度も上手くいく……。 「俺に任せてもらえませんか……。必ず……真路さんのそばに……」  足早に去っていく英慈に、ミチの声はもう届いていなかった。それでも、ミチは声を震わせて言った。 「約束します……。必ず……必ず……」  死者の魂を管理するのは天界庁総括管理部の仕事だ。下っ端天使の私情でどうこう出来るものではない。それでもミチは何とかして真路の魂を見つけ出し、これから天界に向かおうとしている英慈の魂とめぐり合わせたかった。そうするには、英慈の魂をもとの清らかな状態に戻さなければならない。そもそも、それがミチに課せられた使命だ。  魂の洗濯屋はそれ以上でも以下でもない。ただ、クライエントの命の期限までに命じられた依頼を全うし、上層部へ無事に魂を届けることのみ。その使命を忘れたわけではない。でも、英慈のとてつもない悲しみを目の当たりにしたミチにとって、仕事だと割り切ることがどうでもいいことのように思えて仕方がない。  出来ない約束はしない方がいい。でも、そうでもしなければ英慈の心を開くことは出来ないだろう。人ごみの中に消えていく英慈の背中を見送るミチの視界が涙で滲んでいく。出逢ったばかりのクライエントに対して、これほど強い思いを持ったことがあっただろうか。  上層部がいう『特別な存在』。天使であるミチの魂をも揺さぶる英慈の魂とは……一体どれほどのものなのだろう。もっと触れてみたい。でも、触れてしまったら後戻りは出来なくなる。紙一重の感情を胸にしまいつつ、ミチはいつまでもその場所に立ち尽くしたまま動くことが出来なくなっていた。  *****  その日、英慈はバイト先とはまるで違う方向へ向かう路線の電車に乗っていた。細身のデニムにシャツという格好はいつもと変わらない。肩にかけているスクエアリュックも同じだ。でも、今日の彼は何かが違っていた。違和感を感じたミチはさっそく彼を追いかけた。いくつか電車を乗り継いだ彼が降り立った駅は、以前ミチが英慈のことを調べるために訪れた街だった。彼が生まれ、三年前まで住んでいた街。そして、辛い思い出が残る場所だった。  駅のロータリーを横切り、慣れたように歩く彼の足取りに迷いはない。途中、フラワーショップに寄り、そこで小さな花束を作ってもらうと、それを大事そうに抱えて歩き続けた。真路の墓はこの街にある。墓参りにでも行くのかと思いきや、英慈は街のほぼ中央にある大きな公園へと向かった。鮮やかな緑に囲まれた公園は、整備がなされ平日でも親子連れが多く訪れる。駐車場も完備されているため、遠方から癒しを求めて来る者も多いと聞く。白い玉砂利を敷き詰めた遊歩道をゆっくりと進み、公園のシンボルともいわれる池の畔に立った英慈は、懐かしむように暫くの間、ただただ遠くを見つめていた。眩い太陽の光を反射する水面が波打つたびにキラキラと輝く。湿気を含んだ風が池の表面を滑るように吹き抜けた時、彼はその場に崩れるように膝をついた。そして、手にしていた花束を池に投げ入れると、両手を地面についたまま項垂れた。 「ごめん……。ごめん……。何度謝っても足りない……」  離れた場所で英慈の様子を窺っていたミチにも、彼の声は届いていた。鳥の囀りと、風に煽られた木々が揺れる音、遠くでは子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。池の周囲にはブロンズ色の柵が設置され、安全面でも対策がなされている。これは五年前に、街の都市景観計画の一環として安全性を考慮した『住み良い街・公園づくり』と題し、周囲の環境整備とともに設けられた物だ。こんな場所でなぜ、あんな事故が起きたのか。ミチは不思議で仕方がなかった。柵の高さも、大人が意図を持って乗り越えようとしない限り、迂闊に落ちる高さではない。不慮の事故とはいうが、未だに疑問視する者もいる。  午後の日差しを浴びる池の水面は藻が発生し、所々黒く変色している部分がある。水中は昼間でも光を通すことがなく薄暗いという。すり鉢形状の池は、一番深い場所で八メートル以上ある。その水底――ほとんど光を通さない闇の中に沈んでいた真路のことを思うとミチも心が痛んだ。 「ど……して、助けてやれなかったんだろ。あの時、もう少し手を伸ばして……お前の手を掴んでいれば……っ」  黒い水しぶきが激しく飛び散り、その中心で必死に手を伸ばす青年の姿が見える。互いの指先がわずかに触れるが、英慈の手を掠めるように離れていく。普段は静かな池が魔物のように彼を呑み込んでいく。最期を悟った虚ろな目。そして、震える唇で必死に何かを伝えようとする。 『真路――っ!』  英慈の声が聞こえる。その声に応えるように彼の名を呼ぶ真路の顔が水に沈んだ。大量に流れ込んでくる泥水が真路の気管を侵していく。息が出来ない。