志度

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「適当に座れ」  長との話が終わったあと、若い海人は不比等を自分の家――不比等基準ではそれは小屋に等しかったが――に案内して、藁を敷いたところを指さした。  どうやらそこが座のようだと推測した不比等は、おずおずと胡坐になる。  あたりを何度見回しても、藁葺(わらぶき)の天井や狭い空間、土と板で作られた粗末な壁につい驚きが隠せない。  都にある自分の屋敷は木材が組まれた、高床式の大きな建屋だった。  しかしこの地の集落ではどこでも竪穴式から脱していない、藁葺屋根の小さな家が寄り集まっている。  都でも外に一歩出れば、稲作で暮らす民衆はそういう家に住んでいたなと思い出したが、まさか自分がその住民の一人になるとはと、不比等は苦笑いを噛み殺す。  板を敷いた場所は湿気対策を施した寝起きの空間なのだろう。清潔な藁を敷いて、藤布の着物が転がっている。 「まったく、なんで俺があんたみたいな奴を世話しなきゃならないんだか」  若者は小声で文句を言いながら、かまどで火を焚いて水を沸かしはじめた。  不比等を志度の長に会わせた際、長は『ここで都の言葉が判るのはお前だけなのだから、お前が面倒見てやるといい』と海人に語った。長の言うことには誰も逆らえないものだ。結局この若者が不比等を自分の家に住まわせ、生活の手立てを教えるはめになってしまったのである。  若者は、浜で出会ったときは腰に布を巻いた漁用の姿だったのが、今では丈の短い上着と同じく短い袴を穿いて、腰を紐で括っている。こうして見ると、不比等よりも若干背が低い。  髪は頭の上で結っているものの、何しろ適当で、前髪はかなり乱れている。しかし顔立ちが良いのと、本人の快活な雰囲気に嵌っているのもあって、都人のように撫で付けているよりもかえって似合っていた。  使用人に食事の支度をしてもらっているのと同じ感覚で、じっと待っていた不比等は、振り返った若者に叱られた。 「あんた何ぼうっとしてんだよ、手伝え」 「あ、これは済まない」  あわてて立ち上がって土間に下りると、若者は不比等の整った顔立ちに物珍しそうに視線を当てて、短く尋ねて来た。 「あんた、名前は」 「え?」 「名無しでこのままやって行くつもりかよ?」  別にそれでも俺は構わないけどな、と言いたそうな若者の悪戯っぽい表情に、不比等は首を振った。 「名乗ってなくて悪かったな、私は不比等と言うんだが……君は?」 「“真木”って呼ばれてるよ」 「まき? それで、苗字は」 「海部(あまべ)でもあるまいし、そんな上等なものはねえよ」  朝廷に租税を納める海の民の集落は海部と呼ばれ、戸籍も付けられている立派な『天皇の民』だが、いかんせん彼らは自由に土地を動いて生活する。そんな集団の戸籍を統括するのは難しく、このような小さな浦になると、地方官吏の統治は届かない場合がほとんどだった。税を納める義務もなく、そのかわり苗字や戸籍を与えられることもない、どこまでも自由ではあるが、決して豊かにはなれない人々だったのである。 「あんたはこのへんの役人とも全然違うし、都でもえらい貴族だったんだろうけどさ。でもここに住み着こうってんなら覚悟しておけよ。俺たちはあんたの召使じゃないんだぞ」 「判っているよ」  腹を据えなければ、自然の中で生きねばならないここでは弾かれる。  天皇家に近しく仕える大貴族の出身などというものは、海に生きる人々には何の威光も力もないし、当然それが生活の糧を得る役に立つわけでもない。  都人のわりに野性的な性質を覗かせる不比等の表情を見て、『真木』と名乗った海人は笑った。 「見込みがありそうだな、あんたは――男振りもいいし、じきによその邑の娘っ子たちも寄って来るだろうよ」 「それはどうも、でも今は目の前の食事が先だな」 「どうせ作り方もろくに知らないんだろ、火の番しててくれりゃいいさ」  真木はかなりはしっこい若者で、あっという間に漂着人の人となりを呑み込み、次々と的確に指示を出す。  もちろん貴族のように漢学や仏教典を学んでいるわけではないけれど、頭の良さ、会話が通じるという面で、この若者に目を付けて親しくなれたのは運が良かったと不比等は密かに安堵した。  龍神の住処に辿り着くには、周辺の地理を知りつくしている海の民に近付くのが一番早い。  ゆえに志度の集落に身を窶して潜りこんだのだが、どうやら上手く行くかもしれないと、不比等は火を守りながら冷静な計算を積み重ねていた。 ※ ※ ※  翌朝、日の出と同時に起きて、二人で海に出た。  すでに壮年の海人や漁師たちは船を出して漁を始めている。海女である妻らも同様だった。  下肢に短く布を巻き、上半身は剥き出しで、腰に縄を付けて海に潜っている。  海上で夫達は縄を持ち、それを操っては妻を海上に引き上げる補助をする。 「女性も潜るのか」  不比等が驚いた声を上げると、真木は聞き取りにくそうに尋ねた。 「“にょしょう”?」 「すまない、女の人のことだよ」 「ああ、女か……もちろん潜るさ、中には俺よりもずっと潜りがうまい海女だっている」  不比等の言い直しに、真木は頷きながら答える。  昨晩話してみて知ったことだが、真木はこちらの台詞をあてずっぽう混じりに理解しているものの、難しい語彙は判らないようだ。不比等にしろ海人言葉はさっぱりだったけれども、真木のおかげで少しは頭に入って来る。  互いの水準に合わせて話すという、親交の第一歩とも言うべき思いやりをこうも早く交わせるようになったのは、同年代ならではの親近感と真木の優しさ、賢さのおかげだ。  海を睨んで波を読んでいる海人の横顔を、不比等は眺めた。  彼の歳は、どうやら不比等と同じ二十二歳らしかった。浦の老人たちが、他界した彼の両親のかわりに『あのころに真木は生まれたかのう』と指を折って数えた結果だ。  とはいえ、貴公子仲間ならば不比等は老成している部類に入るのに、ここでは何も出来ないお坊ちゃんなものだから、真木には完全に子供扱いされている。船に乗って沖に出るなり泳ぐよう促され、そうして見せても、泳ぎの下手さに『あんたそれでよく船が壊れて助かったな』と真木は心底呆れ顔だ。 「仕方ないだろ、都には海がないんだから――難破したときは運が良かったんだ」 「そんなじゃこの浦ではやって行けないぜ、すぐに溺れちまうぞ」 「君に習って、ちゃんと上手くなってやるよ」  悔しくなりながら不比等は強い声で遮った。  覚悟はしていたものの、海で暮らす人々の前では赤子に等しい非力に、不比等は己が心底嫌になってしまった。  だが、海に潜れなければ龍神の探索は叶わない。面向不背の珠に辿りつくことさえできない。こうなれば潜水と泳ぎの技術を一日も早く身に付けようと、不比等は改めて努力を誓った。
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