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不比等は船から上体を乗りだすように水面を覗きこみ、一日千秋の思いで真木を待っていた。
彼が潜ってほどなく縄が引っ張られ、懸命にそれを手繰り寄せるも海上に赫く浮かんでくる朱に気付き、背筋が凍りついた。
縄を引くだけでは到底我慢できず、ついに自分も海に飛び込んで縄の先を探したが、赤い血は濃くなる一方。どう見てもこれは真木のそれとしか思えず、臓腑が絞り込まれるような恐怖が不比等を襲った。
まさか真木が龍神に傷付けられたのではと、狂ったように海水を潜り続け、漂う血のなかで意識を失って沈みかけている身体をついに発見した。
不比等は即座に真木を脇に抱えて水面に顔を出し、ずっしりと重い躯を船縁にどうにか引っ掛け、中に横たえることに成功した。
自分も船に上がって急いで調べると、真木の右の脇腹が傷付いている。
ひと目で致命傷と悟らざるを得ないほどの深手だった。
龍神が害したにしては鋭利な跡に首をひねっていると、傷口の血だまりの奥に宝玉が見え隠れしているではないか。
不比等は彼が何をしたかを悟ると同時に、全身が崩れ落ちるような衝撃を受けた。
龍神の執拗な追撃を逃れるために、かの動物が死の穢れを嫌うことを利用して、真木はこの手段を選んだのかと。
――こんなことをさせるくらいなら、俺は宝なんか要らなかった。
言っただろう、宝よりもお前が大事だって。無茶はするなって。
なのにどうして真木、こんなことをしてまで。
深追いするなって、引き際が大事だって、いつも俺を諌めてたのはお前じゃないか?
あまりに純粋な真木の献身に、不比等は涙をぼろぼろと落とした。
脱いで置いていた着物を傷の上から巻き、血をせめて止めようとしながら頬を撫で、何度も真木の名を呼ぶ。
海水は飲んでいないようだったが、呼吸はせわしなく、苦し気で浅い。
陽に焼けた肌でもそれと判るほど蒼ざめた顔色は灰のようだ。
こんな時に酒でもあればせめて気つけになるのにと歯噛みしていると、重く閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。
「ふ……ひと……」
「真木、気が付いたか、お願いだから気をしっかり持ってくれ、生きてくれ、真木」
真木は焦点を定める力を失いつつある虚ろな目で、不比等を見上げた。
都育ちの貴族と罵った時でさえ涙のひとつも零さなかった男が、霞む視界の向こうで、滂沱と涙を流していた。
悲痛な声で名を呼び、生きてくれと何度も繰り返す。
血まみれの自分の傍で、同じく血まみれになりながら、頬に頬を摺り寄せて。
「どうしてこんなことをしたんだ、無理をするなって、そう言っただろう、どうしてだ、真木、何故こんな――!」
――あれ……おかしいな。泣いてるのか、不比等。
笑ってくれないのか……?
せっかくあんたの綺麗な宝物を取り戻したのに。
俺がこんなだから?
自分で身体を切って、命も危なそうだから……?
傷が痛いはずだった。
命の終わりが厭わしく、苦しいはずだった。
それなのに、真木の心は一杯だった。
幸せだった。
自分はここまで不比等に愛されていたというだけではない。
愛されていた証を見て胸を満たした幸福感の大きさに、自分もまた彼を誰よりも愛していたのだと、改めて判ったからだ。
その男のために命を喪おうが、悔いがあろうはずもなかった。
意識が途切れかけている真木には、面向不背の珠はここにあるぞと自らを指さして告げることはおろか、傷口に沁みる潮水の辛さ、傷そのものの痛さすら認識できなかった。
残った感覚のすべては、目の前の青年にだけ注がれていた。
生きてくれと遠く聞こえる、不比等の叫び。
――俺だって、生きたいよ。
でも不比等、あんたがそれだけ嘆いてくれるなら、もう、死んでもいい。
あんたの役に立てたんだから、それでいいんだ。
命がなくなったって、不幸なんかじゃない……
「泣くなよ……偉い貴族のくせに……」
「真木、真木、お願いだから死なないでくれ、な、一緒に都に行こう、一緒に桜を見ようと約束したじゃないか」
「ああ……そうだったな……あんたの桜……見たかったな……」
もう不比等は自制心を保っていられなくなったのだろう、蒼ざめて行く真木の唇に接吻し、総身で縋って号泣する。
取り乱す恋人の姿を、真木はじっと見守った。
――まるで、子供のよう……
胸に流れ落ちる涙の熱さが、肌に染みとおってゆく。
自分よりもはるかに落ち着いた大人の男なのに、不比等はふとした時、子供らしい我儘さと強引さを見せた。
そんな一面が、真木には愛しくてたまらなかったのだ。
逝かないでくれと嘆く男。
それさえすれば、傍に迫っている死を遠ざけることが出来ると信じているかのように。
駄々っ子のような彼の嘆きに、真木は最後の力を振り絞って微笑みを浮かべる。
その気配を察した不比等は、涙まみれの端整な顔を上げた。
「不比等……」
声にすらならない最期の呼び掛けを、身を屈めた不比等は唇で受け止める。
僅かに触れあい、顔を離した。
互いの心にその想いを刻み込む、侃い視線。
愛おしそうに不比等を見上げるやわらかな瞳が、閉じられた。
もうこの瞳は開かない。
潮に濡れた、黒い瞳は。
昼も夜も忘れて溺れ、海底で絡む草よりも深く、止め処なく縺れあった身体も、自分に応えることはない。
この痛みを、この恨みを、この哀しみを、どこに持って行けばよいのか。
宝を寄越した妹か、それを欲した龍神か、宝を惜しんだ天皇か、主君に忠実に服した己の忠誠心か。
――自分の愛情だ。
この純粋な若者に命を躊躇いもなく捨てさせるほど、彼を愛したから。
そうさせた自分が悪いのだ。
そこまで愛した自分が。
もっと醒めた関係を保っていれば、真木とて不比等のために命を捨てる必要などないと割り切り、龍神相手の賭けに挑むこともなければ、我が身を切り裂いてまで宝を護ろうともしなかっただろう。
無私な彼に、一途な彼に、ここまでさせるほどの愛情を注いだ己が一番悪かったのだ。
慟哭しながら、不比等は還らぬ嘆きを繰り返す。
――愛するのでなかった。
愛さなければこの痛みを味わうこともなかったのに。
我が身よりも愛しい彼を喪って、どうしろと言うのか。
不比等は真木の頬に顔を押し当てたまま、海上の小船の上で泣き崩れた。
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