神隠し

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神隠し

わたしの、小さな頃の話。 あれはたしか、わたしが5歳になったばかりの真冬のこと。 街中に、ハートの飾りが彩られていたから、きっと2月だろう。 雪が降り積もっていた。 母におつかいを頼まれ、わたしは家のそばの坂道を、道路に張り付いた氷で転ばない様にと、ゆっくり歩いていた。 良くバランスを崩す事の多かったわたしは、すべって転んでしまうのが怖くて、下ばかり向いていた。 そうしたら、前から歩いて来た男の人にぶつかってしまったようだ。 「あっ」 突然の衝撃に驚く間もなく、その場に尻餅をついた。 ーお尻が痛いー 泣きたいのを堪え、顔を仰向けた。 「大丈夫かい?」 ぶつかった男の人は、口だけ笑顔でわたしを見下ろしている。黒いダウンのジャケットにファーのついたフードをかぶり、両手をわたしに差し出して。 「さあ」 「ごめんなさい」 この人には関わってはいけない。 子供心にそう思った。なんだかとても恐ろしかったのだ。 目?そうだ、彼の目は瞼が重く、凄く釣り上がっていた。 「大丈夫かい?」 また同じことを聞かれ、わたしは一度、首を振り、そして何度もうなずいた。 その時、 「葵」 お母さんの声だ。小さなわたしを心配して、家からついて来てくれていたのだ。 見ると母の背中で、妹がスヤスヤ眠っている。 「すみません」 母は男の人に頭を下げるとわたしを立たせ、急ぎ足で商店街の中へ。 その時の母の手からは緊張を感じた。手を引かれながら、わたしはずっと母を見上げていた。 その夜、わたしは熱を出した。フードの中で微笑む、あの男の顔が夢に出て来たからだ。それからひと月、わたしは幼稚園を休んだ。時折、熱を出し、夜泣きもした。馴染んだ家の中であっても、昼間でさえ、どこにも、ひとりでは行けなくなった。トイレもお風呂も廊下も、父か母が一緒について来てくれた。 春が来て、夏が過ぎ、秋が訪れると、あっと言う間に、北海道の厳しい冬がまたやって来た。わたしの街は、見慣れた白い世界になった。 クリスマスイブ、休暇を取った父と母と妹の4人で、近所の商店街に買い物に出た。街路樹の飾りに、クリスマスソング。ただそれだけで心が弾んだ。 「お母さん、たのしいね」 つないだ手を大きく振りながら、親子で凍てつく坂道を歩いた。怖くはなかった。転びそうになったら、お父さんとお母さんが助けてくれる。 店先で、甘酒が売られていた。 お父さんが買って、それを4人で飲んだ。 妹が欲張り、甘酒の入った紙コップをわたしから強引に奪い、残り半分ほどの甘酒がこぼれ、夫婦はパニックだ。わたしはふと、道路の向こう側に目をやった。 その瞬間、背筋が凍りついた。あの時、あの日に感じた恐怖と違和感が蘇る。 あのフードの男が去年と同じ服装で立っていたのだ。その隣には、小さな、わたしよりも小さな女の子が。手を繋いで、並んでこちら側に歩いてくる。横断歩道をゆっくりと、男はわたしの目をじっと見たままで。 母の手を探したが、つかめない。わたしは金縛りにでもあったかのように、その男から目を離せないでいた。 隣を横切る時、男は、声には出さずに何かをつぶやいた。 「いつか、また」 そう言ったように思えた。 15歳の時、近所に住む叔母から聞いた。10年程前、小さな女の子ばかりを狙った変質者が現れ、町は騒然としたと。それがあの時の男だという確証はないが、未だに時折、あの男を夢に見る。 「いつか、また」 降り積もる雪の街で、見掛けた女の子を救えなかった罪なのか、 その声は呪文のように続き、わたしを苦しめている。
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