志度

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 遣唐使の報を聞いて四十日あまりの後、不比等は讃岐国の志度に到着した。  見渡すかぎり砂浜が続く海岸では、夏の爽やかな海風が吹き抜けている。  心配顔の家臣たちとそこで別れた不比等は一人で浜を進み、人里を目指した。  長旅で汚れた衣服が、潮風と汗のせいで肌に貼りつく。  頭巾もあえて外したせいで髪が日光にあぶられ、暑くて不快で仕方がない。  石まじりの砂を踏み続けるうちに、慣れぬ足はどんどん重くなって行く。   それでも、進むしかなかった。  こめかみの汗を袖で拭いつつ、半時(一時間)ばかり歩いて大きそうな集落に辿り着くと、物見高い子供らが周りに素早く集まって来た。しかし大人たちは不審そうに見守るだけだ。  その視線のなか、不比等は縄を綯っている中年男に尋ねた。 「志度浦の龍神というのは、この辺に居るのか?」 「……、……!」  男が何か答えたが、内容が不比等にはさっぱり判らない。  なるほどこれが噂に聞く海人言葉なのかと、苦笑が唇を衝く。  都からこの讃岐に渡る船に乗った際にも、船頭の言葉には随分戸惑ったが、これは船頭の比ではない判りにくさと通じにくさだ。  しかも男は相当怯えていて、どうやらこちらの身なりから地方役人と誤解しているようだった。  想定以上に意思疎通が出来ないことに困っていた折、他の人間が呼んだのか、白髪頭の年寄りが奥の大きな家から現れた。  集落の長らしい風格の老人は、かなり正確な都言葉で不比等に話し掛けてきた。 「お若い方、貴方の話されているのは都言葉のようですな」 「ええ――そうです、船旅をしていた都の者ですが、東のほうで難破しまして、ここまでどうにか辿り着いたのです」  言葉が通じる人間の登場に安心しながらとっさに嘘を吐いて、役人などではないと安心させた。  汚れた恰好を眺めた老人も素直に説明を受け入れたらしく、物腰が和らいだ。 「そうでしたか、それは大変なことで――しかし、ここは讃岐の国でして。都に引き返すなら船がないとどうにもなりませんぞ」 「いや、船も壊れてしまいましたし、供の者とも離れてしまって、帰るあてもないのでこの地に残ろうと考えています……ところでつかぬ事ですが、この近くに龍神が住まうというのは本当ですか」  老人は都の若者がどうして龍神のことを知っているのかという怪訝顔で、それに答えた。 「龍神様はここから半時ほど西に歩いたところの、志度浦においでなさるが……それが何か?」 「船が引っくり返った時に、船頭が『龍神様の仕業だ』と言いましたのでね、少しばかり気になっただけです」  志度はもっと西らしい。歩いて半時というなら、この集落では拠点にするには遠すぎる。志度に行ってみるとの旨を不比等が伝えると、老人は急いで反対した。 「お若い方、悪いことは言わないから止めなさったほうがいい――龍神様に会おうなどとしてはいけません、命が危ないですぞ」  若者はそれを聞いても笑っただけだった。  勝気な性分が、ますますやる気を掻き立てられただけだ。  どう見ても貴人らしき美青年だのに、老人と親しそうに話す難破人の様子に人々はすっかり安心して、別れ際には大人も寄って来るほどになっていた。  気の良い、好奇心旺盛な皆に手を振って礼を言った不比等は、ふたたび歩き始めた。 ※ ※ ※  それからさらに歩いて、再び里らしき地域が見えて来た。  かなりまとまった集落で、大勢が暮らしているようだ。これが志度浦と見当をつけた不比等は、少し小高い所に立って浜辺を見渡した。  ――なぜ彼が、この讃岐まで来たのか。  それは直接龍神の根城に乗り込んで、宝を探索しようと思ったに他ならない。  遣唐使帰朝と宝珠喪失の報せを聞くと同時に、彼はすでにこの計画を立てていた。  周囲は選りによって不比等自身が、それも一人で赴くことに猛反対したけれども、彼の意志は変わらなかった。家臣を沢山連れて行ったところで、現地の人々に不審を抱かせるだけに終わるだろうが、若者ひとりであれば、身軽かつ深いところまでの捜索が可能だと踏んでいたからだった。  聡明だが慎重で穏健だった父と違い、不比等は負けず劣らず聡明でも、強靭な精神力による行動力があった。一度言い出したら誰にも止められないほどに。  父鎌足亡き後に不比等の保護者を勤めた田辺氏一族も説得に加わったが、彼は応じず、ついにここまで来たのである。  宝は、何としても取り戻さねばならない。  今の天皇である天武とその甥である大友皇子が争った九年前の壬申の乱で、父の一族である中臣(なかとみ)氏は多くが後者の陣営に付いた。  政争が皇子の敗北と自刃に終わった後、当然ながら中臣の者達は重罪、斬罪の浮き目を見て、天智天皇時代に築き上げた一族の威勢はおびただしく削がれた。  不比等は幼少のころから鎌足の意向で田辺氏に預けられ、その後も手厚く保護されたおかげで世の騒擾も遠耳にしかしておらず、無事に大きくなったが、壬申の乱から十年近く経った今でも陰に隠れざるを得ない現在の境遇に満足はしていない。  父の時代と同じく、いや、その時よりも藤原の勢力を高め、一族を復興しようとの意欲に満ちていた。  面向不背の珠。  どこから見ても裏がないと言われる、世に二つとない名宝。  妹と一族のためにも、主君のためにもそれを龍神から奪い返してみせる――その覚悟でここまで来た。  これまでの環境とは掛け離れた一般大衆の生活を送るであろうことも、彼の覚悟を引き止めはしなかった。むしろ、何でもやってみせると挑戦的にもなっていた。  が、先程の集落の貧しい様子や厳しい自然、人々と言葉が通じ難いのを目の当たりにして、いささか忸怩たる気持ちになっていたことは否定出来なかった。  初手からこんなことでどうする、と自らを叱咤していると、離れた浜辺に座っているひとりの人影を見付けた。とにかく一刻も早く浦の者に接触しなければならない。不比等はひとまずそこまで下りてみた。
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