でも――どうしても伝えなければいけないことが……ある。  真路の薄い唇がわずかに動いた。その瞬間、視界は闇に閉ざされ、英慈の声も聞こえなくなっていた――。 「――っはぁ!」  ミチは、今まで息が止まっていたことに気づかずにいた。あの夢を見た後のような息苦しさに体を前に屈めたまま肩を上下させ、荒い息を繰り返した。 (また、白昼夢か……)  濁った水の感触、失われていく視界、動かない体が深い闇に沈んでいく速度が生々しい。英慈と接触することが決まってから、同じような夢を何度も見るようになった。真路の事故を知り、それは回を重ねるごとにリアリティを増し、密かにミチを苦しめていた。いくら天使でも、もうこの世にはいない死者とシンクロすることはあり得ない。魂は体と切り離され天界で保管されている。記憶も抹消され、生前に経験した嬉しかったこと、楽しかったことも含め、身に起こった忌々しい出来事はすべてリセットされる。  自|死の場合、その場に残留思念として魂の破片が残されることがあるが、この池の周囲にはそういった類のものの存在は確認できない。  ミチは胸元を押さえながら、ゆっくりと体を起こした。地面の砂を握りしめたまま泣き続ける英慈の背中がやけに小さく見える。その人の生死に関わらず――大切な人の前では無力なのだと思い知らされる。こういう場面を今までに何度も見てきたミチだったが、その度に胸が締めつけられ、まるで自分のことのように息が苦しくなる。シファが言うには、ミチはそういう魂に影響されやすい体質なのだそうだ。  少々過呼吸気味だったミチは、数回深呼吸を繰り返した。肺を埋め尽くしていた異物がなくなり、呼吸がスムーズに出来るようになるとホッと胸を撫で下ろした。そして、先ほどまで動かなかった足を前に踏み出すと、英慈の元へとゆっくりと近づいていった。  小さく見えていた背中が、近づくにつれもとの大きさに戻っていく。背中を小刻みに震わせて嗚咽を堪えている彼の後ろに立ったミチは、落ち着いた口調で言った。 「――逢いたいですか? 真路さんに……」  不意に背後から落ちてきた声に、焦ったように振り返った英慈は瞠目したままミチを凝視した。すべてを見られていたかもしれないという焦りと、憔悴が入り混じった複雑な顔をしている。 「逢いたいですか?」  もう一度ミチが問うと、英慈は小馬鹿にしたように鼻で笑った。 「逢えるわけないだろ。アイツは死んだんだぞ。バ|カなことを言うな……」 「この世界で……とは言ってません。彼に対するあなたの想いに嘘偽りがなければ、この次の世界で逢えますよ」 「次の世界?」 「そのためには、あなたの魂をキレイにする必要があります。俺はその役目を担っている……」  ミチは、スーツの上着のポケットからもう一度名刺を取り出すと、英慈の目の前に差し出した。そして、得意の営業スマイルを浮かべると、声高々に言った。 「魂の洗濯屋。ダズルランドリーサービスの須々木――いや、天界から派遣されましたミチと申します。こう見えて一応天使なんで、お手柔らかに」 「は? て……天使?」  英慈がポカンと口を開けたまま、呆然とミチを見つめたのは無理もない。あまりにも突拍子のない自己紹介に、怒るよりも呆れてしまったと言った方がいいだろう。しかしその直後、英慈は急に真剣な表情になり、ゆっくりと立ち上がった。そして、自分よりも少し背の低いミチを見つめ、重々しく口を開いた。 「お前の言っていることが本当だとしたら、俺はもう……そう長くはないってことなんだろ?」  ミチは少し俯いてから、小さく首を縦に振った。こんなことは言いたくない。しかし、いつかは告げなければいけない日が来る。それが早いか遅いかだけの違いだ。 「――いつなんだ?」 「それは俺にも分かりません」 「なんだよそれ……」  英慈は少しの間何かを考えていたようだったが、柵の手摺に手をかけると小さく鼻を啜りあげた。 「――ここには二度と来ないはずだった。お前から、アイツの名前を聞くまで……絶対に来ないって、心に決めてたのに」  午後の日差しが照りつけるこの場所には、日よけになる物がない。木陰に入れば涼しいが、今は一番温度が上がっている時間帯だ。英慈の首筋に幾筋もの汗が流れ落ちている。それに構うことなく、英慈は続けた。 「いろいろ調べたんだろ? 俺のこと……。それに、アイツのことも……」 「はい」 「じゃあ、もう話すことなんて何もない。お前がいう次の世界で、アイツの魂と再会できるなんて……気休めでしかない。絶対にあり得ないって思うから……」 「なぜ、そう思うんですか?」  ミチの問いに、英慈はわずかに目を伏せたまま肩越しに振り返った。そして、ボソリと呟いた。 「俺、嫌われてると思うから。俺の名を何度も呼んで「助けて」って言ってた。