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遠目には判らなかったものの、近付いてみるとその人影はかなり若い。
海に向かって胡坐をかいていて、陽に焼けた褐色の背中しか見えないが、細身で筋肉質の体躯であることは一目で判断できる。明らかに海で生活している海人だ。
彼は膝の上に網を広げ、何かを熱心に調べているようだ。
「何をしているのかな」
不比等が声を掛けると、若者はこちらを見上げた。
一瞬――いや、しばらく不比等は茫然としていたと思う。
我に返るのは、若者に返事をされてからだった。
「何か用か」
「あ……ああ、その、君が何をしているのかと……」
らしくなく語調が乱れたのは、若者の思い掛けない美しさに驚いたからだった。
不比等は藤原家の跡継ぎとして大勢の臣下や召使にかしずかれ、すべてに恵まれて生きてきた。高貴の人間として在るのが当たり前だったがために、自然に根差して生きる人々を心のどこかで見下し、都の人間のように洗練された者などいないと思ってもいた。
しかしこの海人は、髪も適当にまとめただけ、腰に着けている物も粗末な藤や麻であるにもかかわらず、それらを忘れさせるほどの美貌を持っていた。凛とした眉や黒い瞳、締まった口元は、柔媚な貴族の子弟とは全然異なる力強さに満ち、特にその切れ長の瞳に見上げられたとき、不比等は心の臓が止まったようにも思えた。
ようやく正気に戻って来たころ、若者が自分の科白を理解していることに気付き、またもや不比等は驚いた。
彼のほうも、少し訛りがあるものの、同じ言葉遣いで返しているではないか。
「君、まさか都の言葉が判るのか」
躊躇いがちの問いに、若者はぶっきらぼうに頷いた。
「ほんのちょっとな……東邑の長に習ったんだ」
東邑の長とは、先ほどの白髪頭の老人だろう。その集落とこの浦は交流があるようだ。頭の中で素早く情報をまとめた不比等は、自分から告げた。
「実は、私は都の人間で、東の方で難破してしまったんだ――船が壊れて帰るあてがないから、ここで暮らそうかと思うんだが」
若者は網を手に持ったままの姿勢で、不比等の身形風体を上から下までじろじろ眺め、うさん臭そうに言った。
「“難破”って、帰れないほど船が壊れちまったってことか? そのわりにはあんたの恰好が上等だな――腰の得物も錆びてる様子はないし、東で船が沈んだなら、今ごろこっちの浦に欠片や死体が着いてるはずだ」
若者の鋭い指摘に、不比等はまたもや絶句するしかなかった。東の邑長でさえ外見の小汚さに作り話を一も二もなく信じたというのに、下げている剣の新しさや潮流に目を付けられるとは。
だがこっちも負けている場合ではない。不比等は適当に言い繕った。
「船の破片はあちこちに散らばっているんじゃないかな、何しろ粉々だったし……私の供は泳ぎが得意だから、どこかの海岸に流れ着いたと思う。剣は自分で研いだんだよ」
「………」
若者はなおも信じない風だったが、黙って聞き流すと、手元の網に視線を戻した。
「まあ、どうでもいいさ。ここで暮らしたいってなら勝手にしろよ、どのみちよそ者はたくさん居るしな。税の取り立てだってこんな田舎までは来やしない、魚さえ獲れればあんたでも生きることはできるさ」
お前に漁は出来ないだろうとの嘲りがあからさまに籠った口調だった。
身分が下の庶民と侮っていた相手に都人と逆に侮られてしまい、不比等の自尊心はおおいに傷付いた。
しかし彼の言うことは容赦ないが、すべて事実でもあった。こちらが機嫌を損ねている場合ではない。この若者ととりあえずは仲良くなっておかないと、他の人間との会話も覚束ないし、漁の仕方も皆目判らないのだから。
言葉はそっけなくとも、彼の人柄は悪くなさそうで、誠意を尽くせばきちんと受け止める人間に見える。ここに住み着く本物の意志を示せば、生活の術を教えてくれそうだった。
不比等は、とにかくこの浦の長に会わせてくれないかと頼んでみた。
若者はやたら熱心な都人の姿勢に『ものすごく変な奴だな、こいつ』という表情をしたが、相手が似た年齢の青年であることに親近感も抱いたのか、いいだろうと答えて網を片手に立ち上がり、偽りの漂着人を志度の集落まで案内した。
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