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馬車道よりずっとせまい道が、でこぼこと森の奥まで続いています。けもの道でしょうか。
静かな森だというのに、前に進むにつれなぜかふきつな気配を感じます。ささやくように揺れる木々、昆虫や鳥の羽音、小さな動物の鳴き声や足音。そしてどこか甘ったるい花の匂い。
自分たち以外には誰もいないはずなのに、何やら見張られているような視線も感じて、王子さまはあたりを注意ぶかく見渡しながら進みました。途中、通りすがりの木の幹に、帰りの目印として短剣で深く印をつけておくことも忘れませんでした。
谷間のほそい小道には、小ぶりな、見たこともない花がたくさん咲いています。
不思議なことに、王子さまたちが通りかかると、足元の花たちは花びらを精一杯ひらいて、体を震わせてアピールしました。大きく手を広げるように葉っぱの先を伸ばして、王子さまの素足に触れようとします。脛にふれる葉先がくすぐったくて、王子さまはヒョコヒョコと爪先をすくめながらそこを通り過ぎなければなりませんでした。すると王子さまの抜き足差し足が面白かったのか、乳兄弟のヴァニオンがうしろでぶぶっと笑います。王子さまもつられて笑い、森の不気味な気配のことなど忘れて振り返りました。
「ちょっと、笑かさないで」
「だってお前、歩き方がコソ泥みたいになってんだもん」
「だって、足がくすぐったいんだもん」
王子さまたちが互いの歩調を見てぶぶっと笑い声を上げると、周りに咲いている花たちも楽しそうに茎をゆらします。
ここの花たちは、まるで感情をもっているかのようで、王子さまたちを歓迎しているようです。
でも、だからといってこんな無邪気で可愛らしい小さなお花たちが、成長してしゃべったり、生き物を食べる怪物になるだなんて、誰が信じるでしょうか?
花の小道を通り抜け、喉がかわいたので小川のせせらぎで喉をうるおそうとして、王子さまははたと気がつきました。
「待って。この川の水、大丈夫かな?」
両手ですくって水を飲もうとしていたヴァニオンは手を止めました。
「大丈夫って何が?」
「これって、レテ河の支流だよね? レテの水飲んだら、記憶をなくすって聞いたことがあるよ」
「誰だよ、そんなこと言ったの?」
「それは忘れたけどたぶん、父さまかジェニウスだよ」
「じゃあ飲むなってこと? 喉カラカラなのにどうすりゃいいの」
ヴァニオンは唇を尖らせましたが、王子さまのいう「父さま」とはむろん冥王陛下のことですし、ジェニウスというのは自分のお父さまのことですから、そこはおとなしく引き下がりました。
河の水をあきらめて二人は進みます。ヴァニオンが後ろでブツブツ言っています。
「記憶なくすって言っても、ちょっとぼーっとするか酔っぱらうぐらいじゃないの?」
「酔っぱらったらマズイでしょ、ぼくたちこどもなのに」
人間が飲めば生前の一切の記憶を失うと言われているレテ河の水ですが、魔族が飲んだ場合には確かにちょっとぼんやりして数日記憶が(意識が?)なくなる程度でした。
では神さまが飲んだらどうなるか? それは、冥王さまがだいぶあとになって試され『大事なときに、判断を間違えた』とおっしゃっていたので、やはりひどく酔っ払うのと同じ程度なのでしょうね。なんにせよ、小さい子どもたちが飲まなかったのは正解でした。
ひとまずほかに飲める水はないかと探しながら、また二人は森の奥へと進んでいきました。
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