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6.祖父と願い
母屋の方から複数の大声が聞こえた気がして、解れた着物を繕っていた鈴は針を動かす手を止め、顔を上げて襖を見る。
「茶釜君、母屋の方が慌ただしいね。お客様を招いて宴会でもしているのかな?」
妖達が見えるようになってから母屋へ足を運んでいないため、使用人達の様子も分からないし伯父達の動きが全く分からない。
母屋へ足を向けるといっても台所程度で、伯父一家の生活空間には立ち入ったことは無い。
ただ、宴会にしては聞こえてくる声は怒号というか、悲鳴や物騒な音も混じっている気がするのだ。
前足を伸ばして欠伸をした茶釜犬は、耳を立てて小刻みに動かす。
「んー、ヒヒイロ様が鈴のために動いてくれているんじゃないの? ヒヒイロ様は怖いけれど、鈴のことは護ろうとしているよー」
「緋さんが?」
側を離れるために必要だと言って、鈴の手の側面に噛み付き血を啜った緋が何処へ行ったのか、何をするのかなど気にしていなかった。
「うん。今までは、選んだ相手の傍にくっついているって無かったよ? 鈴はヒヒイロ様にとって特別なんだよ」
「そんなことは」
ない、とは言いきれなかった。
出会ってから数日しか経っていない鈴でも、口は悪くても緋が過保護なのは分かるから。
高梨家の護り刀として祀られていた緋は、恐らく妖達の中でも高い地位に居て畏れられている存在だろう。
言うなればこの屋敷に棲む妖の親分。
隷属契約を結んだからという理由でも、彼が鈴を気にかけてくれているの口は悪くても言葉の端々から伝わってくる。
(口煩いけれど緋さんは優しい。お父さんとかお兄さんって、こんな感じなのかな……)
噛み付かれた手の側面を見ても、犬歯による傷痕もあれほど痛かった痛みも何一つ残っていなかった。
夕暮れ時になると母屋から漏れてくる音は静かになり、乾いた洗濯物を畳む鈴の周りでじゃれていた茶釜犬と毬猫は、動きを止めて耳を立てる。
玄関の戸が開く音に続いて廊下を歩く数人の足音が聞こえ、鈴は出掛けていた緋が帰って来たのかと立ち上がった。
カラリと襖が開き、訪問者の姿を見た鈴は目を瞬かせた。
「お前が、鈴か」
廊下に居たのは、緋ではなく茜色の夕陽を背にして使用人に支えられて立つ翁だった。
翁の白髪は茜色に染まり、姿の見えない緋の瞳の色を彷彿とさせた。
「美幸に、よく似ているな」
室内へ足を踏み入れた翁は目を細め、頭の先から足元まで鈴を一瞥する。
使用人に支えられながら手を伸ばし、震える指で鈴の手を取り彼女の手で包み込むように握った。
「今まで、苦しい生活を強いてしまい……すまなかった」
状況を理解しきれていないで呆ける鈴へ翁は何度も頭を下げる。
「お前の父親が死んだ後、意地を張って幼い鈴を抱えた美幸を助けようとしなかった。御刀様が来てくれなければ何も出来ない、愚かな爺を許しておくれ」
嗚咽混じりに謝罪の言葉を言う翁の目から涙が溢れ出し、鈴の手に甲を濡らしていく。
突然の展開に、理解が追い付いていなかった鈴はようやく彼が何者なのか分かった。
「泣かないで……お祖父さん」
項垂れて涙する祖父へ一歩近付き、握られていない方の手を伸ばした鈴は、震える背中をそっと撫でた。
「後処理で少し騒がしくなる。離れで温かくして待っているんだよ」
「はい。お祖父さんも無理しないでくださいね」
母親の思い出話、高梨家へ引き取られた後のことを一通り話し終え、伯父一家のしでかした面倒事の片付けをすると、祖父は母屋へ戻って行った。
名残惜しそうに、何度も離れの前に立つ鈴を振り返る祖父を見送る。
長らく混濁していた意識が戻ったばかりで、体調も万全でなく使用人に支えられて歩く祖父の後ろに、守るかのように数匹の妖がついて行く。
毬猫が祖父に寄り添うのを見て鈴は微笑んだ。
***
祖父を見送った鈴は、母屋へ戻った祖父の体調と何処かへ出掛けたまま帰って来ない緋のことが気になり、布団に入ってもなかなか寝付けないでいた。
離れに居る妖達の半数は祖父を気にして母屋へ向かったため、今夜はとても静かで鈴は何度目かの寝返りを打つ。
(……あれ?)
襖が開き誰かが部屋へ入って来る気配を感じ取り、頭までかぶっていた掛け布団から鈴は顔を半分だけを出す。
「緋さん?」
薄暗い室内に射し込む月明かりに照らされ、緋が動く度に長い銀髪が煌めくのが眩しくて手で目元を隠した。
「まだ起きていたか」
畳に片膝をついた緋は身を屈めて、掛け布団から顔を全部出した鈴と視線を合わせる。
「お祖父さんを助けてくれてありがとう」
「まだ章政に死んでもらうわけにはいかぬ。糧を得られないことに疑問を抱きつつ、眠っていた俺の責もある」
自嘲の笑みを浮かべて、緋は鈴の目元を体温の低い大きな手で覆う。
「もう遅い。眠れ」
冷たくて心地よい手の平の感触を味わう間もなく、やって来た急激な眠気に襲われた鈴の意識はプツリと途切れた。
翌日、迎えに来た使用人に連れられて母屋へ居を移した鈴は、敷地内から伯父一家が居なくなっていることを知る。
強引に進めた事業へ失敗の責任を取るという理由で、遠方の親類の下へ送られていったのだと女中同士が話しているのを偶然耳にして、この件は触れてはいけないのだと察し祖父に問うのは止めた。
「鈴、何か欲しい物はあるかい? 物でなくともやりたいことでもいい。実現可能なことであれば、このお祖父が叶えよう」
「やりたいこと、ですか」
朝食を済ませ、祖父から問われた鈴は眉尻を下げた。
母屋の部屋に新しい服も贅を尽くした食事も与えられ、ずっと気にかけていた両親の墓も綺麗にしてもらった。これ以上、鈴に欲しい物は無い。
形がある物でなくともよいのならば、何でも叶えてくれるのならば、望みはただ一つ。
「お祖父様、学校に通いたいです」
欲しい物は、学校に通い書物だけでは得られない知識と、自分と同じくらいの年齢の学友と交流だった。
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