アイツを……救えなかった」 「あなたは手を差し出していたんでしょう? 何度も助けようとした」 「したよ……。でもさ、救えなかったって事実は変わらない。真路は、ここにはいない……」  英慈の魂がまた曇っていく。透明度を失くした光の核が、負の力によって黒く変色していくのを止められない。ミチは咄嗟に英慈の二の腕を掴んでいた。驚いて視線を上げた彼を覗き込むようにして声をあげた。 「あなたはまだ生きてるっ。生きてるから出来ることもあるんですよ。――こんなことを聞くのは失礼かと思いますが。真路さんは野崎さんにとって……どんな存在でしたか? ただの幼馴染というには、ちょっと違うような気がしています」  ざわりと周囲の木々が揺れた。それとともに、英慈の心が大きく揺らいだのをミチは見逃さなかった。それまで動じることがなかった彼の目が忙しなく空を彷徨っている。ミチの指先を通じて触れた彼の腕から流れ込んできたのは、とてつもない後悔と荒みきっていた中に突如として現れたぬくもりと愛しさ。友情という言葉では片付けられない、何より複雑で尊いもの……。紛れもなく恋愛感情であったことが窺える。 「――好きだったんじゃないですか? 真路さんのことが……」  一瞬、英慈の体が強張ったのが分かった。それ以上踏み込まれることを拒むように、彼は体を捩じってミチの手を振りほどいた。 「それも、もう忘れた……。思い出せない……。でも、何かが胸につかえているようで、苦しくて……堪らない」  喉元まで出かけた「嘘だ」という言葉を、ミチは寸でのところでグッと呑み込んだ。すぐそばに、苦しげに細い息を吐きながら眉間に深く皺を刻んだ英慈の顔があった。全部忘れたのであれば名前を聞いただけで逆上したり、彼を偲ぶように喫茶店になんか行ったりしない。それなのに、英慈のいう『忘れた』が全部嘘のように聞こえない。 「――した」 「え?」  ミチは自身の耳を疑った。目を見開いたまま英慈の震える唇を見つめた。両手で手摺をギュッと握りしめ、彼はその場にしゃがみ込んで肩を震わせた。 「殺した……。俺は、真路を……殺した」 「野崎さん?」 「俺のなかに……真路はいない。その姿も……思い出せない。なんで……今になって、アイツのことを……。全部、お前のせい……」  誰に告げるでもなく、人知れず自身の中で抱え込んできた深い傷。一度は封じたはずの真路の記憶。それをミチは呼び覚ましてしまった。魂の洗濯屋というのは、クライエントに対して時に残酷なことを強いることもある。思い出したくない記憶、経験、傷……。それを掘り返して魂が傷ついた経緯を探っていく。どんなに心の奥底に隠しても引き出される。それは天使の力量によるが、見た目よく表面を磨いただけでは意味がない。天界上層部の依頼は、完璧な形を成していなければならない。中途半端な洗濯は彼らを失望させ、さらにその魂も行き場を失う。 「――俺のせいにして、いいですから」 「……」 「全部、俺のせいにして構わない。だから……触れさせて下さい。魂が泣いてる……」  ミチの頬を一筋涙が伝った。英慈の体から溢れる悲しみのオーラがミチの足元を包んでいく。それは湧き出した水のように冷たくはあったが、嘘偽りなくどこまでも清らかで透明だった。やはり、彼の魂は他の人とは違う。傷ついて汚れても、その本質は変わらない。そこに巣食った闇が完全に支配する前に彼を救わなければ……。 「大丈夫……。大丈夫、ですから……」  今の彼にどんな声をかけても、薄っぺらな気休めとしか思われないことは分かっている。でも、ミチは彼だけでなく自分にも言い聞かせていた。仕事に自信がないわけではない。しかし、今までのクライエントとはまるで違う。それ故に勝手が分からない。  水飛沫をあげて鳥たちが水面から飛び立っていく。その飛沫に光が当たり、池の中央に小さな虹が出来る。ひとときの幸福。そして、底の見えない池の中に視線を移せば、非情な現実に引き戻される。 『助けて……』  微かではあるがハッキリと、ミチの耳にその声は届いていた。周囲を見回してから、声を押し殺して泣いている英慈の背中を見つめた。そしてまた――。 『彼を……助けて』  ハッと顔をあげ、池の中央部に目を凝らす。しかし、そこには何もない。真路の魂はまだどこかで生きている。その声をミチに届けるために、精一杯の力をふりしぼっている……。 (犠牲になったのは自分なのに……)  ミチは手を伸ばすと、そっと英慈の背中に触れた。そして、ビクッと小さく震えた彼を後ろから抱きしめると、広い背中に額を押し当てて言った。 「俺を、信じて下さい……」  一度は断たれてしまった二人の想い。それを繋ぎとめるためにミチは決意を新たにした。
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